後から後から
溢れ出す
涙を手で
拭いながら、ラウラはひとり、道を行く。
雲上の
花園“夢雪花の
園”の先には、白く
輝く“
氷樹の森”が続く。クリスタルガラスで
造られたクリスマス・ツリーのようなその森を
抜けると、
白銀の夢雪に
覆われた
世界樹の
切株の
頂が姿を
現す。
頂へと向かう
急勾配の
斜面には、いつの
間にかラウラを
導くように
一筋の道が
刻まれていた。
山頂へ向かいくねくねと
蛇行するその道は、まるでそこだけ春になったかのように雪が
融け、
若草が
萌え出し、ところどころに
蒲公英が
可憐な花を
咲かせている。
ラウラはその道を
銀の
匙杖をつきながら
登る。雪に
覆われていない道とは言え、ただでさえ
急峻な山道だ。だが、ラウラは
疲れを感じなかった。それどころか、それまでに
溜まっていたはずの疲れさえもが消えていく。緑の道を一歩
踏みしめるたびに、
不思議なぬくもりがじわじわと足元から登ってくる。まるで足の
裏を
通して山そのものから
癒やしの力をもらっているようだった。
「……
夢見の女神様。今も私を見守って、助けてくれてるんだね。
待ってて。今行くから」
ラウラは小さく
呟くと、歩く
速度を
速めた。
藍色だった夜空はやがて
漆黒に変わり、
頂上へ
辿り
着く
頃には東の方からゆっくりと朝の光が
差し
込み始めていた。
「
着いた。ここが……
夢見島の
中枢……」
頂に立ち、ラウラは
世界樹の
切株の
内部を
見下ろす。
普通の火山であれば
火口があるべきその場所には、まるで何かで
抉られたかのように深く巨大な
縦穴が開いていた。
世界樹の
切株と呼ばれるこの岩山は、あたかも
樹木の内部が
腐り
虚となったかのごとく内部が
空洞となっていたのだ。
その深い穴の底には、内側からほのかな光を
放つエメラルドグリーンの
湖がある。夢見島の
中枢“母なる
眠りの
羊水”だ。
温水の湖であるらしく、水面からは
淡い
水煙が立ち
昇っていた。そしてその湖の中心に、水に
沈む花のようにゆるやかに
揺らめくものがある。よく目を
凝らせばそれが、
ソメイヨシノの花のような色のドレスに身を包んだ一人の女性が、
胸に大きな黒い
卵のようなものを
抱き、水の中で
胎児のように身を丸めているのだということが分かった。
「……来たよ。
夢見の女神様」
ラウラはその
人影に向け、
囁くように呼びかけた。
すると、それに
応えるかのようにラウラの目の前に
虹色の石の板が現れた。
世界樹の
切株を登る時に現れた階段と同じ、オパールでできた石の板だ。ラウラが足を乗せると、それはまるでエスカレーターが
下りていくように、山の内側の岩壁に
沿って
螺旋状に
下降していった。ラウラは
緊張した
面持ちで
縦穴の底に
降り立ち、湖のほとりへと向かっていく。
「夢見の女神様。夢見の
娘ラウラ・フラウラが、あなたの夢に
導かれて
参りました。どうか
御姿を現してください」
湖へ向け
小女神宮で教わった通りの
口上を
述べると、それに
応えるかのように
湖水から声が
響いた。
「よく来たわね、ラウラ・フラウラ。
待っていたわ。……でも、今さらそんな
風に
畏まらなくていいのよ」
それは“女神”というイメージにはあまりそぐわない、ごくごく普通の
明るい少女の声のように聞こえた。
声がすると同時に水面が
盛り上がり、水底から
淡い桜色のドレスをまとった人物が
浮かび上がってくる。湖上に全身を現したその人は、ラウラのよく知る人物の
面影をその顔に
宿していた。
だが、その
髪はかかとを
遥かに
超すほどに長く、その
背丈はラウラの知る人物の
胸の高さまでしかない。
年格好はちょうどラウラと同じか、それより一、二才
幼いように見えた。
「あなたが……
夢見の女神様……?」
ラウラの
驚いた表情に、女神は苦笑して
頷く。
「ええ。これが私の本当の
姿。……がっかりさせてしまったかしら?」
ラウラはあわてて首を横に
振る。
「ううん!その姿もとても
