「……おはよう、ございます。ヤト様……」
明くる日、朝の
挨拶をしてきた花夜の
頬は、ほのかに赤く染まっていた。言葉もどこかぎこちなく、俺と目を合わせようともしない。
「あ、あの……、昨夜は、失礼
致しました。神様に対し、あのような
真似を……」
「俺にしがみついて泣いたことか?
構わん。そもそも先に抱いたのは俺の方だったであろうが」
その言葉に、花夜の顔がさらに赤みを
増す。花夜はしばらく口もきけない様子でうろうろと視線をさまよわせた後、俺に聞こえないと思ったのか、小さな声でつぶやいた。
「ヤト様って、罪作りな
方……」
年頃の少女らしく照れているのだと判断し、俺はその話題にそれ以上は触れなかった。
朝食用の食材を集めて来させるべく、
おもむろに神使の蛇達を
召び出すと、それを見た花夜がハッとしたように腰に下げた小袋に手をやった。
「朝食の
支度ですね。確かまだ袋の中に
乾飯が残っていたはず……」
言いかけ、花夜はふいに言葉を止めた。その指が袋の中から、木の皮に包まれた何かを取り出す。
「何だ、それは」
「
花蘇利へのおみやげにしようと思っていた花の種です。あの日、
木霊の少女からもらった……」
包みを
解き、その花の種を手のひらの上に乗せ、花夜は故郷を振り返った。
朝霞のたなびく
花蘇利の国府は、
曙の光に照らされ、炎のような
朱金の色に
淡く輝いていた。
未だ人の起き出す気配はなく、ただ遠くから
微かに
鶏の鳴く声が聞こえてくる。
花夜は何かを決意した顔で、その場に身を
屈めた。
「ヤトノカミの巫女・花夜の名において、今よりこの花を『
幸有の
花』と名付けます。
幸有の花よ、我が
祈がいを叶えたまえ。その名にかけて、
花蘇利国にこの先も
幸く
有らんことを……」
花夜は種を両手で包み込み、目を閉じて
祈る。その手のひらの内に一瞬、
蛍火のような光が
生れるのが見えた。花夜の
祈がいを込めた
祈魂が、
幸有の花の種に宿った瞬間だった。
花夜はそのまま
素手で地を
掘り、幸有の花の種を一つ
埋めた。
「なぜ、そのようなことをする?」
問うと、花夜は立ち上がり
微笑んだ。
「国内に植えてくることはできませんので、ここに植えて行きます。ここならばいずれ、国の
皆にも見てもらえると思うのです」
「そうではない。なぜ、お前を
棄てた国の幸せなど祈るのだ?国民達は皆、お前のことを簡単に
見放したのだぞ」
「はい。正直に言って、複雑な気持ちはありますけど……。でも、
仕方がないのかも知れません。今になって思うと、私、自分が本当に国の皆を救いたいと思ってきたのか、自分でも分からないんです。もしかしたら私は、
社首としてあるべき理想の姿をただ演じていただけなのかも知れません。皆に認めてもらって、母さまと同じように愛してもらうために」
「しかし、それで国民達のしたことが
許されるわけではないだろう。真意がどうであったとしても、お前が、お前を
疎ましがってきた国民達を
命懸けで守ろうとしていたことは事実だというのに」
「だからと言って、それであの人達を
憎むのでは『負け』だと思うのです」
「……どういうことだ?」
「ひどいことをされたからと言って、ひどいことをし返したとしても、ほんの
一時、心の
憂さが晴れるだけです。そんなことのために自分の心を
穢してしまったら、きっと私は、
自分のことが
嫌いになってしまいます。だって、そんなことをしたら私、あの人達と同じになってしまいますもの。私を
疎ましがり、
無下に扱ってきたあの人達と……」
「だが、何も祈りを
捧げる必要など無いのではないか?」
問うと、花夜は
儚い笑みを浮かべた。
「強がりくらい、させて下さい。本当は許せない気持ちや
悔しい気持ちもいっぱいありますけど、私、強くなりたいんです。
恨みや
憎しみさえ、
