第十二章 嵐の果て

「真大刀……」
 無理矢理引きずり出されたその記憶は、時を()ても(なお)()せることのない悲しみと怒りに(いろど)られていた。
 なぜ鉄砂郷(かなさのさと)真大刀(またち)が滅ぼされねばならなかったのか、あの時どうしていれば全てを(うしな)わずに()んだのか、未だに答えは見つけられない。この胸に渦巻(うずま)く憎しみを、怒りを、後悔(こうかい)を、絶望を、どこへ向ければ良いのか、そのやり場も分からない。行き場の無い感情の波は、ただ混沌(こんとん)として身の内を荒れ狂う。
「思い出したであろう?人間(ヒト)というものがいかに(おろ)かなものであるかを……。見よ、汝の大切なものたちを奪った霧狭司(むさし)の国民たちは、今も自分のことばかりを考え、互いに醜く争っておるぞ」
 優しく(さと)してでもいるかのような女神の声に、俺は(うなが)されるまま、視線を下へ向けた。
 屋根の破れた宮殿の内部では、人々が俺たちの方を指差しながら、何事か言い争っている。その中には(あふ)れてくる水を()けようと、一人だけ厨子(ずし)の上に上がり、他の者を上がらせまいと足蹴(あしげ)にしている者までいた。
「……何と愚かな。これが、霧狭司国(むさしのくに)の宮殿……。真大刀を、鉄砂の郷を滅ぼした、霧狭司国の……」
 ざわりと(うろこ)が震えた。(たましい)がふつふつと(たぎ)っていく。心が荒ぶっていくのが分かる。
「昔も、今も変わらぬ。他人(ひと)の命を命とも思わぬ(やから)ばかりだ。このような国など、滅びてしまえばいい」
 その(くら)い呟きに、泊瀬(はつせ)花夜(かや)がはっとしたように息を()む気配が背中越しに伝わってくる。
「あんたまで、どうしたんだ!?ミヅハ様を説得するんじゃなかったのか!?」
「ヤト様!水神様のお怒りに引きずられてはいけません!ヤト様まで荒魂(アラミタマ)となってしまっては駄目(だめ)です!」
 花夜の声に、俺はわずかに正気を取り戻す。だが(すで)に湧いてしまった怒りは、そう容易(たやす)(おさ)まってはくれない。それは押し寄せる波のように、再び俺の意識を(さら)っていこうとする。
「……駄目だ。この怒りは自らの力では(おさ)えきれぬ。このままでは俺は荒魂(アラタマ)と化してしまう……!」
 今にも(あふ)れ出しそうな怒りや憎しみを必死に(こら)えながら、俺は震える声を振り(しぼ)り花夜に告げる。
「花夜……逃げよ!俺が正気でいるうちに、鳥羽(とわ)の翼を使って逃げるのだ!」
だが花夜(かや)はその言葉を即座(そくざ)拒否(きょひ)した。
「行けません!そんな風に苦しんでいらっしゃるあなたを置いて逃げるなど、できるはずがありません!私は、あなたの巫女なのですから……!」
馬鹿(ばか)なことを言うな!荒魂(アラタマ)と化してしまえば、俺にもお前のことが分からなくなってしまうかも知れん。巫女だからと言って傷つけられないという保証など無いのだぞ!」
 花夜を一刻も早く逃がしたいという一心で、思わず語気(ごき)が荒くなる。だが花夜は(ひる)むことなく静かに言葉を返してきた。
「馬鹿なことではありません。ヤト様の(ミタマ)(しず)めるのは巫女である私の役目。私はあなたの巫女で、あなたは私の神様なのですもの。これは他の誰にも(ゆず)ることのできない私の(ほこ)りなのです。だから……」
 言いながら、花夜は俺の背にうつ()せるように身を(たお)し、その両腕(りょううで)で俺の(からだ)()きしめた。ほわりとしたぬくもりが、背中から(つた)わってくる。
「私を遠ざけないでください。あなたのその苦しみを、私にも()わせてください。(ひと)りでは抱えきれないその感情を、私にも分かち合わせてください」
 言葉と同時に優しい霊力が、()れ合った花夜の身体(からだ)を通して俺の中に流れ込んでくる。
 五鈴鏡(ごれいきょう)の中にわずかに残った鳥羽(とわ)の霊力と、花夜自身の霊力だ。それがまるで母が我が子を優しい手で()でるかのように、荒ぶる(たましい)(なだ)めていく。
「……何という、深い悲しみと(いか)りでしょう……。こんな感情を、あなたはずっと(むね)の奥底に秘めていらっしゃったのですね……」
