マルグリット・ド・ナヴァル
(マルグリート・ド・ナヴァール/マルグリット・ダングレーム)
【Marguerite de Navarre】

ナバラ王(ナバール王)エンリケ2世の王妃で、フランス国王フランソワ1世の姉。

『デカメロン』の影響を受けた物語集『エプタメロン』の著者。

フランソワ・ラブレーやクレマン・マロ、ボナヴァンチュール・デ・ペリエなどの文人と交流し、支援している。

宗教改革の中、弾圧・迫害されるプロテスタントや人文主義者を保護した。

生没年:1492年4月11日〜1549年12月21日

フランス王家傍流の血を引くアングレーム伯シャルル・ドルレアンと、サヴォイア公の娘ルイーズ・ド・サヴォワの間に生まれる(母方の祖母はブルボン公シャルル1世の娘マルグリット・ド・ブルボン)。

兄弟は同母の弟が1人(のちのフランソワ1世)と、父と2人の愛人との間に生まれた腹違いのきょうだいが3人。

オーゼー伯ロベール・ユーローを師とし、フランス語、ラテン語、イタリア語、スペイン語などを学んだ。
(他にヘブライ語、ギリシャ語にも通じ、7ヶ国語に堪能だったと言われている。)

父親はマルグリッドが3歳の時に死去。

17歳の時に20歳のアランソン公シャルル4世と最初の結婚をするも、2人の間に子が生まれることはなかった。

1514年、フランス王ルイ12世の王女クロードと、マルグリットの弟フランソワが結婚。

ルイ12世には男子がなかったため、フランソワがルイ12世の没後、フランス王フランソワ1世として即位した。

フランス王妃となったクロードの宮廷には、のちにエリザベス1世の母となるアン・ブーリンとその姉(ブーリン姉妹)も侍女として仕えていた。

(よって、マルグリットとブーリン姉妹にも交流があったのではないかと推測されている。)

1525年、スペイン・神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)との間のパヴィアの戦いでフランスが敗れ、フランソワ1世は捕虜となってしまう。

マルグリットはその際スペインに赴き、弟の釈放に尽力した。

マルグリットの最初の夫アランソン公はパヴィアの戦いに従軍していたが、帰国後、王を捕虜とされた責任を厳しく糾弾され、その年に死去(戦いの傷が元で死去したとも言われている)。

子が無かったため、アランソン家はこれにより断絶した。

(フランソワ1世は1年後に解放されたが、身替わりとして彼の2人の王子(長男フランソワと、次男アンリ)がスペインに人質として送られることとなる。この人質生活は約4年におよび、彼ら2人の解放と、パヴィアの戦いの後に起こったコニャック同盟戦争の終結のため、マルグリットの母ルイーズが、神聖ローマ皇帝の叔母マルグリットと激論の末に「貴婦人の和約」を結んでいる。)

1527年、マルグリットはナバラ王エンリケ2世(アルブレ伯アンリ・ダルブレ)と再婚。

翌年に、のちにフランス王アンリ4世を産むこととなる娘ジャンヌ・ダルブレを出産する。

1530年には長男ジャンも誕生するが、ジャンは生まれてから1年も経たずに世を去る。

翌年、詩篇『罪深き魂の鏡』を出版。この年には母ルイーズも世を去っている。

1533年、『罪深き魂の鏡』が再版されるも、ソルボンヌ(のちのパリ大学)からの攻撃を受ける(が、弟フランソワ1世により守られる)。

1534年、カトリックを批判する檄文が、フランス国王の寝室の扉を含め、フランス各地に貼りだされるという「檄文事件」が発生。これにより、フランソワ1世の新教への弾圧が始まる。

マルグリットに仕える宮廷詩人だったクレマン・マロも、弾圧を逃れるためイタリアに亡命。のちに帰国を許され宮廷に復帰するも、1542年に今度はスイスへと亡命している。

1542年にマルグリットは『エプタメロン』の執筆を開始する。

『デカメロン』の形式を真似、10日で10話ずつを目指し断続的に執筆されたものの、1549年、彼女の死により未完のまま終わる。

『エプタメロン』は後に付けられたタイトルで、完成していたのが72話(7日分)だったことから「七日物語」を意味して名付けられたもの。

マルグリットの他の著作には『夜の幻想の形式における対話』『マルグリット珠玉集』などの詩集がある。
 

<参考資料:エプタメロン(ちくま文庫)&ウィキペディア(英語版含む)&コトバンク>

 
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