第2回十字軍に参加した騎士。
生没年:1125年頃~1187年7月4日
フランスの地方の小領主(の分家筋)に生まれた。
1153年にアンティオキア女公コンスタンスと結婚し、アンティオキア公となる。
その後、東ローマ帝国の支配下にあったキプロス島の攻略に乗り出す。
が、あまりに暴虐的な手法に東ローマ帝国から厳重な抗議が送られ、イェルサレム王ボードゥアン3世に撤退を命じられる。
キプロスから撤退したシャティヨンは、テンプル騎士団と共闘してイスラムとの戦闘を始めるが、34歳の時にイスラム側に捕らわれ、以後15~16年間(←情報源により期間に差があり。)アレッポに幽閉される。
釈放された時、既に妻はこの世を去っていたが、オンフロワ・ド・トロンの母エティエネット・ド・ミリーと再婚する。
シャティヨンはこの結婚によりカラク(ケラーク)の城を手に入れたが、ここを拠点とし、巡礼者や隊商に対し略奪を行うようになる。
これがサラディンの怒りを買い、義理の息子オンフロワと後にイェルサレム女王となるイザベル1世の結婚式が襲撃されることとなる。
カラク城は1ヶ月以上敵に包囲されたが、援軍の到着により窮地を脱することとなる。
その後も十字軍とイスラムの戦いは続き、やがてハッティンの戦いにおいて大敗を喫してしまう。
その際、シャティヨンの他、当時のイェルサレム王ギー・ド・リュジニャンやその弟などが捕虜にされる。
サラディンはギーなど他の要人の命は奪わなかったが、度々強盗行為を繰り返してきたシャティヨンだけは、自らの手で処刑した。
<参考資料:イェルサレム&十字軍文献一覧&ウィキペディア>