第二章 神の生まれ出づる杜

 魚眼潟から花蘇利までの道のりは長い。真っ直ぐに進めるならそれほどの距離ではないのだが、魚眼潟国は東・南・西の三方を内海に囲まれているため、南西の方角にある花蘇利へ行くためには、まずは北へ向かい、内海の周りをぐるりと迂回して進まなければならない。
 魚眼潟国のあるこの辺りは『衣袖漬す直路の地』と呼ばれている。かつては小国ひしめく地だったが、今ではとある大国の支配を受ける一部の地域以外は耕作も居住も放棄され、森に呑まれるままとなっている。
 獣道すら満足に無いような土地を、俺達は草をかき分け徒歩で進むしかなかった。
「私はこれから、あなた様のことを何とお呼びすればよろしいのでしょうか?」
 魚眼潟国を抜け、茨蕀置の杜と呼ばれる地域に入った辺りで、ふと花夜がそう訊いてきた。
「お前、俺の名は既に知っているのだろう?俺の噂は周りの国々に知れ渡っていたはずだからな」
「はい。ですが、あまり良き御名前とは思えません。ツキタチアラミタマノカガチヒコ様だなどという御名前は……。あなた様はもはや、荒魂ではありませんのに」
 ツキタチアラミタマノカガチヒコ――俺の存在を知った周りの国の民達が勝手に付けたその名は、大刀に憑依する荒ぶる蛇の男神という意味を持つ。
「俺はそのようなこと、気にはせぬが。ならば、お前が好きに名付ければ良い」
「好きに……ですか」
 花夜は困惑した顔で、しばらくの間沈黙した。
「……では、ヤトノカミ様というのは、いかがでしょう?」
ヤトノカミ?」
「はい。あなた様は谷地にいらっしゃったでしょう。ですから『谷地の神様』です」
「……少し安直過ぎではないか?」
「好きに名付けろとおっしゃったのは、あなた様でしょう。それに、無闇に本質を表した名前よりは良いと思いますが。名を知られただけで相手に弱点を暴かれるような名前では困りますもの」
 花夜はむっとした顔で反論する。彼女の言うことは真理だった。『名付け』というものは、この世界の基礎となる呪術の一つだ。『名』はそのモノの本質を表し、力を与えもすれば、逆に奪いもする。
「まぁ良い。俺はお前の神なのだから、お前の好きに呼べば良いさ」
「では……ヤト様、とお呼びしてもよろしいのですか?」
「ああ。好きに呼べと言っている」
「では……『ヤト様』」
 花夜は、はにかんだような顔で名を呼んだ。俺の後を一、二歩離れ、駆け足でついてくる彼女の顔には、いつでも笑みが浮かんでいた。俺と共にいることが嬉しくてたまらないとでも言うように。俺はそれを、孤独な勧請の旅に人恋しくなっていたせいだと思っていた。だが、そこには別の理由が含まれていた。俺がその笑みの本当の理由を知るのは、もう少し後のこととなる。
 異変に気づいたのは、杜のだいぶ奥深くに足を踏み入れた頃だった。真昼でも薄暗い杜の中、妙な光が宙を漂っていた。蛍火のように淡く、ちかちかと光るそれは、一つや二つどころではなく群れを成し、ただ一ヶ所を目指して飛んでいく。
「あれは……?木霊か何かですか?」
 花夜もすぐに気づき、不安そうに俺を見た。
「いや。あれは『祈魂』。人間の強い想いが形を成したものだ」
 光の飛んでいく先に、強い霊異の気配を感じる。俺はこれから何が起ころうとしているのかを、すぐに察した。
「花夜、急ぎの旅でないなら、少し寄り道をして行かぬか?きっと珍しいものが見られる」
「珍しいもの、ですか?」
「ああ。神だとて、そうそう立ち会えるものではない、稀少な場面だ。『神』の生まれ出づる瞬間を、目にできるかも知れぬぞ」
 深い藪を抜けた先には、一本のの巨木があった。
「……なんて美しい藤の木……。一体どれほどの歳月を経れば、このような大木に育つのでしょう……」
 花夜が感嘆の声で呟く。藤の木は、その太い蔓を大蛇のように他の木の幹に絡みつかせ、空を覆うように広げた枝に満開の花を咲かせている。その花房が風に揺れる様は、まるで薄紫の花の滝のようだった。
 杜の四方から飛んで来る祈魂の群れは、その花の一つ一つに宿り、藤の木全体をぼんやりと光り輝かせていた。
