郷の見張りに立っていた
鍛冶の一人が敵の
襲来を告げる。
真大刀は緊張した
面持ちで俺の
刀身を
鞘から引き抜いた。
「……
何故だか、いつもより軽い気がするな」
『
我が
霊力をこの
刀身に
漲らせているからな。……良いか、真大刀。戦ならば我の方が
慣れている。我が声に耳を
傾け、我が声の通りに動け』
戦い方なら知っている。
魂の中に刻まれた
数多の戦の記憶により、どういう風に動けば相手を
斃せるかを俺は
熟知していた。
真大刀を死なせないためには、真大刀が傷つけられるより先に相手を
斃さねばならない。――その時はただ、そんな風にしか考えられなかった。
『真大刀、左だ!』
怒号の飛び
交う戦場となった郷を、俺と真大刀は
駆け回った。
大刀を振るったことのない真大刀が俺の
刀身を上手く
扱えるのかと初めのうちは心配したが、真大刀はまるで俺の思考を読んでいるかのように瞬時に俺の指示に
応え、敵を
薙ぎ
倒していった。いや、実際に彼は俺の思考を読み取っていたのかも知れない。真大刀には元々、大刀に
宿る精霊と言葉を
交わすだけの霊力を有していた。その霊力が戦により
研ぎ
澄まされていたのかも知れない。
それは俺の
魂と真大刀の
魂とが
渾然一体となっているかのような感覚だった。俺が真大刀に
操られているのか、俺が真大刀を
操っているのか分からない。そのくらいに、俺たちは一体となっていた。
俺の霊力もまた、戦の中で
研ぎ
澄まされ、真大刀の手に
振るわれ、
昂ぶっていくのが分かる。
(――霊力が
湧いてくる。強くなっていくのが分かる。我は、こんなにも強くなれたのか……)
まるで酒に
酔うかのように、俺は
刀身の内で
昂ぶり
漲るその霊力にいつしか
酔いしれていた。
(真大刀の言う通り、我は本当に神になれるのかも知れない。真大刀とならば、この郷を守ることもできるかも知れない)
だが俺たちの力だけで
郷を守りきれるほど、
戦況は甘くはなかった。兵士の数はあまりにも多く、俺たちが何人かを
斃している間にも他の
郷人たちは次々と
斃れていった。気づけば郷人の姿はほとんど見えず、敵の姿ばかりが郷に
溢れていた。
やがて真大刀の顔にも
徐々に
疲労の色が浮かび始めた。
「……
鉄砂比古様!」
門の前に
鉄砂比古の姿を見つけ、真大刀が
駆け出す。鉄砂比古は何人もの兵士を相手に
鉄槌を
振るい続けていた。
兵士達の
大刀や
鎧は鉄砂比古の鉄槌に
触れただけでぐにゃりと
歪み、形を変え、使い物にならなくなる。だが神とはいえ、目も
脚も不自由な身。その上、兵士達は次から次へと現れる。鉄砂比古の身は
既に
満身創痍だった。
「真大刀、
逃げろ!この郷はもう終わりだ!お前だけでも逃げろ!」
兵士達を
薙ぎ倒しながら鉄砂比古が
叫ぶ。だが真大刀は激しく首を横に
振った。
「行けません!私もあなたと共に戦います!そんなお姿のあなたを置いていくなど……」
今にも泣き出しそうなその声に、鉄砂比古は
硬い声で告げる。
「どの道、俺ももうこの世に長くはいられん。俺の
依代はこの
郷の
