序章 花咲く頃に君を想う

 外は雨だった。けぶるように降る春雨は、山々を白く霞ませ、森の色を一層深く濃く見せていた。
「せっかくの月待の日に、あいにくのお天気ですねぇ」
 茶店の主が苦笑混じりに話しかけてくる。
「月待?……あぁ、今流行りのアレか」
 俺は適当に答え、茶をすする。月待とは月待講のことで、いつの頃からか流行りだした月神信仰の一種だ。夜半に出る二十三夜の月を待ち、月神に供物を捧げて夜通しの宴を行えば、願いが叶うという。
「おや、お客さんは願掛けなさらないんですか?」
「あいにく、神に叶えられる類の願いなど、持っておらぬからな。この辺りではそんなに月待が盛んなのか?」
「へぇ、そりゃもう盛んですねぇ。特に、こんな風に龍神様の泪雨の降る頃には。龍神様のご加護もあって願いが叶いやすいとか何とかで」
「龍神の……泪雨?」
 さすがに聞き咎め、その言葉を繰り返すと、店主は笑って(そら)を仰いだ。
「この雨のことですよ。この時季になると、この辺りの山で天を飛ぶ龍神様のお姿が見られるそうで、いつしか春の、こんな風にしとしと降る雨を『龍神様の泪雨』と呼ぶようになったそうです。龍神様の流す泪が雨となり天から降ってくるのだと」
 俺は何も答えずに茶を飲み干した。苦いものが胸に広がるのを感じる。
「馳走になった。勘定を頼む」
「もう行かれるんですか?まだ雨は止んでおりませんよ」
「構わん。これしきの雨、大したことではない」
 勘定を済ませ、そのまま店を出ようとし、俺はふと思いついて店主に声を掛けた。
「そうだ。お前、花は好きか?」
「花?へぇ、好きと言えば好きですが」
「ならば、これをやろう」
 渡された花の種に店主は首を傾げる。
「これはどうも。で、これは何の種なんです?」
「幸を呼ぶ花の種だ。『自分以外の誰か』の幸を強く願って育てれば、やがて花咲く時、見る者全てに幸を与えてくれる」
「へ……?」
 店主の疑問の声には答えず、俺は今度こそ店を後にした。

 しばらく峠の道を行き、人気が無くなったのを見計らい、俺は変化を解いた。否、新たに変化し直したと言った方が正しいかもしれない。
 俺の姿は、人の形から、銀の鱗に覆われた長大な龍の姿へと変じていた。そのまま俺は前肢(まえあし)(くう)をかき、灰色に曇った天へ向け、滑るように泳ぎだす。
 そう、この辺りの村人がこの時季に見るという龍神とは、俺のことだ。ただし、今降るこの雨は俺の泪などではない。俺の泪はとうに涸れ果て、おそらく、もう流れることはない。けれど、もしもこの雨が、もう泣くこともできぬ俺の代わりに天が流す泪なのだとしたら、俺も少しは救われる気がする。

 絹糸のような雨に鱗を洗われながら天を泳いでいくと、緑一色だった眼下に、ふいに鮮やかな色彩が現れた。それは、険しい山々の合間に隠れるように存在する花園。急峻な崖に守られ、俗人では登ることも下りることもできぬ、秘められた花園だ。俺は再び人の姿へと変じ、そこへと降り立った。
 花園の中央には、まるで墓標のように一本の木が立っている。俺はいつものようにその木に歩み寄り、愛しむようにその木肌に触れた。そうして、呼びかける。この木の下に眠る、もうどんなに呼んだところで声の届くことのない君へ。
 花夜(かや)、俺は君を忘れない。幾百の歳月を越えて尚。
 目を閉じれば、今でも君との思い出が蘇る。君と過ごした、短い、けれど幾百の歳月にも勝るほどに濃く、満ち足りた日々が……。

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和風ファンタジー小説|花咲く夜に君の名を呼ぶ
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