イェルサレム王国の騎士。
生没年:1140年頃(1143年とする資料もあり)〜1193年
1177年に、イェルサレム王アモーリー1世の未亡人マリア・コムネナと結婚。
後のイェルサレム女王イザベル1世の義父となる。
バリアーノはイベリン家の長男でなかったため、当時は自領を持っていなかったが、結婚の際にボードゥアン4世からナブルスにある領地を贈られている。
その後、イベリン家の長兄がアンティオキアに引退したため、バリアーノが当主となる。
聖都イェルサレムが陥落した際には、妻子を救うため都に入る許可を得るため、敵将サラディンに亡命先からアラビア語の手紙を書き、都に留まるのは1日限りという条件付きで通行許可証を得ることに成功する。
しかし、都に入ったバリアーノは、残された民衆に戦の指揮を執ることを懇願され、サラディンの約束との板挟みになる。
彼はそのことを再び手紙にしてサラディンに送り、約束を破ることの許しを願う。
サラディンは事情を汲み、約束の破棄を認め、バリアーノはイェルサレム防衛の先頭に立つことになる。
バリアーノはイェルサレムに残ったわずかな騎士の他、当時市内にいた16歳以上の男子を急遽騎士に任命し、防衛戦にあたる。
戦力の差は明らかだったが、バリアーノは防衛戦と同時にサラディンに何度も会談を申し込み、ついに実現した会談で、イェルサレムに残った民の人質交渉を、サラディンおよびその弟と行う。
宗教の異なる敵に捕らわれた場合、人質は殺されるか奴隷にされるかだったが、バリアーノは英国王ヘンリー2世が送ってきた聖地防衛資金の他、バリアーノ自身の私産、イェルサレム市内のありとあらゆる金をかき集め、1人でも多くの人間を救うつもりだと告げる。
これにサラディンおよび、その弟アラディールが感激し、彼らも人質のための金を出すことになり、これによりイェルサレムにいたフランク人のほとんどが奴隷とされずに済んだと言われている。