鍛冶の血だ。それがここまで
喪われてしまった以上、この存在を
保っていられるのも時間の問題だろう」
「ならば、私もここで共に
果てます!」
真大刀の
頬には
汗とも
涙ともつかぬものが
幾筋も
伝っていた。
鉄砂比古は
肩で息をしながら
哀願するように声を
絞り出す。
「
頼む真大刀、
逃げてくれ。せめてお前一人だけでも。この俺を、ただの一人も守りきれなかった
情けない
鎮守神にしないでくれ」
真大刀はハッとしたように鉄砂比古を見つめた。鉄砂比古は苦痛に
歪む
頬を無理矢理に持ち上げ
笑みを作る。
「行け、真大刀。お前に
幸く
有らんことを
祈っている」
真大刀の手が、強く強く俺の
柄を
握りしめてきた。まるで、何かを
堪えるかのように。
無言のまま鉄砂比古に一礼し、真大刀は後も見ずに走り出した。悲鳴も叫びも涙も、何一つなかった。ただしっかりと
握った手の
震えだけが、真大刀の心を痛いほど俺に伝えてきていた。
「……この
辺りだったな。私とお前が初めて会ったのは」
逃れ逃れてたどり
着いた深い森の中で、辺りを見渡し、一つの木の根元に
疲れたように腰を
下ろし、真大刀はつぶやいた。
その時初めて、俺はそこが自分が真大刀と初めて会った場所であることに気づいた。
いや、そこが本当にその場所だったのか、今となっては分からない。だが俺たちは確かに
魚眼潟の森にいた。
『
大刀雨零る
魚眼潟国』――かつてそう呼ばれていたそこは、東西南を内海に囲まれた地。北は
既に
霧狭司の兵士に固められ、他の三方は水に
阻まれ、もはやこれ以上
何処へ行っても逃げ場など無い。真大刀はそれを俺が気づくよりも早くに
悟っていた。
「今でもはっきりと思い出せる。あれは私にとって初めての旅だったからな」
『
唐突に何を言い出すのだ?真大刀……』
全てを
懐かしむような、それでいて全てを
諦めたかのような静かな
声音に不吉な予感を
覚え、俺は問う。だが真大刀は俺の言葉など聞いていないかのように一方的に語り続ける。
「精霊の宿る大刀と出会ったのは初めてだったからな。顔には出さなかったが、本当は感動していたのだ。あの時お前に会えて、本当に良かった」
普段はひねくれた真大刀の
滅多にない素直な言葉に、
嫌な予感は
増す。
『何を言っているのだ、真大刀。やめろ。お前が素直になると気持ちが悪いと言ったではないか』
俺は何とか真大刀の言葉を止めたくて声無き声を発する。だが真大刀は言葉を止めない。
「私はこのような性格だからな、
郷の同じ
年頃の男たちと
上手くやっていくことができなかった。だから、お前が初めての友のようなものだった。
厭味なことも
散々言ってきたし言われもしたが、お前がいてくれて、私は幸せだったと思う。……ありがとう」
言いながら真大刀は
衣の
裾を
裂き、それで俺の
刀身を
丁寧に
拭い始めた。
『……やめろ、真大刀。何をする気だ!?』
「ここまで
一緒に来てくれたお前をこんな形で
遺していくことは、
心底すまないと思っている。だが私はもはや、
耐えられぬのだ」
『やめるのだ、真大刀!
