TOP(INDEXページ) 小説・夢の降る島|もくじ 第1話: 小説|夢見の島の眠れる女神 :第11章(後)
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第十一章 悪夢の卵

 

 

 後から後から溢れ出す涙を手で拭いながら、ラウラはひとり、道を行く。
 雲上の花園“夢雪花の園”の先には、白く輝く“氷樹の森”が続く。クリスタルガラスで造られたクリスマス・ツリーのようなその森を抜けると、白銀の夢雪に覆われた世界樹木の切株の頂が姿を現す。
 頂へと向かう急勾配の斜面には、いつの間にかラウラを導くように一筋の道が刻まれていた。山頂へ向かいくねくねと蛇行するその道は、まるでそこだけ春になったかのように雪が融け、若草が萌え出し、ところどころにタンポポが可憐な花を咲かせている。
 ラウラはその道を銀の匙杖をつきながら登る。雪に覆われていない道とは言え、ただでさえ急峻な山道だ。だが、ラウラは疲れを感じなかった。それどころか、それまでに溜まっていたはずの疲れさえもが消えていく。緑の道を一歩踏みしめるたびに、不思議なぬくもりがじわじわと足元から登ってくる。まるで足の裏を通して山そのものから癒やしの力をもらっているようだった。
「……夢見の女神様。今も私を見守って、助けてくれてるんだね。待ってて。今行くから」
 ラウラは小さくつぶやくと、歩く速度を速めた。藍色だった夜空はやがて漆黒に変わり、頂上へ辿り着く頃には東の方からゆっくりと朝の光が差し込み始めていた。
「着いた。ここが……夢見島の中枢……」
 頂に立ち、ラウラは世界樹の切株の内部(・・)を見下ろす。
 普通の火山であれば火口があるべきその場所には、まるで何かで抉られたかのように深く巨大な縦穴が開いていた。世界樹の切株と呼ばれるこの岩山は、あたかも樹木の内部が腐りとなったかのごとく内部が空洞となっていたのだ。
 その深い穴の底には、内側からほのかな光を放つエメラルドグリーンの湖がある。夢見島の中枢“母なる眠りの羊水(うみ)”だ。
 温水の湖であるらしく、水面からは淡い水煙が立ち昇っていた。そしてその湖の中心に、水に沈む花のようにゆるやかに揺らめくものがある。よく目を凝らせばそれが、ソメイヨシノの花のような色のドレスに身を包んだ一人の女性が、胸に大きな黒い卵のようなものを抱き、水の中で胎児のように身を丸めているのだということが分かった。
「……来たよ。夢見の女神様」
 ラウラはその人影に向け、囁くように呼びかけた。
 すると、それに応えるかのようにラウラの目の前に虹色の石の板が現れた。世界樹の切株を登る時に現れた階段と同じ、オパールでできた石の板だ。ラウラが足を乗せると、それはまるでエスカレーターが下りていくように、山の内側の岩壁に沿ってらせん状に下降していった。ラウラは緊張した面持ちで縦穴の底に降り立ち、湖のほとりへと向かっていく。
「夢見の女神様。夢見の娘ラウラ・フラウラが、あなたの夢に導かれて参りました。どうか御姿を現してください」
 湖へ向け、小女神宮で教わった通りの口上を述べると、それに応えるかのように湖水から声が響いた。
「よく来たわね、ラウラ・フラウラ。待っていたわ。……でも、今さらそんな風に畏まらなくていいのよ」
 それは“女神”というイメージにはあまりそぐわない、ごくごく普通の明るい少女の声のように聞こえた。
声がすると同時に水面が盛り上がり、水底から淡い桜色のドレスをまとった人物が浮かび上がってくる。湖上に全身を現したその人は、ラウラのよく知る人物の面影をその顔に宿していた。
 だが、その髪はかかとを遥かに超すほどに長く、その背丈はラウラの知る人物の胸の高さまでしかない。年格好はちょうどラウラと同じか、それより一、二才幼いように見えた。
「あなたが……夢見の女神様……?」
 ラウラの驚いた表情に、女神は苦笑して頷く。
「ええ。これが私の本当の姿。……がっかりさせてしまったかしら?」
 ラウラはあわてて首を横に振る。
「ううん!その姿もとても素敵です!……なんだか、ちょっと安心しました。シスター・フ……あ、いえ、夢見の女神様も、私とそんなに変わらないんだなって」
「いいえ。変わらなくなんてないわ。あなたは私なんかとは違うもの」
 女神は言いながら、ぱちんと指を鳴らした。湖の上に七色の光が走り、女神とラウラの間に睡蓮の葉でできた道が結ばれる。
 ラウラはその上を渡り、女神の目の前まで歩を進めた。女神はしばらく無言でラウラの目を見つめた後、苦しげに顔を伏せた。
「……ごめんなさい。あなたを選ばないという選択肢も、私にはあったわ。もう少し頑張れば、あと何十年かは悪夢に耐えられたと思うから……。でも、この先たとえ何十年待ったとしても、あなたのようなレグナースには二度と出会えないと思ったの。だから……あなたの恋も夢も、何もかも奪ってしまうと知りながら、こうしてここへ呼び寄せてしまった」