 俺の(からだ)を抱きしめながら、花夜は悲しむように、あるいは(いとお)おしむかのように(ささや)きかける。
駄目(だめ)だ、花夜!人間(ヒト)の身で神の怒りに触れるなど、正気(しょうき)沙汰(さた)ではない!下手(へた)をすればお前まで(たましい)を狂わせてしまうぞ!」
 花夜がその霊力を(かい)して俺の(たましい)の中の荒ぶる感情に“触れて”いることを(さと)り、俺は()()が引く思いで(さけ)んだ。
「いいえ。大丈夫(だいじょうぶ)です。荒魂(アラミタマ)になったりなどいたしません。私も、あなたも……」
 (たましい)渦巻(うずま)く怒りや憎しみがどの程度(ていど)のものなのか、自分自身が一番良く分かっている。制御(せいぎょ)もできぬほどのそれを、霊力を介して確かに味わっているはずなのに、花夜はその怒りに引きずられることもなく、不思議(ふしぎ)なほど(おだ)やかに言葉を続ける。
「……ヤト様。私、前に(もう)()げたことがありますよね。どんなものにでも存在(そんざい)する意味があるのだと。“怒り”にもきっと、存在する理由はあります。怒りは、(こころ)(ふる)わせる力です。心を普段の何倍にも強くし、困難に立ち向かうための活力を与えてくれる(たましい)の働きです。ひどい出来事(できごと)()って、怒りを(おぼ)えること自体は、きっと悪いことなんかじゃないんです。当たり前のことなんです。大切なのはきっと、その怒りをどう使うか(・・・・・)なんです」
「怒りをどう使うか……だと?怒りに破壊(はかい)以外の使い道などあるものか。俺の大切なものたちを奪った霧狭司(むさし)の人間どもを(ほろ)ぼさぬ(かぎ)り、俺の心は()れぬのだ……!」
「いいえ。それでは憎しみの連鎖(れんさ)を生むだけです。あなたがなさりたいのは、本当にそんなことなのですか?あなたの大切なものを(うば)った者たちと同じように、(だれ)かの大切なものを(うば)い、あなたが憎んでいらっしゃるものと同じ存在になり()てることが、本当にあなたのなさりたいことなのですか!?」
 俺の(たましい)に触れる花夜の霊力が、一瞬だけ平手打ちでもするかのように(はげ)しくなった。
 その時、俺は雨の吹き(すさ)ぶ中空に刹那(せつな)の幻影を見た。
 それは荒魂(アラタマ)と化し、全身に禍々(まがまが)しい炎をまとわせ(たけ)り狂う俺自身の姿だった。その(ひとみ)に宿るものは、人を人とも思わず、ただ自らの心を()たすためだけに破壊を(よろこ)ぶ、おぞましい光だ。まるで俺が嫌悪(けんお)する霧狭司(むさし)の姿そのもののような、変わり果てた俺の姿……。
「ねぇ、ヤト様……。そのお力を、破壊のために使う必要なんてありませんよ。もっと(ちが)うことに使って()いんですよ。そのお力があれば、ただ一時の()さを晴らすことなどよりもっと素晴らしいことができるはずです。そのお力があれば、きっと何かが変えられます。だから……そのお力を、もっと違うことに使いましょう。他人(ひと)を傷つけて憎しみの連鎖(れんさ)を生み出すためではなく、ヤト様も私も、皆が幸せになれることに……」
 俺の中で熱く(たぎ)っていた荒ぶる霊力が、花夜の(そそ)()む優しい霊力と(から)み合い、()け合い、あたたかな奔流(ほんりゅう)となって(からだ)の中を()(めぐ)る。それは決して不快(ふかい)なものではなく、むしろ()の中で()かされ生まれ変わっていったあの時のような心地良(ここちよ)さを(ともな)うものだった。
 同時に、俺の(からだ)が銀の()(とも)したように輝きだす。目も(くら)むほどの光の中、俺の(からだ)はゆっくりと形を変えていった。手足が()び、(たてがみ)()え、(つの)の形も変わっていく。
「な、何だ!?何が起こっているんだ!?これは……この姿は……まさか、龍!?」
 泊瀬(はつせ)(あわ)てたような声を背に聞きながら、俺は自分の身に何が起きたかをすっかり理解していた。
 俺の(からだ)(つの)の生えた大蛇(だいじゃ)から、銀の(うろこ)を持つ龍へとすっかり変貌(へんぼう)()げていた。破壊へ向かおうとしていた俺の荒ぶる霊力を、花夜が優しい霊力に変換し、その霊力により俺は蛇神(じゃしん)よりさらに神格の高い龍神へと進化したのだ。
