後にイェルサレム王国の女王となったイザベル1世の、最初の夫。
生没年:1166年〜1198年
生まれも育ちもパレスティナ(第1次十字軍侵攻後に中近東に築かれた領地の封建領主の家)。
アラビア語に堪能で、サラディンの弟アル=アーディルとの交渉に通訳として加わったこともある。
母であるエティエネット・ド・ミリーが1176年にルノー・ド・シャティヨンと再婚したため、彼の義理の息子となる。
1179年に祖父オンフロワ2世からトロン卿領を継承したが、イザベル1世と結婚するため、1180年にこの領地を国王に返上した。
(王位継承の可能性のあるオンフロワが大所領を持つことを、当時の国王が嫌ったためとされている。トロン領の他、バニアス、Chastel Neufを返上し、代わりに7000ベザントの貨幣封を与えられている。)
1183年、サラディンの侵攻に対し、オンフロワも出陣するが、大敗。
1183年の秋にケラク城にてイザベル1世と結婚するが、サラディンに襲撃され、城を包囲される。
その後、当時の国王ボードゥアン4世とトリポリ伯レーモン3世により救出される。
1185年にボードゥアン4世が、その翌年に後継者であるボードゥアン5世が崩御すると、イザベルの姉シビーユとその夫ギー・ド・リュジニャンを王位に就けたくない者たちが、オンフロワに即位を打診してくる。
が、オンフロワはこれを嫌がり脱走し、シビーユ夫妻に忠誠を誓った。
この後、シビーユの夫ギー・ド・リュジニャンは、かつてオンフロワが放棄したトロンとChastel Neufの領地を、その時のオンフロワの所領と交換させた。
1187年、ヒッティーンの戦いで捕虜とされるが、母親がいくつかの要塞と引き換えに人質交渉を行い、解放される。
1190年に女王となっていたシビーユが崩御すると、イザベルとオンフロワの結婚を無効化し、軍功のあったコンラート1世とイザベルを結婚させようとする動きが出てくる。
イザベルとオンフロワはこの動きに反発し、教会の裁判で、この結婚が真実のものだと訴えた。
だが、裁判の傍聴人の一人から、イザベルがこの結婚に賛同していなかったと異議が唱えられる。
この時代の慣習では、異議を唱えた者に対し、決闘をもって証を立てなければならなかったが、剣に自信を持たなかったオンフロワは決闘を受けることができなかった。
結局、2人の結婚は無効とされ、イザベル1世はコンラート1世と結婚する。
その後、コンラート1世が暗殺され、その後にイザベルと結婚したアンリ2世も窓から転落死を遂げる。
オンフロワは、イザベル1世がエメリー・ド・リュジニャンと4度目の結婚をした翌年の、1198年にこの世を去っている。
<参考資料:イェルサレム&十字軍関連資料一覧&ウィキペディア>