 ラウラは静かに首を振る。
「でも、それは仕方のないことなんでしょう?夢見の女神様にもどうにもできない、この世の理なんですよね?」
 女神は涙に潤む瞳で微笑む。
「フレア、でいいわ。フレア・フレーズ。それが私のかつての名前」
「フレア……フレーズ……」
 名だけは知っていた、けれど姓までは知らされていなかったその名前をラウラは口の中で転がすように繰り返した。
「あなたのシンボルは苺よね?私のシンボルも苺だったの。あなたのとはちょっと違っていて、ハートと苺の組み合わせだったけれど。……だからかしら。あなたには初めから親近感を持っていたの」
 言われて、ラウラは前髪に留まった苺の髪留めに思わず手をやる。そして同時に思い出した。小女神宮でたびたび自分を慰めてくれたシスターの前髪に留まっていた苺とハートを組み合わせた形のヘアピンを。
「初めて会った頃には、あなたを選ぼうなんて思っていなかったわ。だからあなたの恋を手助けするようなこともした。……結果的に、あなたにはひどいことをしてしまったと思っているわ。こうして悲しい別れをするくらいなら、あの時あのまま抜け道なんて知らず、幼い恋の思い出だけを抱いて生きていた方が幸せだったかも知れないわよね……」
 その言葉にラウラは激しく首を横に振る。
「そんなことありません!フィグと一緒だったから頑張れたことがたくさんあるから!ここまで向かう旅だって、ひとりきりだったらくじけちゃってたかも知れない。だから、私は感謝してます。あなたが私にしてくれたこと」
「……やっぱり、あなたは私とは違うわ。私なんかよりずっと強い」
 言って、フレアは空を仰いだ。何かを惜しむようにじっと見つめた後、深く息を吸い込み、再びラウラに向き直る。
「あなたなら、きっと大丈夫。安心してこの役目を任せられるわ」
 フレアは微笑み、それまで大事に腕に抱えていたものをラウラへ向け差し出した。
 それは硝子のように透明な殻を持つ、大きな卵だった。中では悪夢の黒い泡が、生まれては消え、消えては生まれ、絶えず生滅を繰り返している。
「分かっているわね?これを受け取れば、あなたは……」
 フレアの問いに、ラウラは大きくうなずいた。
「分かっています。私は大丈夫です。それよりあなたは?あなたはこれで、本当にいいんですか?」
 逆に問い返され、フレアは苦笑した。
「本当に優しい子ね、あなたは。こんな時にまで他人の心配をして。私なら大丈夫よ。選んだのがあなたで、本当に良かったわ」
 フレアの言葉にラウラはきゅっと顔を引き締めた。そしてその指を、そっと卵へ向け伸ばす。だが……
「待て、ラウラ!それに触るなっ!」
 突然響いた声にラウラはハッと顔を上げた。見ると山の頂、岩壁の渕に二人の人物の姿があった。
「フィグ…… !? それに……、シスター・フレーズ?」
 ラウラはぎょっとしてフレアを振り返る。振り返った先には、頂に立つシスター・フレーズをいくらか幼くしたような女神の姿が、変わらずにそこにあった。困惑したように二人の姿を見比べるラウラの前で、フレアが口を開く。
「おかえりなさい、私の分身。大人になれない私の夢見た、もう一人の私」
 シスター・フレーズの身体が七色の光に滲む。その姿は砂が崩れるようにサラサラと風に散り、後に残った七色の光はフレアの身に吸い込まれるように消えた。
「……夢晶体」
 つぶやくラウラにうなずいてみせ、フレアは優しく微笑んだ。
「そうよ。彼女は私の紡いだ幻影。でも、幻には変わりないけれど、私は彼女を通してずっとあなたを見てきたわ」
「フレア……様」
「ただのフレア、でいいわ。“様”は要らない。あなたはもう、私に敬語を使う必要なんてないのだもの」
 悪夢の詰まった卵を、フレアは改めてラウラに差し出す。
「さぁ、早く受け取って。邪魔が入る前に……」
 フィグの方をちらりと見て、フレアがラウラを促す。ラウラはうなずき、再び卵へと手を伸ばす。だがフィグはそれを黙って見過ごしたりはしなかった。
「やめろーっ!」
 フィグは自分の両腕に腰の小瓶に詰まった夢雪を振りかけると、そのまま湖へ向け岩壁を飛び下りた。
「夢より紡ぎ出されよ!ギリシャ神話より“イカロスの翼”!」
 白銀の光が輝き、フィグの両腕にロウで固められた鳥の羽根が出現した。フィグはその翼を使い、落下速度を適度に緩めながら一直線に湖のほとりへと向かっていく。
 地に降り立つと、両腕の翼は光の粒となって消え去った。フィグはそのまま湖に浮かぶ睡蓮の葉の道を駆ける。そして呆然としているラウラの身を押し退け、同じく呆気に取られ立ち尽くしているフレアの腕から強引に悪夢の卵を奪い取った。
「何ということを!それが何か分かっているの !?」
 我に返ったフレアの鋭い叫びに、フィグは思いつめたような顔で振り返る。