 直後、俺の(からだ)の周りで白い光の羽根が一斉(いっせい)()()った。残り少なかった鳥羽(とわ)の霊力が()きた瞬間だった。
「母さま……。ありがとう」
 花夜のか(ぼそ)(ふる)える声が聞こえる。
「花夜……すまない。俺が(たましい)を荒ぶらせたばかりに、鳥羽の霊力まで……」
「……いいえ。(おそ)かれ早かれ、こうなっていたのですもの……。ヤト様のせいではありません」
 (いか)れる神の(たましい)に触れた影響か、花夜の声にはさすがに疲労(ひろう)がにじみ、弱々しくなっていた。
大丈夫(だいじょうぶ)か?花夜姫……」
「ええ。少し、(つか)れただけです。それよりも泊瀬王子(はつせのみこ)、今度はあなたの番です。水波女神を元に戻せるのは、きっとあなただけ……。難しいことを考える必要はありません。ただ、あなたの想いの全てを素直にぶつければ良いのです。私がヤト様に対してそうしたように……」
「……そうだな。分かった」
 その声には先ほどまでの取り(みだ)した様子はまるで無く、ただ深い決意が感じられた。
 泊瀬はそれまで俺の身にしがみつくようにうつ()せていた身を起こし、女神へ向け声を張り上げる。
「ミヅハ様!どうか御心を(しず)めて下さい!これ以上宮処(みやこ)を壊さないで下さい!」
 女神はゆっくりと首をめぐらせて泊瀬を見た。
「泊瀬よ、何故宮処を(かば)う?王子(みこ)としての責任感からか?宮処に住むのがいかに身勝手で情の無い者達か、お前も知っていように。お前やお前の母が何度命を狙われてきたか、何度悲しい目に()わされてきたか、我は知っておるぞ」
 その言葉に、泊瀬はその出来事を思い出すかのようにしばし無言になった。だが彼はすぐに女神の言葉を否定(ひてい)する。
「……(ちが)います。俺は王子(みこ)の責任だとか、そんな立派な理由であなたを止めたいわけではありません。この宮処(みやこ)に住む人間全てを許せるような器の大きい人間でもありません。ただ俺は、あなたにもうこれ以上、(つら)い思いをして欲しくないだけなんです」
「何を言うか。辛い思いなど、()うにしている。こんな思いをもうせぬために、我はこの国を清めるのだ」
「違う!そんなことをしても(つら)い出来事はなくならない!正気に戻ったあなたが、今までより一層、罪の意識を感じて辛くなるだけだ!……たとえどんな不幸が(おそ)ってきたって、変わらない人間は変わらない。前にあなたがおっしゃっていたように、(ばつ)を与えても改心しない罪人がいるのと同じことだ。自業自得(じごうじとく)(わざわ)いだって、他人(ひと)のせいにして(なげ)くような人間だっているんだ。人間(ひと)の心の(おろ)かさはきっと、多かれ少なかれ(だれ)もが(みな)、持っているもの。一人一人が何とかそれを克服(こくふく)して生きていくしかないんだ。そしてその乗り越え方はきっと、人によって全く(ちが)うんだ。だから、こんなことしても意味なんて無い!俺たちはただ、地道に一人一人の心を変えられる努力をして、そうやって世間を改めていくしかないんだ!」
 その叫びに、女神の(ひとみ)が心なしか哀しげに(うる)んだように見えた。
「お前のように熱い(こころざし)を持ち、地道に人々を変えようとした者は今までにもいた。だがいつの時代も、そうやって世間を変えようと足掻(あが)くのは、ほんの一握(ひとにぎ)りの人間ばかり。他の多くの者達は己や国の()り方を変えることなど(つゆ)ほども考えておらぬ。そして一握りの人間の言葉や努力など、他の多くの(おろ)かな者達により容易(たやす)()みにじられ、(にぎ)りつぶされてしまう。我はもう何度も見てきた。たとえ何年、何百の歳月を待ったとしても、世間は変わったりなどせぬ。もう、信じることにも希望を持つことにも()いた」
 言って、女神は大きく(あぎと)(ひら)いた。その(のど)の奥から、背筋が(こお)りつくような咆哮(ほうこう)(ひび)(わた)る。そしてその声に呼応(こおう)するかのように、宮処(みやこ)(はし)、土色に(にご)った霊河(ひかわ)で、幾つもの水竜巻(みずたつまき)が立ち(のぼ)った。それはまるで鎌首(かまくび)を持ち上げる幾匹(いくひき)もの大蛇(だいじゃ)のようだった。
