フィグが夏風岬の灯台に戻ると、母親は既に夕食の支度を始めていた。
「夢雪を集めるだけにしては遅かったのね。どこか寄り道してたの?」
「ああ。まあ……あちこち、な」
「あんた、まさかとは思うけど、未だにラウラ
フィグはぎくりとして母親の背中を見つめる。
「分かってるでしょうけどね、いくら幼なじみだからってレグナースとみだりに会ったりしちゃダメよ。レグナースは小女神宮を卒業するまでは恋愛御法度なんですからね。万一のことにでもなったらフラウラさんとこの奥さんと旦那さんに顔向けできなくなっちゃうわ」
夏風岬にはフィグの家族であるフィーガ家を含め二世帯しか住んでいない。そのもう一世帯がラウラの生れたフラウラ家だった。フィグとラウラは、ラウラが六才になり小女神宮に上がるまでお互いだけを唯一の遊び相手に過ごしてきた。
「……分かってるよ。小女神宮を出てただの女になるまでは手を触れちゃダメだって言うんだろ?もう何回聞かされてると思ってるんだ、その話」
「『ただの女』?失礼ね!大人の女性と言いなさい!だいたい母親に向かってその態度は何なの?母さんだって昔はレグナースだったんですからね!」
「島の女は皆そうだろ。男に生れなきゃ皆レグナースなんだから」
この島には“女の子”が存在しない。否、正確に言うなら“女の子”という概念が存在しない。この島に生れた男でない子どもは、初潮を迎え女となるまでは皆、女神の代理人である“レグナース”とみなされ、都の小女神宮に集められ、シスターたちの手により大切に養育される。
それまで他の子どもたちと接する機会の無かったフィグがそれを知ったのは、ラウラが六才になった時のことだった。当時、まだ何も理解できず、小女神宮からの迎えにラウラが得体の知れない集団に連れて行かれると思い込んだフィグは、駆け落ちまがいのことをしてラウラを岬から連れ出した。フィグが七才の時のことである。
幼い逃亡劇は結局失敗に終わったが、おてんばで好奇心旺盛なラウラはすぐに都を抜け出す方法を覚え、こっそりフィグに会いに来るようになった。以来、二人の逢瀬は今日まで続いている。
自室に戻ると、机の上にはいつの間にか水色の紙ヒコーキが届いていた。ラウラが岬を出た後に交流を持つようになった“黄金紅葉の郷”の同年代の友人の手紙だ。
『フィグ・フィーガへ
明日、夢鉱石を採りに行こう。リモンとカリュオンも一緒だ。
時告鳥が十鳴く頃に、鉱石谷の入口で待ってる。
ビルネ・ビネガー』
返事の紙ヒコーキを空へ飛ばし、フィグはふと思いついたようにもう一枚便せんを取り出した。
『ラウラへ。
今日お前が紡ぎ出した夢晶体は、どれも原典とはかけ離れた出来だったぞ。もう少し記憶の森で勉強してイメージ修行を積んだ方がいいんじゃないのか?
夢見の娘選考会までもうそんなに日がないんだろう?
