第九章 土の下の女神(2)
その言葉に、泊瀬 は信じられないという表情で首を振る。
「何をおっしゃっているのですか、ミヅハ様。あなたは現に八乙女の結界の中にいらっしゃったではありませんか」
「そうではない。八乙女の結界など、妾にとっては何の障害にもならぬ。考えてもみよ、八乙女に祈道 を授けたのは妾なのだぞ。それに、そもそもいかなる霊力をもってしても、人間 の身で水を統 べる神たる妾を封じることなどできぬ。……妾がここを出られぬ理由はな……妾が、自分で自分を戒 めているからだ。決してここを出ぬように、とな」
その答えに、皆が息を呑 む。
「……何故、ですか?」
その問いに、女神はすぐには答えなかった。何かを深く憂えるような表情でしばし沈黙した後、女神は逆に俺たちに問いかけてきた。
「皆の者、この宮処 の東を流れる霊河 が、かつて何と呼ばれていたかを知っているか?」
花夜 は戸惑うような顔で泊瀬を見、泊瀬は分からない、という顔で首を横に振る。その問いに答えを返すことができたのは海石だけだった。
「確か『荒河 』と呼ばれていたと、大宮にある何かの文書で読んだことがあります」
「そうだ。かつて彼 の河は毎年増水を起こして荒れ狂った。ゆえに『荒河』と呼ばれ恐れられていた。公的には伏せられているが……実はそれは、妾のせいだったのだ」
その告白に皆が言葉を失う中、女神は沈痛な表情で先を続けた。
「神というものには、必ず二つの顔が存在する。人々に幸福と恵みを与える『和魂 』と、荒れ狂い人々に害をなす『荒魂 』だ。この二つの魂は、表裏一体のもの。平素は穏やかに和 いだ神の魂も、きっかけ次第 で激しく荒ぶる――人間 の心が怒りを得て荒れ狂うのと同じに、な。それを止めることは妾自身にもできぬ。そして一度荒魂 となれば、妾は我を失い、その荒ぶる霊力により嵐を呼び、辺りの河という河を荒れ狂わせ、人々に害をなすのだ。国王や八乙女は、それでも妾を鎮守神として留め置こうとする。だが妾は、妾の愛する国民の命を、自分の手で奪うことに耐えられなかった」
女神の瞳から一滴、涙がこぼれて頬をつたう。海石は呆然と、まるで独り言のように問いを口にする。
「『大いなる災い』……。まさか、古き文書に記されていたのはこのことだったのですか?」
「魂を荒ぶらせぬためには、妾 の身を世間と切り離してしまえば良い。だから妾はこうして独り、水の霊力を弱める『土』に囲まれた場所に籠 もった。そして妾がいなくても国を守れるよう、八乙女には妾の持てる限りの知識を『祈道 』として授けた。妾さえこの孤独に耐えれば、全てが丸く治まると、そう思っていたのだ」
「なるほど。その御姿は、長い歳月土の中に籠もり、水の霊力を削られたがゆえのこと……というわけですか。ですが、そんなあなたの御心も知らず、霧狭司 の国人は止める神がいないのを良いことに、その祈道 と武力で周りの国々を脅 かし始めた。さらには国民同士でさえ、争い、命を奪い合っている」
黙っていられずに言葉を紡 ぐと、女神は打たれたかのように俺を見、哀しげに目を伏せた。
「そなたは、泊瀬 に手を貸してくれた蛇神だな。まずは礼を言わせてもらおう。……そして、そなたの言う通りだ。妾 の考えが甘かったのかも知れん。国民達の暴挙 を、妾は止めることができなかった。心ある八乙女や王子 、王女 たちに夢で何度も呼びかけたが、彼らの訴えは他の氏族の者達に握 りつぶされた。それどころか、そのせいで他の者達に疎 まれ、命を落とした者さえいる」
「そんな……」
花夜は衝撃 に声を震わせる。女神は伏せていた目を上げ、哀しげな表情のまま泊瀬を見つめた。
「そもそも皆、信じないのだ。夢で妾 に会ったという者達の言葉を。泊瀬 、妾に会ったというお前の言葉を他の者達が簡単には信じなかったように、な」
女神の言葉に泊瀬はうつむき、自分の過去を振り返るかのように固く拳 を握 りしめた。
「……確かに。夢の中で神と会うことが国王の器を持つ証 だの何だのと言われているせいで、余計に皆、信じてくれなかった。ただの夢だと笑われたり、嘘 つき呼ばわりされたり……」
気遣 うように泊瀬を見つめ、花夜がぽつりとつぶやく。
「自分の目に見えないもの、自分の耳には聞こえないものを、人間 はそう容易 く信じてはくれませんからね……」
「けれど、一度でも鎮守神 様が御姿をお見せになれば、皆きっと心を改めますわ!ですから鎮守神様、どうか皆の前に御姿をお見せください!そのまま永久に地上にお留まりくださいとは申しません。ただ一度だけで良いのです!ただ一度だけ……皆を諭 してくださいませ。そうすれば、きっとこの国は良くなります!」
海石が必死に訴 える。だが女神は全てを諦 めたかのように力無く首を振るだけだった。
「何をおっしゃっているのですか、ミヅハ様。あなたは現に八乙女の結界の中にいらっしゃったではありませんか」
「そうではない。八乙女の結界など、妾にとっては何の障害にもならぬ。考えてもみよ、八乙女に
その答えに、皆が息を
「……何故、ですか?」
その問いに、女神はすぐには答えなかった。何かを深く憂えるような表情でしばし沈黙した後、女神は逆に俺たちに問いかけてきた。
「皆の者、この
「確か『
「そうだ。かつて
その告白に皆が言葉を失う中、女神は沈痛な表情で先を続けた。
「神というものには、必ず二つの顔が存在する。人々に幸福と恵みを与える『
女神の瞳から一滴、涙がこぼれて頬をつたう。海石は呆然と、まるで独り言のように問いを口にする。
「『大いなる災い』……。まさか、古き文書に記されていたのはこのことだったのですか?」
「魂を荒ぶらせぬためには、
「なるほど。その御姿は、長い歳月土の中に籠もり、水の霊力を削られたがゆえのこと……というわけですか。ですが、そんなあなたの御心も知らず、
黙っていられずに言葉を
「そなたは、
「そんな……」
花夜は
「そもそも皆、信じないのだ。夢で
女神の言葉に泊瀬はうつむき、自分の過去を振り返るかのように固く
「……確かに。夢の中で神と会うことが国王の器を持つ
「自分の目に見えないもの、自分の耳には聞こえないものを、
「けれど、一度でも
海石が必死に
※このページは津籠 睦月によるオリジナル和風ファンタジー小説「花咲く夜に君の名を呼ぶ」のモバイル版本文ページです。
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