「……じゃあ、私はもう行くわ。この後のことは分かっているわね?ラウラ」
フィグへの説明を終え、フレアは確認するようにラウラの顔を覗き込む。
「うん。大丈夫」
ラウラは
「あんたはこれからどうなるんだ?」
訊くべきかどうか散々迷った末、フィグは結局、躊躇いながらもそれを訊いた。ラウラの今後を思うと、訊かずにはいられなかったのだ。
「……さぁ。私にも分からないわ」
あまりにもあっさりと予想外の答えを返され、フィグは目を剥く。
「分からない !? あんた、それでいいのか !?」
「ええ。いいの。知らないことがあるって素敵なことよ。知らないからこそ見られる夢があるもの。『もしも生まれ変わることができるなら、今度は普通の女の子として人生を全うしたい』とか、ね」
その身体の透明度と反比例するように、フレアを包む光は徐々にその強さを増していく。ラウラとフィグは瞬きもせずにそれを見守った。
「さよなら、ラウラ、フィグ。あなたたちの夢がずっと素敵なものであることを祈っているわ」
光が弾ける。周囲が一瞬白光に包まれ、何も見えなくなる。そして光の止んだ後、その場所にはもう何ひとつ存在していなかった。フィグは無言でラウラを振り返る。ラウラはフィグが何を言いたいのかを悟り、小さく苦笑した。
「私なら大丈夫だよ。ちゃんと、全部分かっててこの役目を受け入れたんだもん」
ラウラは
湖の中央に辿り着いた時、ラウラは振り向き、フィグへ向け微笑んだ。
「じゃあ行くよ、フィグ。覚悟はいい?」
その問いに『はい』と答えてしまえば、別れの瞬間が来てしまう。できることならば、このまま永遠に唇を閉ざしていたかった。
だが、そうやって無言でラウラの顔を見つめているうちに、フィグは気づいてしまった。ラウラが今、笑顔の裏で必死に泣くのをこらえていることに。
(……そうだよな。最後は笑顔で別れたいって、お前なら思うよな。こんな哀しいだけの別れまでの時間を、永遠に引き延ばしてるわけにはいかないよな)
フィグは一度、大きく息を吸い込んだ。それから、ゆっくりと口を開く。
「ああ。覚悟はできてる。いつでもいいぞ」
言い終わり唇を閉じた瞬間、ラウラの足元の水が勢いよく盛り上がった。それはまるで水でできた繭のようにラウラの全身を包み込み、そのまま湖の底へと引きずり込んでいく。
「ラウラ!」
『
眦からにじみ、零れ出ようとする涙を乱暴に拭い、フィグは
ラウラを沈めた湖はその後もしばらく波立っていたが、やがてそれも治まり、水面は静まりかえっていった。代わりに水底からどんどん七色の光が溢れてくる。そして湖面に花が咲くように、大量の
『今だよ、フィグ!』
湖の底から響く声に導かれるように、フィグは
「夢より紡ぎ出されよ!エジプト神話より“
それは一瞬の閃光の後に一艘の木船へと姿を変え、フィグを乗せて七色に輝く
船は噴水のように噴き上がる
その高さは山の頂を遥かに超し、島が眼下に一望できるほどにまで達する。だが、そこで上昇は止まった。垂直に上へ伸び続けていた
空一面が
「ここがフレアの言う“ある程度の高さ”ってことか。ここから先は俺の実力次第ってことだな……」
フィグは船上に立ち上がり、
「“
その声に応じるように、船は舳先をわずかに持ち上げ、自らの力で浮き上がり始める。フィグは
「何だ !? あれは、まさか……穴がふさがってきているのか !?」
フィグは思わず愕然として叫ぶ。
まるで時間を逆に回しているかのように、剥がれ落ちたはずの空の破片が次々と浮き上がり、パズルのピースをはめ込むように空の隙間を埋めていく。
「……まずい!夢より紡ぎ出されよ!“風神の風袋”!」
カルデラからの
フィグが船尾へ向け袋の口をゆるめると、中から凄まじい勢いの風が吹き出す。船はその強風に押され速度を上げた。しかし天空に開いた穴は、そんなフィグの機転を嘲笑うかのようにさらに修復の速度を上げ、急速なスピードで閉じていく。
「くそっ……ここまで来て間に合わないのかよ !?」
絶望の呻きが唇から零れる。その時、ふいにどこからか声が聞こえた。
『“夢”よ、彼の船に翼を与えよ』
それは初めて聞く声だった。直後、船の両舷で何かが光を放つ。その光はすぐに、白銀にきらめく鋼鉄の翼へと変わった。
『“夢”よ、彼の船の道筋に虹の橋を架けよ』