「この祈魂はどうやら、藤の木に寄せる人間の想いが形と成ったもののようだな。藤の木に対する人間の、愛や憎しみ、感謝の念に『祈がい』――ありとあらゆる想いが祈魂となり、その想いの対象に宿る。それは積もり積もって、やがて莫大な霊力の塊となり、神を降ろす器となるのだ。祈魂がこうして、目に視えるまでに強くなり、光り輝くのは、その『器』が間も無く完成する兆候だ。もうすぐここに、藤の木の神が降臨されるぞ」
「……『降臨』?それは、何処か他の世界から、この『祈形国』へ、神様の魂がいらっしゃるということですか?」
「そういうことになるのだろうな」
「何処の世界からいらっしゃるのですか?神話に出てくる高天原や豊葦原瑞穂国や常世国という世界は、本当に在るのですか?」
 好奇心のままに問いかけてくる花夜に対し、俺は無言になった。花夜はハッと表情を変える。
「すみません。もしかして、人間が聞いてはならぬ話でしたか?」
「……いや、そうではない。俺自身も識らぬのだ。神や精霊の魂が何処からやって来るのかを。この世界のことならば、誰から教えられずとも大概のことは識っている。だが、この世界の外のことは、まるで分からぬ。そのような理になっているようだ」
 口籠りながらなんとか説明を終えたその時、背後の茂みが派手に鳴った。
「お?何だ、お前。こんな所で一人で何をしている?」
 振り向いた先には数人の男が立っていた。格好から察するに、木を伐ることを生業とする杣人と思われた。
「私は巫女です。勧請の旅の途中で、ここに立ち寄らせていただいております」
 巫女という高い身分にありながら、花夜はどんな人間に対しても丁寧な物腰で接していた。男達はやや面食らったように花夜を見つめる。
「……へぇ。あんたみたいな娘さんが、一人で旅を、ねぇ」
 男の一人が下卑た笑みを浮かべた。その時の俺は、常人からは視えぬよう姿を隠したままだったから、男達の目には娘の一人旅のように映ったのだろう。男達があらぬ行動に出るようなら姿を現し花夜を守ろうかと思った、その矢先、別の男が先ほどの男をたしなめた。
「妙なことを考えるなよ。相手は巫女様なのだぞ、この罰当たりが」
「でもよ、霧狭司国のお偉いさんからしたら、他国の巫女が霊力を失うのはありがたいことなんじゃねぇのか?」
「霧狭司……」
 花夜が硬い表情で呟くのが聞こえた。俺も男達を見る目を険しくする。それは俺にとって過去に因縁のある国の名だった。
「ばか。それで俺達が罪を犯し、汚れた手で御神木に触れたのでは本末転倒だろう。神坐として使えなければ、苦労してこの木を伐って帰っても何の報酬も得られんのだぞ」
 そう言って男が指差したのは、目の前で咲きほこる藤の木。花夜は顔色を変えた。
「伐る?この木を、ですか?」
「ああ、そうだ。だから悪いが、よそへ行ってくれないか?このままここにいられたら危ないんでね」
「いけません!この木には間も無く神様がお宿りになるのです!伐ってはいけません!」
 花夜の必死の訴えを男達は一笑に付した。
「何言ってんだ?どこに神様がいるって?どう見たって、ただの木じゃねぇか」
 何の霊力も無いこの男達には、藤の木を輝かせる祈魂の光など、視えはしないのだ。
「だいたい、それが本当だとしても、所詮は藤の木の神様だろう?俺達がこの木を伐るのは、この世の全ての水を司る水神様のため。藤の木の神なんぞとは格が違うんだ」
「格が違う?確かにそうだな。神の間にも序列というものは存在する。この世の基礎を形成する風火水土の四柱の神と比べられては、大概の神が下位に置かれるだろう。だが神は神。お前たち人間が簡単に傷つけて良い存在ではない」
 俺はそれ以上黙って男の話を聞いていることができず、姿を現した。男達はぎょっとして後ずさる。
「こいつ……!どこから現れた!?」
「待て!銀の髪に紅の瞳……こんな色、人間にはあり得ない!神だ!」
「そうだ。神だ。お前たち人間の敵う存在ではない。この木のことは諦めて、すぐに立ち去れ。さすれば見逃してやろう」
 だが男達は去らなかった。彼らは顔を強張らせながらも、冷静に俺から距離をとり、腰に下げた袋から何かを取り出した。