素敵です!……なんだか、ちょっと安心しました。シスター・フ……あ、いえ、夢見の女神様も、私とそんなに変わらないんだなって」
「いいえ。変わらなくなんてないわ。あなたは私なんかとは
違うもの」
女神は言いながら、ぱちんと指を
鳴らした。湖の上に七色の光が走り、女神とラウラの間に
睡蓮の葉でできた道が
結ばれる。
ラウラはその上を
渡り、女神の目の前まで
歩を進めた。女神はしばらく
無言でラウラの目を見つめた後、苦しげに顔を
伏せた。
「……ごめんなさい。あなたを選ばないという
選択肢も、私にはあったわ。もう少し
頑張れば、あと何十年かは悪夢に
耐えられたと思うから……。でも、この先たとえ何十年
待ったとしても、あなたのようなレグナースには二度と出会えないと思ったの。だから……あなたの恋も夢も、何もかも
奪ってしまうと知りながら、こうしてここへ
呼び
寄せてしまった」
ラウラは静かに首を
振る。
「でも、それは
仕方のないことなんでしょう?夢見の女神様にもどうにもできない、この世の
理なんですよね?」
女神は
涙に
潤む
瞳で
微笑む。
「フレア、でいいわ。フレア・フレーズ。それが私のかつての名前」
「フレア……フレーズ……」
名だけは知っていた、けれど
姓までは知らされていなかったその名前をラウラは口の中で
転がすように
繰り返した。
「あなたのシンボルは
苺よね?私のシンボルも苺だったの。あなたのとはちょっと
違っていて、ハートと苺の組み合わせだったけれど。……だからかしら。あなたには
初めから
親近感を持っていたの」
言われて、ラウラは
前髪に
留まった苺の
髪留めに思わず手をやる。そして同時に思い出した。
小女神宮でたびたび自分を
慰めてくれたシスターの
前髪に
留まっていた、苺とハートを組み合わせた形のヘアピンを。
「初めて会った
頃には、あなたを選ぼうなんて思っていなかったわ。だからあなたの恋を手助けするようなこともした。……結果的に、あなたにはひどいことをしてしまったと思っているわ。こうして悲しい別れをするくらいなら、あの時あのまま
抜け道なんて知らず、
幼い恋の思い出だけを
抱いて生きていた方が幸せだったかも知れないわよね……」
その言葉にラウラは
激しく首を横に
振る。
「そんなことありません!フィグと
一緒だったから
頑張れたことがたくさんあるから!ここまで向かう旅だって、ひとりきりだったらくじけちゃってたかも知れない。だから、私は
感謝してます。あなたが私にしてくれたこと」
「……やっぱり、あなたは私とは
違うわ。私なんかよりずっと強い」
言って、フレアは空を
仰いだ。何かを
惜しむようにじっと見つめた後、深く息を
吸い
込み、再びラウラに向き直る。
「あなたなら、きっと
大丈夫。安心してこの役目を
任せられるわ」
フレアは
微笑み、それまで大事に
腕に
抱えていたものをラウラへ向け
差し出した。
それは
硝子のように
透明な
殻を持つ、大きな
卵だった。中では悪夢の黒い
泡が、生まれては消え、消えては生まれ、
絶えず
生滅を
繰り返している。
「分かっているわね?これを受け取れば、あなたは……」
フレアの
問いに、ラウラは大きくうなずいた。
「分かっています。私は
大丈夫です。それよりあなたは?あなたはこれで、本当にいいんですか?」
逆に
問い返され、フレアは苦笑した。
「本当に優しい子ね、あなたは。こんな時にまで
他人の心配をして。私なら
大丈夫よ。選んだのがあなたで、本当に良かったわ」
フレアの言葉にラウラはきゅっと顔を引き
締めた。そしてその指を、そっと卵へ向け
伸ばす。だが……
「待て、ラウラ!それに
触るなっ!」
突然響いた声にラウラはハッと顔を上げた。見ると山の
頂、
岩壁の
渕に二人の人物の姿があった。
「フィグ…… !? それに……、シスター・フレーズ?」
ラウラはぎょっとしてフレアを
振り返る。振り返った先には、
頂に立つシスター・フレーズをいくらか
幼くしたような女神の姿が、変わらずにそこにあった。
困惑したように二人の姿を
