元来た道をたどり、再び国境の丘を登る。夕闇に包まれだした故郷を見つめ、花夜は肩を
震わせた。その
唇から、
嗚咽に似た声が
漏れる。だがその
頬に涙は
伝っていなかった。泣くのを必死に
堪えている表情だった。
思えば俺はこの時まで、花夜が泣くところを見たことがなかった。泣きそうに瞳を
潤ませても、いつも寸前で
堪え、涙を流さずにいた。そのことに、この時になってようやく俺は気がついた。
「泣きたいなら思うままに泣けば良いではないか。誰もお前を
咎めたりはしない」
「い、いいえ……泣いたり、など……っ、しません。私は、そんなに……弱くなど、ありません……っ」
震えて思うままにならぬ声で、それでも花夜は必死に強がる。
「世の中の物事には、どんなものであれ存在する意味があると言ったのは、お前だろう。泣くことにも意味はある。
人間は弱さの
証のように言うが、涙は
泣沢女神――涙と浄化を
司る女神からの
贈り物だ。女神の御力の宿った聖なる水が、身の内に
溜まった哀しみや心の底に
澱んだ想いを洗い
浄め、
身体の外へと流し出してくださるのだ」
「…………っ」
言葉にならぬ声を上げ、花夜が泣き
崩れる。俺はその身を包み込むように抱き
締めた。
「……どうして、こうなってしまうんですか?私、
頑張ったのに。
皆に
許して欲しくて。無視したり、ハレモノに触るみたいに
扱うのではなく、普通に接して欲しくて……。だから、必死に努力したり、危険な旅にだって出たのに……っ。なのに、全部
無駄でした。全部、
失くしてしまいました。私は、どうすれば良かったんですか?これから、どうすればいいんですか……?」
俺の
腕にすがりつき、心の内に
溜まったもの、今まで必死に
堪えてきた何もかもを
吐き出すように、花夜は問いをぶつける。
それは、今にして思えば最初で最後の花夜の
泣き
言だった。
だが、俺には
上手い
慰めの言葉が見つからなかった。花夜がこれまで実際にどれほどの努力を
重ねてきたのか、俺は知らない。知っていたとしても、
報われずに散ったその努力に
見合うだけの
慰めを、俺が与えられるとは思えなかった。だから
慰めの
代わりに一つだけ、その時の俺にできることをした。
「
祈言を言え、花夜」
「え……?」
花夜は
弾かれたように顔を上げ、俺を見た。『何を言っているのか分からない』とでも言いたげなその表情に、俺は再び口を
開く。
「たとえ
鎮守となるべき国が俺を
拒んだとしても、俺とお前との
契りは失われてはいない。俺は
お前の神だ。だから
祈がいを言え。俺に
叶えられるものならば何でも叶えてやる」
花夜の顔がくしゃりと
歪んだ。余計にひどくなった
嗚咽を
抑えようとでもするように俺の衣に深く顔を
埋め、花夜は
祈がいを口にした。あいかわらず、あまりに無欲でささやかな
祈がいを……。
「……私を、ひとりにしないで……いっしょに、いて下さい。死ぬまで、ずっと……」
「当たり前だろう。俺はお前の神なのだぞ。お前から
離れたりなどせぬ」
その言葉を、俺はごく自然に口にしていた。
人間の
生涯を見守るということがどういうことなのか、俺は
既に知っていたはずなのに、この時はまるで頭に浮かばなかった。
花夜は俺にしがみつき、泣き続けた。泣いて、泣いて、泣き
疲れ、やがて気を失うように眠ってしまうまで。俺はその小さな
身体を、
暁まで
離さず抱き
締めていた。