「分かっているわけないだろう。だが、これを受け取ればラウラが消えてしまうとか、そういう類のものなんだってことは見当がつくさ。そんなこと、させてたまるか。こんなもの……!」
 フィグは湖上の道を走って引き返すと、硬い岩盤でできた地へ向け卵を持った両腕を高く掲げ上げた。
「ダメっ!フィグ!その卵の中にあるのは、ただの悪夢じゃない……!」
 ラウラの制止も間に合わず、卵は地に叩きつけられる。透明な殻は音を立てて砕け散り、中から黒い泡が一気に膨張して溢れ出す。そしてそれはその場にいるフィグの身を瞬く間に呑み込んだ。
「フィグっ !!」
 ラウラは顔面蒼白になって名を呼ぶ。
 黒い泡は一瞬でフィグの全身を覆い尽くした後、その身に吸収されるように消えた。フィグは立っていることができず、がくりと膝をついた。その瞳はうつろで、焦点が定まっていない。そしてその肩や手足からは、時折ゆらりと黒い泡が立ち上る。
「……何なんだ、これは……」
 その目は今も見開かれたままのはずなのに、フィグの脳内には瞳に映っているはずの光景は何一つ映し出されていなかった。その脳裏に映るのは、それまでにフィグが見たこともない凄惨な光景。一面の炎の海、血にまみれて横たわる人間、濁流に呑み込まれた家々、やせ細り骨と皮ばかりになった子ども――地獄と見紛うような光景が、スライドを切り替えるように次々と頭の中に映し出されては消えていく。
 それだけではなかった。移り変わる光景と同時に、誰のものとも知れぬ感情がフィグの胸になだれ込んでくる。今すぐに泣きわめき出したいような悲しみや苦しみ、平静でいるのが難しいほどの怒りや憎しみ、恐ろしいほどの虚脱感にも似た絶望……。
 堪えきれぬほどの激しい感情に心をなぶられ、フィグはただ己の身を抱きしめ、小刻みに身体を震わせることしかできなかった。
(これは……記憶、なのか?これまで世界のどこかで起きてきた、ありとあらゆる悲しみ、苦しみ……。その中で誰かが見て、感じてきたものの……記憶……?)
 目をつぶりたくなるような光景を否応なしに見せられながら、かろうじてそれだけは、何となく理解できた。だが人間の心の限界を超えるような激しい感情の渦の中で、フィグのちっぽけな精神は今にも呑み込まれて消えてしまいそうだった。
「何なんだ、これ。何でこんな酷いことばかり起きるんだ?ただ生きるっていうそれだけのことが、何でこんなに難しいんだ……?」
 脳内に映し出される光景は、大規模な災厄ばかりではなかった。家族間の諍い、友人の裏切り、愛するものの喪失――途方もない歴史の積み重ねの中で生まれては消えていく、誰の身にも起こり得る、けれどその人にとっては死よりも辛いものとなり得る苦悩――そんな記憶も含まれていた。
 自分の身にもいつ起こるとも知れぬ人生の挫折や苦悩を繰り返し繰り返し見せつけられ、フィグの心は不安と絶望に塗りつぶされていく。それに呼応するかのように、その全身から立ち上る黒い泡もその勢いを増していた。
「何でこんなに苦しいのに、生き続けなきゃいけないんだ……?誰か、助けてくれ……。いや、いい。どうせ救いなんてあるはずない。もう希望なんてどこにも無いんだ。もう、どうなってもいい。楽になりたい……」
 フィグの意識は今や、悪夢によってもたらされる過酷な記憶や激しい負の感情の数々と半ば同化してしまっていた。フィグは何もかもを投げ出すようにその場に倒れ伏そうとする。だがその時、その肩を、優しい手がふわりと支えた。
「そうだね……。苦しいね。辛いね。こんなに毎日、頑張って生きているのにね……」
 黒い泡の湧き出るフィグの肩に躊躇いなく触れながら、ラウラは優しく囁きかける。その目はフィグと、その身の内を暴れまわる悪夢――その中に秘められた途方もない悲しみや苦しみを、真っ直ぐに見つめていた。
「私にはあなたたちを助けてあげられる力は無いよ。その苦しい状況を、救ってあげられるわけじゃないよ。でも、その悲しみや苦しみを預かることならできるよ」
 ラウラは赤子をあやす母のように優しく、フィグの背を撫でる。
「私がみんな受けとめるから、その胸の中に抱えてるもの、全部吐き出して。痛くて辛い記憶や気持ちは全部私に預けて。その心を解放してあげて」
 その声は、まるで子守唄のように優しい響きをしていた。
「今だけは、全て忘れていいんだよ。優しい希望を見せてあげる。楽しかった過去を思い出させてあげる。だからその中で心を癒やして、生きるための力を取り戻して。明日また、一日を乗り越えられるように……」
 ラウラはそうして悪夢の黒い泡ごとフィグの身を抱きしめた。心から愛おしげに微笑んで。
「そのために、私はこれから生きていくんだ。……そのために、私はここまで来たんだよ。――“夢見の女神”になるために(・・・・・)


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