始まりは、一羽の鳥だった。鬱蒼と繁る森の中、そこだけぽっかり円く開けた天を真っ直ぐに横切っていくそれは、まるで何もない碧の世界に一筋の白い線を描いているようにも見えた。
（何故、このような所にあれが？）
　それがただの鳥でないことに、俺は一目で気づいていた。それは、高い霊力を持つ人の霊が鳥の形をとったもの。人どころか鳥や獣ですら滅多に立ち入らぬその場所では、まず見かけるはずのないものだった。
（いや……、珍しくはあるが、別段不思議なことではないか。高い霊力を持つ者……何処かの国の巫が、また勧請に訪れたのだろう）
　当時の俺が住処としていたのは、後の世にカスミガウラ、キタウラという名の水海と化る内海に三方を囲まれ、かつては『立雨零る魚眼潟国』と呼ばれていた地。大国に攻め入られ、滅びて森に呑み込まれた小国のなれの果ての地だ。
あまりに多くの血と怨みが染みついた大地は荒ぶる神や精霊を呼び寄せ、人や獣の侵入を拒む。だが時折物好きにも、そんな荒ぶる神目当てにこの地を訪れる者達がいる。それが巫――まだ何処にも属さぬ神を自らの国の鎮守神として迎えようと勧請に訪れる巫女や男巫達だった。
（さて、此度は如何様にして追い出すべきか……）
　思案する俺の耳に、ちりちりと微かな鈴の音が聞こえてきた。次いで、軽い足音と荒い息遣い。何者かがこちらへ駆けてくる。
　足音は、意外なことに一人のものだった。国の命運を背負う勧請の旅ともなれば、それなりの数の侍従が付き従ってくるのが常であるというのに。
　それでも油断無く身構える俺の前に、彼女は現れた。息を乱し、頬を真っ赤に染めて。
「あ……っ」
　見えた刹那、彼女は言葉も無く立ち尽くした。だが呆けていたのは一瞬で、すぐにその場に膝をつき、凛とした声で名乗りを上げる。
「私の名は花夜。『千葉茂る花蘇利国』の社首にして、国の首長・萱津彦が娘。我が国の鎮守となってくださる神を求め、この地にやって参りました。どうか私と共に花蘇利国へおいで下さい」
　年の頃十三、四と思しきその女子は、いかにも神住まぬ国の巫女らしく、素朴な衣裳に身を包んでいた。袖なしの盤領の上衣と、沢山のひだがついた緋色の裳。その上に重ねた白い麻の意須比を、幅広の三角文の帯で結び、肩には木綿襷。首と手足には勾玉を連ねた御統が揺れ、腰には縁に鈴をあしらった円い白銅鏡を吊り下げている。縁に鈴を配した『鈴鏡』は東国の巫女の証。その中でも彼女の持つ五つの鈴がついた鏡は『五鈴鏡』と呼ばれていた。
「先の『鳥』はお前の何だ？」
　俺は彼女の詞には答えを返さず、そう切り出した。先ほどの鳥と目の前の女子とでは、身にまとう霊力がまるで違っている。社首と言えば、その国でも最高位の巫であるはずなのに、霊力の高さで言えば先ほどの鳥の方がよほど、この女子よりも高く見えた。その問いに彼女の顔がくもる。
「あれは我が母・鳥羽の霊です。死しても尚、私を守り、導いてくれているのです」
　俺は何の感慨もなくそれを聞いた。当時は今よりも更に人死にの多い時代だ。戦も病も世に溢れていた。だからこそ人々は、そんな災いから自分達を救ってくれる鎮守神を求めたのだ。
「女子、俺の噂は知っているのだろう？森を燃やし、幾人もの人間を焼き殺した、手のつけられぬ荒魂だと。その齢で生命が惜しくはないのか？」
　わざと脅すように低い声で問うが、女子は少しも怯まない。
「私の生命は、自らが定めた道を貫くためにあるものだと思っています。そのために失ったとしても、惜しいとは思いません。それに、今の私より稚くして亡くなった人を、今までにもう何人も見送ってきました。生命とは儚く、いつ終わるとも知れぬものだと理解しています。だから、毎日を悔いのないよう一生懸命に生きてきました。覚悟はできております」
「齢のわりに立派なことだ。しかし口だけなら何とでも言える。その覚悟、どこまで保つか見せてもらおうか」
　言って俺は指を鳴らした。直後、周りの草陰から、白い鱗に赤い眼を持つ蛇達が次々と這い出してきた。俺に仕える神使の蛇達だ。蛇達はそのまま花夜の周囲を取り囲み、半開きの口からシャーッと威嚇音を出す。普通の女子であれば悲鳴を上げるか気絶するかしているところだ。しかし彼女は身動ぎもせずその場に留まっていた。俺は苛々して吐き捨てるように告げた。
「女子よ、去ね。俺は何れの国の鎮守にもなる気はない。国同士の争いに巻き込まれるのも、この力で他国を滅ぼすのも御免だからな」
「あなた様の御力を争いのために使うつもりはありません！私はただ、祖国を――大切な場所や人達を守るための力が欲しいのです！他を滅ぼすためでは決してありません！」
　女子は必死に訴える。刹那、その声に、頭の中で懐かしい若者の声が重なった。
　――ならば私は、他を滅ぼすための力でなく、大切な何かを守りきるための力をそなたに授けよう。
（……真大刀)
　一瞬、我を忘れて絆されそうになり、あわてて頭を振る。
（違う。たまたま似たような言葉を口にしているだけだ。この女子は真大刀とは違う）
「皆初めはそう言う。だが結局は同じことではないか。たとえ自らにその気がなくとも、他国が攻め入ってくれば必ず戦は起き、血が流れる。人は争い無しには生きられぬ。もう沢山なのだ。そのような醜いものを目にするのは」
「……そうですか。だからあなたはこのような寂しい場所に、ずっと独りでいらっしゃるのですね。そんな哀しい戦を、今までに沢山ご覧になっていらしたから……」
