第八章 雨下の攻防(1)
「俺があの方と初めてお会いしたのは、まだ物心もつくかつかないかくらいの幼 い頃 のことだった。お会いしたその時にはまだ、あの方の正体にも気づかず、ただ夢のように美しい方だと見惚 れるばかりだった」
泊瀬 はぽつりぽつりと己の過去を語りだす。
「その夜、俺は夢の中で泣いていたんだ。どんなに悔 しいことがあっても、日中の人目のある所では泣くことを許されなかったから、夜一人になってから蒲団 の中で悔し泣きしていた。そうしてそのまま眠りについて、夢の中でも泣き続けていたんだ。それを、あの方が見つけてくださった」
女神は、膝 を抱 えて泣いていた泊瀬に不思議そうに話しかけてきたと言う。
『そこの人間 の子、なぜそのように泣いているのだ?お前は何処 からここに迷い込んだのだ?』
驚いて顔を上げた泊瀬の目に映ったのは、それまで宮殿の中で美しく着飾 った后 や宮女 たちを嫌 というほど見てきた泊瀬でさえ、言葉を忘れて見惚 れるような美しい女……いや、女神だった。
呆 けた顔のまま問いかけに一切答えようとしない泊瀬を特に咎 めることもせず、女神は自 らの記憶を探 るように無言で泊瀬の姿を見つめた後、納得 がいったようにつぶやいた。
『そうか、お前は射魔 氏より迎えられし后 ・波限 姫の子だな。名は確か泊瀬彦 と言ったか。なるほど霧狭司 の王子 ならば、こうして妾 の元を訪 れたとしても不思議はなかろう』
『え!?なぜ、俺や母さまの名を……!?』
見ず知らずの相手に突然 名を言い当てられ、思わず驚いた声で問うと、女神は淡 く微笑 んだ。
『霧狭司 の王室に連 なる者の顔は全て知っている。妾 はずっと霧狭司を見守ってきたのだからな』
言って、女神はそのほっそりとした指でそっと泊瀬の涙を拭 った。そうして濡 れた指先をしげしげと眺 め、愛 しげに目を細めた。
『そうか。この涙はお前自身のためでなく、お前の母のために生 じたものなのだな。……優しい子だ。お前の母は、随分と辛 い目に遭 っているようだな』
まだ何も話していないにも関 わらず、女神は泊瀬の涙の理由を言い当ててみせた。だがその時の泊瀬にはそれを不思議に思うよりも、自分の悔 しさを誰 かに知ってもらいたいという思いの方が勝 っていた。
『……うん。皆 が、母さまにひどいことをするんだ。化粧箱 に虫を入れたり、母さまの通る道をわざと汚 して通れなくしたり……そうして母さまが驚 いたり困 ったりなさっているのを陰 で見て嘲笑 っているんだ』
国王の三人目の后 として宮殿に上がった泊瀬の母は、葦立 氏出身の正妃 から陰湿 な嫌 がらせを受けていた。泊瀬は心から慕 う母のその窮状 が、どうしても許せなかった。
『あれは絶対に大后 様の差 し金 に違 いないんだ。だから俺は大后様に同じようなことをして仕返 ししようと思ったんだ。でも、母さまが駄目 だっておっしゃるんだ。我慢 しなくちゃ駄目だって、俺を叱 るんだ……』
女神は黙って泊瀬の話を聞いた後、やんわりと告げた。
『お前の気持ちは、妾 にも分かる。だが、やはり仕返しなどするべきではない』
『どうして!?』
女神の言葉にとても納得がいかず、泊瀬の語気 は自然と荒くなった。
『お前がまだ幼いからだ』
険 しい目で睨 みつけてくる泊瀬を、女神は慈愛 に満ちた瞳で見つめ返した。
『お前にはまだ分からぬかも知れぬが、罪人 に罰 を下 したからと言って、その者が改心するとは限らぬ。罰を下した者が逆恨 みされ、さらなる仕返しをされる恐 れさえあるのだ。特に女の恨 みというものは幼いお前の手に負 えるものではない。お前の母はそれをよく知っているからこそ、お前を止めたのだろう』
言って、女神は諭 すように言葉を続けた。
『泊瀬彦よ。お前が真に母を思うのであれば、自分の身を無為 に危険に晒 すようなことはせず、健 やかな肉体をつくり、知恵を磨 き、お前の母を自らの手で守れるほどに強くなることだけを考えよ。お前に万一のことがあれば、何よりもお前の母を嘆 かせることになるのだからな』
泊瀬はそれまでとは別の意味で呆然 と女神を見つめ返した。姿形が美しいだけではない。これほどよく物を識 り、しかも優しさに満 ち溢 れた相手を、泊瀬は今まで自分の母以外に知らなかった。
『あなたは……一体……』
泊瀬にとって、それは生まれて初めて覚 えた感情だった。こんなにも相手の名を知りたいと思ったのは初めてだった。瞬 きする間 すら惜 しいほど、相手の姿を見つめ続けていたいと思ったのも……。
女神はそんな泊瀬の心を知ってか知らずか、眩 いほどの笑 みを浮かべて名乗りを上げた。
『妾 はミヅハノメ。ミヅハと呼ぶが良いぞ』
こうして、幼い王子 と国を守護する女神との夢の中での交流は始まった。
「その夜、俺は夢の中で泣いていたんだ。どんなに
女神は、
『そこの
驚いて顔を上げた泊瀬の目に映ったのは、それまで宮殿の中で美しく
『そうか、お前は
『え!?なぜ、俺や母さまの名を……!?』
見ず知らずの相手に
『
言って、女神はそのほっそりとした指でそっと泊瀬の涙を
『そうか。この涙はお前自身のためでなく、お前の母のために
まだ何も話していないにも
『……うん。
国王の三人目の
『あれは絶対に
女神は黙って泊瀬の話を聞いた後、やんわりと告げた。
『お前の気持ちは、
『どうして!?』
女神の言葉にとても納得がいかず、泊瀬の
『お前がまだ幼いからだ』
『お前にはまだ分からぬかも知れぬが、
言って、女神は
『泊瀬彦よ。お前が真に母を思うのであれば、自分の身を
泊瀬はそれまでとは別の意味で
『あなたは……一体……』
泊瀬にとって、それは生まれて初めて
女神はそんな泊瀬の心を知ってか知らずか、
『
こうして、幼い
※このページは津籠 睦月によるオリジナル和風ファンタジー小説「花咲く夜に君の名を呼ぶ」のモバイル版本文ページです。
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