諦めるな!我とお前の霊力をもってすれば、きっと
退路は
開ける!』
俺は、真大刀がこの逃げ場の無い状況に絶望したのだと思い、そんな言葉を
紡いだ。だが、返ってきたのは俺が思ってもみなかった答えだった。
「……そうではない。私が
耐えられぬのは逃げ続けることに、ではない。自分の手を血で
染め続けることに、だ」
その言葉に、思考が止まる。俺は何も言うことができず、ただ真大刀の言葉の先を待った。
「こうなってみてようやく、私はかつてのお前が味わってきた苦しみを真の意味で理解することができた。……私はもう、どれだけの血を浴びてきたのだろうな?私が
斃した霧狭司の兵士の中には無理矢理に戦へ
駆り出された農夫もいるだろう。その者を大切に想う家族もいるだろう。一方は命令によりやむを
得ず戦わされる身、もう一方は自分の命を守るためやむを得ず戦う身――どちらも戦うことを真に望んでなどいないのに、どちらかの血が流れ、命が
喪われる。戦とはこんなにも
哀しく、
醜いものなのだな……」
真大刀が追っ手との戦いの中で何を考えていたのか、俺はこの時初めて知った。
「他を滅ぼすためではなく、何かを守るために大刀を
鍛える……。その
誇りを胸に生きてきたつもりだった……。だが、今の私が行っているのはまるで逆の行為だ。国も、父も、
鉄砂比古様も……私が大切に想ってきたものたちは、もう何もかも失われてしまった。このまま
永らえたところで、未来などありはしない。なのに……他の誰かの命を奪ってまで守りたいほどの何かを、私は今この手に持っているのだろうか?……もはや、そんなことを考えることにすら、
疲れてしまった……」
言いながら、真大刀はその両手で俺の
刀身を引き寄せた。まるで別れの
抱擁でも
交わしているかのように
両腕で俺の
刀身を
抱え、その刃を自分の
首筋に寄せていく。
真大刀が何をしようとしているのか瞬時に
悟った俺は、声無き声で必死に
叫んだ。
『……やめろ!真大刀!我はお前を殺したくなどない!』
その叫びに真大刀は一瞬だけ動きを止め、俺を見つめた。
そこに
在ったのは、
恐いくらいに静かで、
哀しいくらいに何もかもを
悟りきった、
儚い
微笑みだった。
「血を浴びることを
厭うお前を知りながら、
最期にその
刀身を
穢す私を、
許してくれ」
その言葉を受け止めきれぬうちに、真大刀は両目を
閉じ、その首筋に刃を沈めた。
その瞬間のことで
覚えているのは、
刀身に浴びた真大刀の
血潮の熱さだけだ。何が起きているのかをまるで受け止められぬまま、俺はただその熱さを全身に感じていた。
『……
嘘、だろう?真大刀……』
しばらく
呆けた後、おそるおそる問いかけたが、返る言葉はなかった。熱いほどに感じられていた真大刀の血潮の熱さ、両手のぬくもりさえ、湯が冷めていくように
徐々に、だが確実に、失われていく。
その命の
灯が消えてしまったのだと――それも、他ならぬ俺のこの
刀身により消してしまったのだと理解した瞬間、俺は叫びだしていた。
『……真大刀!目を開けよ!』
戦いの中で
魂が一つになる感覚に
酔って、俺はいつの間にか真大刀の何もかもを分かっているような気になっていた。これまで戦と
無縁だった真大刀が、戦いの中でどれほど心に
傷を
負っていたのか、まるで気づくことができなかった。真大刀の身を守ることにばかり必死で、その心を守ることになど思い
及びもしなかった。
『このようなこと、あってはならぬ!お前までもが命を
喪うなど、あってはならぬ!』
いくら
悔いても、叫んでも、もはや何もかもが
遅かった。それでもなお、俺は声無き声で叫び続けた。叫ばずにはいられなかった。
昼も夜も忘れたように叫び続け、どれほどの時が
経ったか分からない。自分自身でも、このまま
魂が狂ってしまうかと思っていたその時――ひどく
無遠慮な声が森に
響いた。
「おい!こっちへ来いよ!例の
小僧だ。もう死んでいるみたいだぞ」
それは俺達を追ってきた
霧狭司の兵士達だった。
「今まで散々手こずらせてきやがったくせに、こんな所で自害とはな……。だがまぁ、助かったか。この
小僧、異様に強かったからな」
「ああ。これでやっと霧狭司に帰れる。じゃあ、確かにこいつが死んだって
証を将の所へ持って帰ろう」
「おっと、その前に……この
大刀はもらっておこうぜ。相当な上物だからな」
兵士達は言いながら、俺の
刀身を真大刀から引き
剥がした。そのまま、まるで物か何かを
扱うように真大刀の髪をつかみ、乱暴に地の上に引き
倒す。
『……待て。貴様ら、真大刀の身に何をする気だ?』
問うが、兵士達の耳に俺の声無き声は
届かない。
兵士の一人が
仰向けに横たわる真大刀の身の上にまたがり、無言で
大刀を
抜く。その刀身が真大刀のか
細い
喉に振り下ろされようとした瞬間、俺は
魂の底から何か恐ろしいほどに
禍々しく熱いものが
湧き上がってくるのを感じた。
『おのれ、貴様ら!