霊河(ひかわ)よ、我が従神(じゅうしん)たる霊河比売(ヒカワヒメ)よ、荒れ狂え。荒河(あらかわ)となり宮処(みやこ)破壊(はかい)せよ」
「やめてくれ!ミヅハ様!」
 泊瀬は()()いになり、少しでも女神の近くへ行こうと必死に俺の頭の方へと(のぼ)っていく。
(たの)む!この国を壊さないでくれ!こんな国でも、こんな世界でも、俺は愛しているんだ!」
「何故だ?何故、愛せる?今までに何度殺されかけたか分からぬと言うに」
「あなたがいるからだ!あなたが教えてくれたんだ!この世にも、生きていて良かったと思えることがあると。あなたが俺を愛してくれたから、俺もこの世界を愛することができたんだ!そのあなたが、この国を壊してしまわないでくれ!」
「壊すのではない。一度(あら)(きよ)めるのだ。『たとえどんな不幸が(おそ)おうと変わらぬ人間は変わらぬ』とお前は言ったが、それでも大きな災厄(さいやく)には国を動かし、歴史を変えるだけの力がある。我はそれを知っておる」
「ミヅハ様……」
 泊瀬の(くちびる)から絶望の(うめ)きが()れる。彼はしばらく無言で打ちひしがれたように俺の(からだ)()()していたが、やがて覚悟(かくご)を決めたように俺の首の上に立ち上がった。
泊瀬王子(はつせのみこ)!そこで立ち上がっては危険(きけん)です!」
 花夜の制止の声にも(かま)わず、泊瀬は静かに女神に話しかける。
「――『(うしな)って初めて気づくような重大なものを失くして初めて、人間は目覚め、心を改める』。あなたはそうおっしゃいましたね。あなたは人間ではないし、俺があなたにとってそれほど重大なものなのかは分かりません。でも、この身があなたをその怒りや憎しみから()(はな)つための(にえ)となれるなら、本望(ほんもう)です」
泊瀬王子(はつせのみこ)、何を……。まさか……」
 花夜が気づき、制止しようとする。だが極度(きょくど)疲労(ひろう)で力を失った身体(からだ)は、泊瀬に近づくため俺の身の上を()いずることもできない。
「ミヅハ様、今の俺があるのはあなたのおかげだ。宮中という(せま)い世間しか知らなかった俺に、毎夜いろいろなことを教えて下さった。悲しいことが起こると、一緒に泣いて(なぐさ)めて下さった。俺の人生は、あなたとの思い出でいっぱいだ。あなたに(つら)い思いをさせずに()むのなら、そしてあなたの身の一部となって終われるのなら、()いはない。だから……俺の身一つを贖物(あがもの)として、この国の全ての罪を(ゆる)してくれ」
そう言うと泊瀬(はつせ)は静かに数歩下がった。そして気合(きあい)(みなぎ)らせるかのような、あるいは恐怖や迷いを無理矢理打ち消そうとでもいうかのような雄叫(おたけ)びとともに、俺の(からだ)の上を一気に背から頭まで()()ける。
「いけません……っ、泊瀬王子(はつせのみこ)……!」
 花夜(かや)が悲鳴じみた声で名を呼ぶ。
 だが、泊瀬の身は(すで)に宙を()んでいた。俺の(ひたい)()り、走ってきた勢いそのままに、女神の身を目がけ跳躍(ちょうやく)する。そのまだ大人になりきれぬ小さな身体(からだ)はゆるやかな放物線を(えが)き、さらなる嵐を呼ぶため大きく(ひら)かれた女神の(あぎと)の中へ()()ぐに飛び込んでいった。
泊瀬王子(はつせのみこ)!」
 花夜の悲鳴とともに、派手(はで)水音(みずおと)が響いた。水で構成された女神の()(とお)った(からだ)に、泊瀬の身が沈んでいくのが見える。その口から空気の(あわ)がいくつも()き出され、その顔が苦悶(くもん)(ゆが)んでいくのが見える。
「はつ……せ……」
 女神の(あお)(ひとみ)が、呆然(ぼうぜん)としたように大きく見開(みひら)かれる。その口から、再び声が(ほとばし)る。だがそれは嵐を呼ぶための咆哮(ほうこう)ではなく、天地を引き()くかのように狂おしく、悲痛な叫びだった。