見比べるラウラの前で、フレアが口を
開く。
「おかえりなさい、私の分身。大人になれない私の夢見た、もう一人の私」
シスター・フレーズの
身体が七色の光に
滲む。その姿は
砂が
崩れるようにサラサラと風に
散り、後に残った七色の光はフレアの身に
吸い
込まれるように消えた。
「……
夢晶体」
つぶやくラウラにうなずいてみせ、フレアは優しく
微笑んだ。
「そうよ。彼女は私の
紡いだ
幻影。でも、
幻には変わりないけれど、私は彼女を
通してずっとあなたを見てきたわ」
「フレア……様」
「ただのフレア、でいいわ。“様”は
要らない。あなたはもう、私に
敬語を使う必要なんてないのだもの」
悪夢の
詰まった卵を、フレアは
改めてラウラに
差し出す。
「さぁ、早く受け取って。
邪魔が入る前に……」
フィグの方をちらりと見て、フレアがラウラを
促す。ラウラはうなずき、再び卵へと手を
伸ばす。だがフィグはそれを
黙って見過ごしたりはしなかった。
「やめろーっ!」
フィグは自分の
両腕に
腰の
小瓶に
詰まった夢雪を振りかけると、そのまま湖へ向け
岩壁を飛び
下りた。
「夢より
紡ぎ出されよ!ギリシャ神話より“イカロスの
翼”!」
白銀の光が
輝き、フィグの
両腕に
蝋で
固められた鳥の
羽根が出現した。フィグはその
翼を使い、
落下速度を
適度に
緩めながら一直線に湖のほとりへと向かっていく。
地に
降り立つと、
両腕の翼は光の
粒となって消え
去った。フィグはそのまま湖に
浮かぶ
睡蓮の葉の道を
駆ける。そして
呆然としているラウラの身を押し
退け、同じく
呆気に取られ立ち
尽くしているフレアの
腕から
強引に悪夢の卵を
奪い取った。
「
何ということを!それが何か分かっているの !?」
我に返ったフレアの
鋭い
叫びに、フィグは思いつめたような顔で
振り返る。
「分かっているわけないだろう。だが、これを受け取ればラウラが消えてしまうとか、そういう
類のものなんだってことは
見当がつくさ。そんなこと、させてたまるか。こんなもの……!」
フィグは
湖上の道を走って引き返すと、
硬い
岩盤でできた地へ向け卵を持った
両腕を高く
掲げ上げた。
「ダメっ!フィグ!その卵の中にあるのは、ただの悪夢じゃない……!」
ラウラの
制止も
間に合わず、卵は地に
叩きつけられる。
透明な
殻は音を立てて
砕け
散り、中から黒い
泡が一気に
膨張して
溢れ出す。そしてそれはその場にいるフィグの身を
瞬く
間に
呑み
込んだ。
「フィグっ !!」
ラウラは
顔面蒼白になって名を
呼ぶ。
黒い
泡は
一瞬でフィグの全身を
覆い
尽くした後、その身に
吸収されるように消えた。フィグは立っていることができず、がくりと
膝をついた。その
瞳はうつろで、
焦点が
定まっていない。そしてその
肩や手足からは、
時折ゆらりと黒い
泡が立ち
上る。
「……
何なんだ、これは……」
その目は今も
見開かれたままのはずなのに、フィグの
脳内には
瞳に
映っているはずの
光景は何一つ映し出されていなかった。その
脳裏に映るのは、それまでにフィグが見たこともない
凄惨な光景。一面の
炎の海、血にまみれて横たわる人間、
濁流に
呑み
込まれた家々、
痩せ細り
骨と
皮ばかりになった子ども――
地獄と
見紛うような光景が、スライドを切り
替えるように次々と頭の中に
映し出されては消えていく。
それだけではなかった。
移り変わる光景と同時に、
誰のものとも知れぬ感情がフィグの
胸になだれ
込んでくる。今すぐに泣きわめき出したいような悲しみや苦しみ、平静でいるのが
難しいほどの
怒りや
憎しみ、
恐ろしいほどの
虚脱感にも
似た
絶望……。
堪えきれぬほどの
激しい感情に心をなぶられ、フィグはただ
己の身を
抱きしめ、
小刻みに
身体を
震わせることしかできなかった。
(これは……
記憶、なのか?これまで世界のどこかで起きてきた、ありとあらゆる悲しみ、苦しみ……。その中で
誰かが見て、感じてきたものの……
記憶……?)