慈しみや優しさに変えて、『こんなことは何でもない』って笑えるくらいに、強い人間になりたいんです。だからこれが私の、私なりの、花蘇利に対する
報復なのです。自分を裏切り、
棄てた人達のためにさえ
祈れるような、そんな人間も世の中にいるのだということを、あの人達に思い知らせてやりたいんです。今はまだ、単なる強がりで自己満足に過ぎませんけど……」
言って、花夜はもう一度、目に焼きつけるように故郷を見つめた。
「もう、無理に母さまの
真似をするのはやめにします。ただ母さまの真似ばかりして『理想の巫女』を演じても、母さまのように愛してもらえるわけではないと、もう分かりましたから。私はきっと、
頑張り方を
間違えてしまったのでしょう。母さまのようになろうと自分をを
磨くことにばかり力を
注ぎ、私を取り巻く人々と向き合う努力をしてこなかったのです。
頑張って皆の望むような人間に変わったところで、人々とのふれ合いがなければ、その変化に気づいてももらえません。
人間はただでさえ、自分のことだけで
精一杯な
生物なのですもの。まして、
親しくもない相手の
陰の努力など、認めてくれるわけもなかったのです」
何もかもを
悟ったようなその言い方があまりに
哀しくて、俺は思わず口を
開いていた。
「国民の心を変えられなかったという意味では、確かにお前の努力は実を結ばなかったのかも知れん。だが、お前が自分を
磨いてきたことは決して
無駄ではない。今のお前だからこそ、俺は
契りを結ぼうと決めたのだ。俺は今まで数えきれぬほどの巫女や
男巫に会ってきた。だが、
契りを結んでも良いと思ったのは、お前が初めてだ」
「ヤト様……」
花夜は泣きそうな顔で無理矢理に
微笑んだ。
「ずるいです、ヤト様。そんなに優しくなさらないでください。そんな風にされたら、私、あなたのことを……」
「お前が俺を、何だ?」
聞き取れずに聞き返すと、花夜はハッと
唇を押さえ、
誤魔化すように別の言葉を口にした。
「ねぇ、ヤト様。
覚えていらっしゃいますか?初めて会った日のことを。ヤト様と出会えて私は、初めて自分がひとりではないと感じることができました。国の
社首として、姫として、形だけは多くの人々にかしづかれてきましたし、母さまの魂も見守って下さっています。でも、私は
孤独でした。
寂しくてたまりませんでした。そんな時にあなたと出会い、言葉を
交わして……私は初めて、誰かと共にいることの喜びを知ったのです」
言われて俺は思い出す。あの日の花夜のはにかんだ
笑みを。
「ヤト様が共にいてくださるなら、私、他に何も望みません。私はもう、あなたと
一緒にいられればそれだけで幸せなのです」
「……俺で良いのか?俺はお前を故郷に
留まらせてやることもできない、
無力な神だぞ」
「力の
有無など問題ではありません。
あなただから、そばにいて欲しいのです。これからも共に旅をしていきましょう。
花蘇利の外にもきっと、生きてきて良かったと思えるほどに美しい
景色が、たくさんあるはずですから。
一緒にそれを見つけていきましょう。美しい思い出をたくさん、
積み
重ねていきましょう」
全てを
失くし、
未来も分からぬ
境遇にあってなお、花夜は前を見つめていた。その強さが
眩しく見えて、俺を目を細めた。
昇り始めた朝日を浴びて輝くその笑顔は、今でも手を
伸ばせば届きそうなほど
鮮明に胸に
灼きついている。
神と
人間とでは、生きる速さも生死の
理も、何もかもが
違っている。いづれ別れが
訪れることは、最初から分かっていた。だから、わずかの時間も
惜しむように、一つでも多くの記憶を
刻みつけるように、花夜のことを見つめ続けた。
忘れられぬその記憶が――
触れられそうに
鮮やかで、なのに決して
触れられぬ花夜の笑顔が、
後にどれほど俺の胸をえぐることになるかも知らずに。