　彼女の瞳には深い同情と理解の色があった。
「分かったのなら諦めて去れ。これ以上俺を煩(わずら)わせるな」
　だが彼女は去らなかった。
「この世から争いがなくならないとしても、争いを避けようとする者がいて、それを避けるために必要な力があったなら、せめて目先の争いだけでも無くすことができるのではありませんか？」
「……何？」
「戦ばかりの世の中が嫌だと仰るなら、それを変えるために動けば良いではありませんか。嘆くばかりでは何も変わりません。この世も、あなたの御心を覆う気鬱も。たとえ叶わなかったとしても良いではありませんか。己の手で為せるだけのことを為したなら、少なくとも己の心を救うことはできるはずです」
　俺は目を瞠った。神に対しここまでズケズケ物を言う巫女は初めてだった。
「女子、お前は俺が恐ろしくはないのか？」
「私は八百万全ての神を畏れ敬っておりますよ。巫女ですもの」
　彼女はしれっと答えた。だがその表情はどう見ても本気で俺のことを恐れている者の表情ではなかった。
「そうか。お前、俺が人の姿をしているから、そのように平然としていられるのだな」
　俺は向きになっていた。どうにかして目の前の女子を恐がらせてやろうと躯を変化させる。それまでとはまるで違う姿になった俺に、彼女は目を見開いた。その唇から思わずというように呟きが漏れる。
「……大蛇」
　そう、あの頃の俺は、まだ龍になりきれぬ、額に角持つ中途半端な蛇神だった。
「どうだ？俺はお前など一口で丸呑みにしてしまえるのだぞ。恐ろしいだろう？」
　彼女は青ざめ、ふらふらと立ち上がる。そのまま走って逃げ出すのだろうと、知らず昏い笑いがこみ上げた。だが、彼女は思いもかけない行動に出た。気を取り直すように息をつき、改めてその場に座りなおし、彼女は俺を見上げて微笑んだ。無邪気にさえ見えるほどの満面の笑み。見ているこちらまで心が蕩かされてしまいそうな、見るからに幸せそうな笑みだった。
　あまりに思いがけないその笑みに、俺は自分の立場も状況も何もかも忘れて呆けた。
　張り詰めていた気が抜け、何が何でも彼女を追い返そうと思っていた心が急速に萎えていく。俺は再び変化し、人の姿に戻って溜め息をついた。
「どうした、お前。気でも触れたか？」
「いいえ。気は触れておりません。笑いたいから笑っただけです」
「何故笑う？笑うような場ではないだろう」
「いいえ、笑う場です。だって、ここで怯えたり泣いたりしたら私の負けでしょう？」
（何なのだ、この女子は。聡明かと思えば変わり者で、負けず嫌いで、妙に肝が据わっている）
　先ほどとは別種の笑いがこみ上げてくる。それは数百年ぶりに覚えた感情だった。最早忘れかけていた、愉快という名の感情。
「女子よ、もし俺がお前の国と鎮守となるなら、お前は俺に何を寄越す？」
　胸に湧いた気まぐれのままに、俺は問いを口にしていた。それは、いつもならば誘いを断る口実とするための問いかけだった。今までどんな巫も、俺の望む答えを返した例はない。だがこの女子ならばもしかして、他の巫達とは全く違う何かを――俺の心を動かす答えを返してくれるのではないか、そんな予感がした。
　彼女はしばし考え込み、ほんの少し困ったような顔をした後で口を開いた。
「……では、花かんむりを」
「何？」
「春には花かんむりを、夏には郷で最も美しく涼やかな水辺を、秋には鮮やかに色づいた黄葉の葉を、冬には社から見上げる満天の星を。――私が好きなもの、綺麗だと思ってきたものを全て、あなた様に捧げます。私がこの先、幸せだと思う何かに出会ったなら、それをあなた様と分かち合いたいと思います。美しい景色を共に見て、楽しいことを共にして、幸せな思い出を重ねていきましょう。微力ながら、私にできる限りの力で、あなた様に『幸』を捧げます」
　それは今まで俺が考えつきもしなかった答え。今まで示されてきたどんな見返りとも種類の違うものだった。
「……財物でも社でも、飲食でもないのだな」
　貴重な財物や、贅を凝らした社に衣、味わい尽くせぬほどの山海の珍味――今まで訪れた巫達が口にしたのはそのようなものばかりだった。呆然として思わず呟くと、花夜は苦笑して言った。
「父に言えば、そういうものも差し上げられるとは思います。でもそれは『花蘇利国から』あなた様への捧げ物であって、『私が』あなたに捧げるものとは違う気がしますから。私が自らの力だけであなた様に捧げられるものなど、先ほど言ったものくらいしか無いと思いますし……」
　それは単純で他愛もない、人によっては一笑に付すに違いない、ささやかな捧げ物。しかしそれは国の姫としてでなく、最高位の巫女としてでなく、力無き一人の人間として、それでも俺のために精一杯捧げられる、心からの贈り物。
　俺は思わず笑い出していた。やはり、この女子は他の人間とは違う。
「面白い。良いだろう。花夜、お前の神となってやる。今からお前は俺の巫女だ」
　笑ったまま俺は手を差し出す。花夜はその手に、微笑みながら小さな指を絡めてきた。
「はい！心を込めてお仕え致します」
　こうして俺は、俺の生涯ただ一人の巫女となる少女と契りを交わした。ここから始まる日々が、俺にとってどんな意味を持つことになるのかも知らず、どんな幸福と苦しみを味わうことになるのかも知らずに……。