フランソワ1世

ルネサンス期のフランス国王。

フランス芸術やフランス語、フランス絶対王政の礎を築いた。

晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチの後援者(パトロン)としても知られる。

生没年:1495年〜1547年

フランス王家傍流の血を引くアングレーム伯シャルル・ドルレアンと、サヴォイア公の娘ルイーズ・ド・サヴォワの間に生まれ、フランスの王位継承権を有していた。

きょうだいは同母の姉マルグリット・ダングレーム(のちのナバラ王妃マルグリット・ド・ナヴァル)の他、腹違いのきょうだいが3人。

生まれた翌年に父が死去、1歳にしてアングレーム伯となる。

当時のフランス国王ルイ12世に男子が生まれなかったため、次期国王として1514年に1番上の王女クロード・ド・フランスと結婚する。

1515年、ルイ12世の死により、フランス王フランソワ1世として即位した。

1515年には第1子ルイーズが誕生。

1516年には第2子シャルロット誕生と、ほぼ毎年のように王子や王女が誕生した。

(クロード・ド・フランスとの間の子は他にフランソワ(1518〜1536)、アンリ(1519〜1559)、マドレーヌ(1520〜1537)、シャルル(1522〜1545)、マルグリット(1523〜1574)。)

また、1516年にレオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招き、アンボワーズ城近くの館に住まわせた。

1518年に長女ルイーズが死去。1524年に次女シャルロットと王妃クロードが死去している。

1525年には、スペイン・神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)との間のパヴィアの戦いで敗れ、フランソワ1世は捕虜となり投獄される。

1年後には解放されたが、彼の身替わりとして彼の2人の王子(フランソワとアンリ)がスペインに人質として送られることとなる。

(この人質生活は約4年におよび、フランソワ1世の母ルイーズと神聖ローマ皇帝の叔母マルグリットとで結ばれた「貴婦人の和約」により、200万エキュの身代金と引き換えに解放されている。)

1531年、神聖ローマ皇帝カール5世の姉エレオノール・ドートリッシュと再婚(彼女との間に子は無い)。

16世紀は宗教改革の時代だったが、当初フランソワ1世は政治的思惑により、国外のプロテスタント諸侯を支援するなどしていた。
(フランソワ1世自身はカトリック。)

しかし1534年、「檄文事件」により自室の扉にカトリック批判の檄文を貼りだされたことをきっかけに、国内プロテスタントの弾圧を開始する。

1547年に死去。
 

<参考資料:エプタメロン(ちくま文庫)&ウィキペディア(英語版含む)&コトバンク>

 
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