第六章 幸有の花(7)
美しい景色を求めて旅をするようになってから
幾月か後、俺は花夜に、どんな景色が一番見たいのかと
尋ねたことがあった。花夜はしばらく
悩んだ後、
唇を
開いた。
『ただ美しいだけではなく、心があたたかくなるような、見ているだけで幸せになれるような景色が見たいと思います。
人間の優しい気持ちが形となったような景色が……』
そう言いかけて、ふと手のひらの上の
幸有の花の種に視線を落とし、花夜は
素晴らしいことを思いついたというように顔を明るくした。
『そうです、私、この花がこの世界を
埋め
尽くす
様を見てみたいです。
誰かに
幸く
有るようにと
祈がいを
籠めて名付けたこの花が、その名の通りに誰かに幸せをもたらしながら、この世界に広がっていく様子が見たいです』
「……そのためにお前はわざわざ種の一つ一つに、名付け通りの力が
宿るように
祈魂を
籠めているのだからな」
「はい。とは言え、本当は私一人の
祈魂では
霊力が
足りないのですが……。けれど、育てるのが
難しい花を想いを
籠めて育てれば、きっとその想いが
祈魂となり、私だけでは
足りない分を
補ってくれると思うのです」
あの時と同じ顔で、花夜は幸せそうに
微笑んでいた。
「私、今でも想像するだけで幸せになれるんです。
誰かを想って育てられた花が無事に育ち花開けば、それはこの世界の人々の心に優しさが
在るという
証拠になります。この花が世界を
埋め
尽くす
様を見ることができるなら、どんなに
戦や
争いの絶えない世の中であっても、
人間の優しさを信じられると思うんです」
花夜の語るそれは、
途方もない
夢想に思えた。だが俺はその夢を
無謀と笑うことはできなかった。
叶わぬ夢物語だと頭では思っても、その光景を思い描けば俺の胸も
不思議なほどに
震えた。その景色を、俺も実際にこの目で見てみたくなった。だから俺は、花夜のその夢に協力することにした。
それ以来俺達は、時折
茨蕀置の森に寄って幸有の種を
補充しては、それを旅の
途中に立ち寄る
邑や里に置いていくということを続けてきたのだ。
「しかし、こんな
風にずっと旅を続けていて良いのか?そろそろ一ヶ所に落ち着きたいとは思わぬのか?俺の気持ちを気にして
遠慮することはないのだぞ」
改めて問うと、花夜はなぜかやや気まずげな表情で
沈黙した。それからちらりと俺を横目で
窺った。
「
遠慮などしていません。もちろん、いつかは
何処かの国や里に留まり、ヤト様の
祭祀を次の代へ引き
継いでいくべきだということは分かっています。……でも、今はまだ、こうしてヤト様と
二人だけで旅をしていたいのです」
「そうか。ならば良いが」
その返答に、花夜は再び
沈黙した後、わずかに
頬をふくらませた。
「……分かっていらっしゃいませんね。私の言うことの意味を」
「何が分かっていないと言うんだ?」
問い返すと、花夜は小さくため息をついた。
「ヤト様はお気づきではなかったようですが、私は気がついていました。あの
邑の若い少女達が、ヤト様のお姿にうっとりと
見惚れていたのを。
年頃の少女がヤト様のお姿に目を
奪われるのは
仕方のないことですが、内心
穏やかではいられませんでした。つまりは私も、あまりあの
邑が気に入ってはいなかったということです。……巫女としてあるまじき思いだと分かってはいますが……」
言いながら俺を見つめる花夜の瞳は、どこか熱を
帯びて
潤んでいた。口にしない想いに、どうか気づいて欲しいと
懇願するような瞳だった。
花夜が俺に向ける想いに、この時、俺はもう気づいていた。だが、打ち明けられないのを良いことに、それがどんな種類のもので、どれほどの想いなのか、深く考えることを無意識に
避けていた。それが
何故なのか、今ならば分かる。俺は、花夜との関係が変わるのを
恐れていたのだ。
神と
人間との恋は、べつに禁じられたものではない。神が
人間の女を妻とした例は過去にもある。だが、神の妻になるということは、花夜から人間としての平凡な人生を
奪ってしまうことに他ならない。神と人間とは生きる速度も生死の
理も何もかもが
違い過ぎる。人間として
避けられぬ老いと、不老不死の神の
生命を
目の当たりにした時、そして、いずれは必ず
訪れる別れの時、花夜は、そして俺は、この恋を
後悔せずにいられるだろうか……そのようなことばかり考えて、結論を
先延ばしにしていた。
そのように深く思い
悩むくらいに、俺の心は
既に花夜に
囚われていたというのに……。
※このページは津籠 睦月によるオリジナル和風ファンタジー小説「花咲く夜に君の名を呼ぶ」のモバイル版本文ページです。
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