フィグ』
傾き始めた太陽へ向け、紙ヒコーキを勢いよく飛ばす。紙ヒコーキは空に吸い込まれ、あっという間に見えなくなった。
その夜、フィグは夢を見た。フィグはまだ生れて一年経つか経たないかくらいの幼い子どもで、子ども用のベッドですやすやと眠っていた。そのそばに、ふいに一人の老人が煙のように現れた。
「ほぅ。よく眠っておるのぅ。良い子じゃ」
言いながら老人はいつの間にかその手に持っていた赤い縄を幼いフィグの足首に結ぼうとする。フィグはぎょっとして叫んだ。
「おい待て!あんた、俺に何する気だ!?」
「ほぅ。起きておったのか。……いや、お前さんはこの子であってこの子ではないのぅ。未来の世から魂だけここに来ておるのか」
「何を言ってるんだ。あんた誰だ?」
「わしは月下老人。人の世の縁を司る神じゃよ。今日はな、お前さんにこの“紅線”を結びに来たんじゃ。ちょうど今日、お前さんにとっての運命の相手がこの世に生まれ出でるのでな」
そう言い、老人は有無を言わせずフィグの足首に赤い縄を巻きつける。太い縄に肌を擦られる痛みに、フィグは小さく悲鳴をあげた。
「ちょっと待て!なんで足に縄なんだよ !? 運命の相手との間に結ばれるものと言ったら、小指と小指の間の赤い糸じゃないのか !?」
「ほっほっほ。それは後の世に加えられた脚色じゃ。確かに足首を縛る縄より小指に絡みついた糸の方がロマンティックじゃからのぅ。しかし、すぐに切れてしまいそうなか細い糸より、どんなに引っ張っても切れぬ太い縄の方が安心じゃろう?」
「それはそうかもしれないけど……っ!ちょ……っ痛いって!そんなに締めるなって!」
「ほっほっほ。駄目じゃ。決してほどけぬようにきつーく結んでおかねばならんからのぅ。人の縁とはそういうものじゃて。一度定められた運命の相手との縁は、切ろうと思ったとて糸のように簡単には切れぬ。縁とは甘く美しいだけのものではない。互いを縛る縄でもあるのじゃ。それをよく覚えておくが良いぞ」
老人は縄の片端をフィグの足首に結び終えると、もう片方の端を持って窓から出て行こうとする。
「待て。あんた、その縄を誰に結ぶ気だ?」
「ほぅ。知りたいのか?己の運命の相手を」
笑いながら、しかし妙に鋭い目で問い返され、フィグは一瞬言葉につまった。
「……知りたいさ。だって、どうせこれは夢なんだろう?だったらオチも見ずに目覚められるかよ」
「ほっほっ。夢、のぅ。確かにお前さんにとっては夢じゃろうが……お前さん、この島における“夢”がどういう意味を持つものなのか、まだ分かっておらぬようじゃの。まぁ良かろう。知りたいと言うなら連れて行こう。ほれ」
「うわっ!?」
老人に腕を引かれた途端、フィグは魂だけの存在となり、幼い自分の肉体から引っ張り出された。老人はうろたえるフィグにはかまわず、飄々とした足どりで宙を歩いていく。フィグはクロールの要領で空を掻くようにしてあたふたとその後をついていった。
灯台の外は夜の闇に包まれていた。月のない夜だ。だが妙に星の美しい夜だった。
満天の銀の星あかりを頼りに進む先に、柔らかなオレンジ色の光が点っている。それは岬を望む丘に建つ、赤い屋根に白い壁の小さな家から洩れる灯りだ。フィグは軽く目を見開いた。
「ほれ、あの家じゃ。煙突の上にコウノトリがとまっておるじゃろう?たった今赤子の魂を運び終え、今は翼を休めておるところじゃ」
家の中からは微かに赤ん坊の泣き声が聞こえてきていた。フィグは無言で窓に近づき、室内をのぞき込む。
「生れたぞ!レグナースだ!ああ……なんて可愛い子なんだ」
白いおくるみに包まれ男の腕に抱かれたその赤ん坊が誰なのか、フィグには一目で分かっていた。
「……ラウラ」
「さて、と。では仕事を済ませてくるとするかな」
老人は壁をすり抜け赤子のラウラに歩み寄っていく。そしてどうやったのか、おくるみに包まれたラウラの小さな足首に赤い縄の片端を結ぶと、ひょこひょことフィグの隣に戻ってきた。
「ほぅ?言葉も出ぬほど驚いておるのか?己の運命の相手に」
「逆だよ。あまりにも意外性がなくて呆れてるんだ」
「呆れておる、のぅ。わしにはホッとしておるように見えるがのぅ」
「冗談じゃない。俺がラウラと何年一緒にいると思ってるんだよ。くされ縁過ぎて、今さらときめきも新鮮味も感じられるわけがない」
「ほっほっ。まだまだ若いのぅ。今までずっと同じ関係だったからと言って、これからもそうだとは限るまい?」
そう言ってからかうように笑った後、ふっと老人は真顔になった。
「そう。紅線でつながれておるからと安心していてはいかんぞ。この世の中に変わらぬものなど無いのじゃからな。運命でつながれた唯一無二の相手を失ってしまうと、それはそれは深い絶望を味わうことになるでな」