郷を滅ぼし我らを追いつめただけでは
飽き
足らず、死した真大刀の身までをも
辱めるつもりか!』
魂の奥底からせり上がってくる、
溶岩のように熱く
滾ったそれを、俺は感情の
赴くままに解き放った。瞬間、
刀身から炎が
噴き出す。それは
禍々しいほどに熱く、激しく荒れ狂う炎の霊力だった。
戦場で長年戦火を浴び続けた大刀には火に属する火の霊力が宿りやすくなっている。俺はその負の霊力を、自らの深い怒りと絶望により呼び寄せたのだ。そしてその怒りと絶望は、同時に俺の
魂を狂わせ、
荒魂へと変えていた。
荒魂となった
魂は、常にはあり得ぬような
凄まじい霊力を発現させる。
兵士達は、悲鳴を上げる間も与えられなかった。
瞬き一つ許さぬほどの間に、彼らは骨一本残さず灰と化した。
彼らだけではない。制御を失った荒ぶる霊力は、周囲を次々に巻き込んでいく。森の木も草も、真大刀の
亡骸さえも、全てが灰となり消えていく。
そしてその炎の中、俺はふいに、自分が人の形へと変化していることに気づいた。
「……何だ、これは……。俺は……神になったと言うのか……?」
荒魂となることで急速に
膨れ上がった霊力が、俺という存在を単なる精霊から神という高次元の存在へと一気に押し上げたのだ。
「……
違うだろう、真大刀!いずれ俺を神にしてみせると言ったのは、こういうことではなかったはずだ!何もかも失って、それで神になったとしても、何の意味がある!?」
神となったことを自覚してもなお、吹き荒れる炎は、狂おしいまでの怒りと絶望は、少しも
治まることはなかった。その炎はいつしか、俺の身さえも
呑み
込もうとしていた。だが俺はそれを
避けようとはしなかった。
(……それもまあ、良いだろう。この炎で我が身も共に
葬れるのならば。……もしかしたら、真大刀や
郷の
皆のいる場所へ行けるかも知れん……)
俺は目を閉じ、その炎の波に身を
委ねようとした。だが、怒りを忘れ、終わりを
覚悟したその瞬間、変化が起こった。
「…………っ!?これは……何だ?」
俺の
左頬から胸にかけてと、両足の甲に、ふいに金の光が浮かび上がったのだ。同時にそこから炎を打ち消すように、水の霊力が
噴き出してくる。
「
何故だ……?何故、水の霊力が……」
その霊力の源を探ろうと金の光に目を
凝らし……俺は息を
呑んだ。水の霊力が
噴き出すその場所に
在ったのは、真大刀が守り
文様として俺に刻ませた、三頭の金の龍の文様だった。
『……龍を選んだのは、水の
眷属たる“龍”を守り文様とすることで、水の霊力の加護を得るためです。戦場で長年戦火を浴びてきたこの大刀には、火に属する負の霊力が息づきやすくなっておりますから』
いつかの真大刀の声が頭の中に
蘇る。俺は
震える指で、
頬に現れたその文様をなぞった。
「真大刀……、お前は、どうしてこんな……」
水の霊力が、
火照った
身体の熱を
冷ますように、俺の霊を
鎮めていく。周囲で荒れ狂っていた炎の霊力も、少しずつ静かな水の霊力へと変わり消えていく。
その水の霊力にくるまれて、俺の身は再び別の形へと変化していった。人の
肌から、銀の
鱗に
覆われた肌へと。そしてその身は長く
伸びてくねり、額には
角が
生えてくる。人の姿から、真大刀が刀身に刻んだ通りの龍の姿へ……。
だが、俺の身は龍に変わることはなかった。精霊から神へと変わったばかりの俺に、完全に龍と化すだけの霊力は無く、俺は額に
角を生やした
中途半端な
蛇神となった。そして後には
鬱蒼と
繁る森の中、そこだけぽっかり丸く
開けた黒い
焼野原だけが残されていた。