再び声が聞こえた。先ほどとは違う声だ。直後、光が弾け、天空の穴と船との間にレールのような虹の橋が結ばれる。
『“夢”よ。彼の船の船尾にジェットエンジンをお願い。燃料はもちろん、
今度はどこか茶目っ気のある女性の声だ。直後、閃光とともに船尾に巨大なエンジンが現れ、白銀の炎を噴出する。船はほぼ垂直な虹の橋の上を白銀の炎を上げながらロケットのように駆けていく。
「な…… !? 何だ !? どうなってるんだ !?」
必死に船にしがみつき、その振動に舌を噛みそうになりながらも、フィグは疑問の声を漏らさずにはいられなかった。その耳に再び声が聞こえてくる。
『どうか叶えてくれ。我々の宿願を……!』
『我らの“夢”を、君に託す。つないでくれ、希望を』
『ずっと待っていたんだ。僕たちの“夢”を継いでくれる人を』
『これは叶わない夢なんかじゃないんだって、私たちが夢見たことは無駄なんかじゃなかったんだって、証明して!お願い!』
フィグへ向け語りかけられるいくつもの声、そして願い――それは船の中に雪崩れ落ちていた無数の
「
『ううん。それはちょっと違うかな。これはね、意思じゃなくて想いのカケラ。
「ラウラ!」
その声は島から吹く上昇気流に乗って聞こえてきた。
『もう大丈夫だね、フィグ。この島を出て行けるね』
見下ろせば、島はもう遥かに遠い。七色の
「ああ。もう大丈夫だ。ありがとう、ラウラ」
万感の想いを込めて囁くと、柔らかな風が頬を撫でた。不思議とラウラが微笑んでくれているような気がして、目頭が熱くなる。
『行ってらっしゃい、フィグ。忘れないでね。もし旅の途中でフィグが夢を忘れそうになったら、私が“
どこまでも明るい声がフィグを送り出す。振り返れば天空の穴はもう目の前だった。船は吸い込まれるように穴に飛び込んでいく。
瞬間、視界が闇に覆われた。何も見えないまま、ただ凄まじい引力のようなものに船が引っ張られていくのを感じる。まるで底無しの穴の中に猛スピードで落ちていくようだった。フィグは最早座っていることさえできず、船底に倒れ伏し、へばりつく。
やがて船は闇を抜け、目を開けていられぬほどの光の渦へと飛び込んでいく。視界に一瞬、青空と雲と太陽が映ったような気がしたが、それを確認することもできぬまま、フィグは強烈な重力負荷にも似た圧迫感に意識を失っていった。
その日、一艘の船が天空の穴から島の外へ旅立ったことに気づいたのは、ごくわずかの限られた人々だけだった。
早朝にも関わらず、島民のほとんどは何かに導かれるように自然と目を覚ましていた。だが彼らの視界に映ったものは、薄紅から紫のグラデーションを描く美しい夜明けの空に、淡いヴェールのような虹色の雲がかかっている光景だけだった。
やがて、夢のように美しいその空から、陽光に照らされたクリスタル・ガラスのように七色にきらめく雪が降ってくる。それは地に降り積もり、全てを覆い尽くし、
それは未知の光景ではなかった。いつか夢追いの宴のフィナーレで
「やがてこの島に訪れる……数百年に一度の夜明け……」
礼拝堂には
「今、新たなる
シスター長アルメンドラの言葉の後、鐘楼の
「ラウラ……あんた、無事に辿り着けたのね」
どこへ向けて呼びかけたら良いのか分からないように、キルシェはただ虚空へ向け呟く。
「あんた、まだ死んだわけじゃないんだもんね。きっと、私のこと、見ててくれるよね……?」
今にも涙声に変わりそうなその呟きは、鐘の音とシスターたちの祈りの声に溶け混じり、消えていった。
「…………う…っ…」
小さな呻き声とともに、フィグは目を覚ました。ぼんやりする意識でまず感じたのは、浮遊感にも似たゆるやかな波の振動だった。
フィグはゆっくりと目を開け、身を起こす。
穴に飛び込む前と変わらず、フィグは船の上にいた。ただし鋼鉄の翼やエンジンは消え、
「ここは……?俺は、辿り着けたのか……?」
目に映るのはどこまでも続く海原とその上に広がる空ばかり。静かな波間に一人漂い、不安を感じ始めたその時、フィグの耳が遠く微かに響く汽笛の音を拾った。
「船か…… !?」
目を凝らし水平線をにらむと、こちらへ向け近づいてくる船影がある。エンジンの音とスクリューの波を立てながら走ってくるそれは、鋼鉄の船体を持つ漁船のようだった。フィグは船上に立ち上がり、上着を脱いで旗代わりに振りながら、その船を待った。