 女神の(からだ)を満たす水が、沸騰(ふっとう)するかのように激しく泡立ち、(ふる)える。静かな波模様(なみもよう)のように整然と(なら)んでいた(うろこ)(いびつ)逆立(さかだ)ち、その(からだ)自体も、まるで見えざる手で粘土(ねんど)をこねくり回してでもいるかのようにぐねぐねと(ゆが)み、形を失っていく。
泊瀬(はつせ)……駄目(だめ)だ。死んではならぬ!我は、お前に命を(ささ)げてもらいたいわけではない!我が……(わらわ)が欲しいのは……!」
 その時、幾百もの稲妻が一斉(いっせい)に天に(ひらめ)いた。天地の全てが青白く染め上げられ、何も見えなくなる。地の果てまでをも(ふる)わせるような轟音(ごうおん)に、他の何も聞こえなくなる。
 やがて(まぶ)しさに(くら)んだ()がやっと慣れてきた時、そこには(すで)に水の(からだ)を持つ龍の姿はなかった。激しい風雨もいつの()にか()み、黒雲も少しずつ薄らいでいく。そして水の龍が浮かんでいたはずの場所には一柱(ひとはしら)の女神の姿があった。
泊瀬(はつせ)、泊瀬……何とばかな子だ……。(わらわ)を救うために命を捧げるなど……。それで妾がどれほど(かな)しむか、お前には分かっておらぬのか……?」
 ずぶ()れの泊瀬の身を(いと)しげに抱きしめ、はらはらと(なみだ)(こぼ)しているのは、銀の(かみ)(あお)(ひとみ)の女神――水波女神(ミヅハノメノカミ)。だがその姿は以前に見た幼女の姿ではなかった。
「いや……ばかなことをしたわけではないな。お前は(わらわ)に思い知らせようとしたのだろう?人間(ひと)の心を改めさせるために大切なものを奪う――それがどれほど人間(ひと)の情や命を無視した、一方的で(ひど)い理屈なのかということを……。後になって目を()ましたところで、(うしな)ったものはもう取り戻せはしない。そうして喪われてしまうものが、どれほど(わらわ)にとって、そしてこの世界にとって、必要で、貴重で、かけがえのないものか知れないと言うのに……」
「……水波女神(ミヅハノメノカミ)……?」
 花夜がおそるおそる呼びかけると、女神は涙に()れた目をこちらへ向け、(はかな)げに微笑(ほほえ)んだ。
「もう大丈夫(だいじょうぶ)だ。(わらわ)(たましい)和魂(ニギタマ)へと戻った。泊瀬のおかげでな」
 泊瀬の顔を(のぞ)()み白い指で優しく(ほお)()でる女神の姿は、すっかり大人(おとな)の女性のものへと変わっていた。一度荒魂(アラミタマ)と化したことにより、長年の封印で失われていた霊力が戻り、大人の姿を取り戻したのだ。
泊瀬王子(はつせのみこ)は……!?」
「大丈夫。気を失っているだけだ。(わらわ)が元に戻るのがあと一歩でも(おく)れていれば(あぶ)なかったがな……」
 言って、女神は泊瀬の額に()れて()りつく前髪をそっと()きやる。
「水を通して、泊瀬の心が(わらわ)(つた)わってきた。言葉を(こば)む妾の中に、文字通り無理矢理飛び込んで、全身で想いをぶつけてきてくれた。今まであれほど(つら)き日々を送ってきたというのに、この子の心には愛が(あふ)れている。(わらわ)を、そしてこの世界を愛してくれている」
 女神は(なみだ)(ぬぐ)い、強い決意を秘めた眼差(まなざ)しで地を見下ろした。
「お前がそれほどに愛し、()がうのであれば、(わらわ)(ゆる)そう。この世界を。お前が妾とこの世界を愛してくれているように、(わらわ)泊瀬(はつせ)の生きるこの時代を愛している。(いか)りを(おぼ)えるものも多く、全てを(ゆる)せるわけではないが、それでもせめて、愛せるものたちだけでも愛して生きていこう。愛するものがそこに()ってくれるというだけで、(みにく)(けが)れた世界でも美しく見えることがある。そうやって、少しずつでも、この世界を愛せるようになっていけば良いのだな。お前のように……」
 雲間(くもま)から、金色(こんじき)の布を()らしたように光が差し込んでくる。空を(おお)っていた雲も、まるで(よど)んでいた水が洗い流されていくかのように風に吹き流されていく。風雨の()んだ地上を見下ろすと、そこには嵐の名残(なご)りの水溜(みずたま)りが、鏡のように静かに空の色彩(いろ)を映していた。

 
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