目をつぶりたくなるような光景を
否応なしに見せられながら、かろうじてそれだけは、何となく
理解できた。だが人間の心の
限界を
超えるような
激しい感情の
渦の中で、フィグのちっぽけな
精神は今にも
呑み
込まれて消えてしまいそうだった。
「何なんだ、これ。何でこんな
酷いことばかり起きるんだ?ただ生きるっていうそれだけのことが、何でこんなに
難しいんだ……?」
脳内に映し出される光景は、
大規模な
災厄ばかりではなかった。家族間の
諍い、友人の
裏切り、愛するものの
喪失――
途方もない歴史の
積み
重ねの中で生まれては消えていく、
誰の身にも起こり
得る、けれどその人にとっては死よりも
辛いものとなり
得る
苦悩――そんな
記憶も
含まれていた。
自分の身にもいつ起こるとも知れぬ人生の
挫折や
苦悩を
繰り
返し
繰り返し見せつけられ、フィグの心は不安と
絶望に
塗りつぶされていく。それに
呼応するかのように、その全身から立ち
上る黒い
泡もその
勢いを
増していた。
「
何でこんなに苦しいのに、生き続けなきゃいけないんだ……?
誰か、助けてくれ……。いや、いい。どうせ
救いなんてあるはずない。もう希望なんてどこにも無いんだ。もう、どうなってもいい。
楽になりたい……」
フィグの
意識は今や、悪夢によってもたらされる
過酷な
記憶や
激しい
負の感情の数々と
半ば
同化してしまっていた。フィグは何もかもを投げ出すようにその場に
倒れ
伏そうとする。だがその時、その
肩を、優しい手がふわりと
支えた。
「そうだね……。苦しいね。
辛いね。こんなに毎日、
頑張って生きているのにね……」
黒い
泡の
湧き出るフィグの
肩に
躊躇いなく
触れながら、ラウラは優しく
囁きかける。その目はフィグと、その身の内を
暴れまわる悪夢――その中に
秘められた
途方もない悲しみや苦しみを、
真っ
直ぐに見つめていた。
「私にはあなたたちを助けてあげられる力は無いよ。その苦しい
状況を、
救ってあげられるわけじゃないよ。でも、その悲しみや苦しみを
預かることならできるよ」
ラウラは
赤子をあやす母のように優しく、フィグの
背を
撫でる。
「私がみんな受けとめるから、その
胸の中に
抱えてるもの、全部
吐き出して。
痛くて
辛い
記憶や気持ちは全部私に
預けて。その心を
解放してあげて」
その声は、まるで
子守唄のように優しい
響きをしていた。
「今だけは、
全て
忘れていいんだよ。優しい希望を見せてあげる。楽しかった
過去を思い出させてあげる。だからその中で心を
癒やして、生きるための力を取り
戻して。
明日また、一日を乗り
越えられるように……」
ラウラはそうして悪夢の黒い
泡ごとフィグの身を抱きしめた。心から
愛おしげに
微笑んで。
「そのために、私はこれから生きていくんだ。……そのために、私はここまで来たんだよ。――“夢見の女神”に
なるために」