「まさか本当にこんなものを使うことになるとはな……」
「ああ。神祇官様のおっしゃることは本当だった。この杜には荒ぶる神や精霊が本当に棲んでいるのだな……」
 男が手にしたのは一枚のヒサゴの葉だった。男はそれを飲み水の入った皮袋の中へ放り込む。直後、皮袋から、とてもその中に収まっていたとは思えない量の水が噴き出した。
「何!?まさか、祈道の業!?」
 悲鳴のように叫ぶ花夜の目の前で、噴き出した水が透明な蛇の形を成していく。水の精霊・水霊だ。
「ヒサゴは水神の象徴だ。おそらく霧狭司国の巫女が、予め術を施し杣人達に渡しておいたのだろう。……面倒なことを」
 俺は小さく舌打ちした。蛇神は水の霊力に属する神。俺が蛇身に変化したところで、水霊と闘うにはあまりに相性が悪い。
「大丈夫です。私にお任せ下さい」
 花夜はおもむろに腰から五鈴鏡を外すと、その鏡面を空へかざした。
「母さま!時間を稼いで下さい!」
 花夜が叫んだ瞬間、鏡から白い光が飛び出した。それは見る間に白鷺のような形へと変化し、水霊へ向かっていく。花夜の母・鳥羽の霊鳥だ。鳥羽は水霊を翻弄するようにその目の前を素早く飛び回り、注意を引きつける。その隙に花夜は、沓を脱ぎ捨て素足で土の上を踊りだした。
 手にした五鈴鏡を振り鳴らし、身につけた珠をしゃらしゃらと響かせ、身体全体で音律を奏でる。それはこの時代でさえ既に忘れられかけた、古の素朴な祭祀だった。
「千葉茂る花蘇利国の社首・花夜が祈がいます。この世界のあまねく山を司る大山祇神が子神・木の花の散るを司る木花散流比売尊、どうか我が身に一時その魂をお分け下さい」
 謡うように神への祈言を口にする花夜の瞳は、次第にとろん、と虚ろになってくる。神の魂をその身へ降ろすため、無我状態となるのだ。やがてその瞳が、それまでとは別の光を帯びて輝く。
『木霊よ、茨蕀置の杜にて今、花咲ける木々の精霊たちよ、その種を、花びらを、我が元へ疾く散らせ』
 花夜の唇から、花夜のものではない強い言霊を秘めた声が紡がれる。直後、轟音が耳を打った。杜の木という木が枝を揺らし鳴り騒ぐ音、それにより巻き起こされる風の音、耳を覆いたくなるようなその音と共に、何かがこちらへ押し寄せてくる。
「ヤト様!目と鼻を塞いで下さい!」
 花夜が叫ぶ。反射的にそれに従うと、何かひどく細かいものが頬を撫で、水霊の方へ通り抜けていくのを感じた。
「何だ!?目が……っ、目が痛いっ!」
「ぶはっくしょ……っ、くしゅっ、くそっ!鼻水が止まらん!」
 男達が悲鳴を上げる。おそるおそる目を開け、俺は状況を悟った。
「なるほど。水の霊力を削ぐには土、か」
 目を閉じる前までは透き通っていたはずの水霊の躯は、今や様々な色が混じり合い、まだらに濁っていた。濁りの正体は杜中から散り集まった花粉や花びらだ。
「水の動きを鈍らせるには、土をかけて泥にしてしまえばいい。でも私には土神様や山神様をお召びするほどの霊力はありません。ですから、木花散流比売尊の魂をお借りしました。木の花より散ったものもまた、やがて土へと変わるもの。土ほどではありませんが、水の霊力を削ぐことができます」
 花夜の言葉通り、水霊はもはやその形を保ってはいなかった。花粉と花びらが溶け混じり、泥の塊のような姿となり、地にもがいていた。俺は人の姿のまま水霊の元へ歩み寄り、濡れた花びらに埋もれたヒサゴの葉を手刀で両断する。霊媒を失った水霊は、ぴくりとも動かなくなった。
 男達は花粉にむせび苦しみながらも、俺から逃げようと駆け出す。俺は指を鳴らした。木々の下生えの間に潜んでいた神使の蛇達が、ゆらりと這い出し男達の足に絡みつく。
「逃さぬ。お前達はほとぼりが冷めたら、どうせまたこの木を伐りに来るのだろう?そうはさせん。せめて藤の木の神がこの木を離れられるほどに育つまで、手出しをしてもらっては困るのだ」
「き、伐らない!伐らないから!み、見逃して下さいっ!」
「悪いが人間の言うことは信用できぬ。特にお前達、霧狭司の国の民はな」
 俺は男の一人に歩み寄り、その喉元に手刀を突きつけた。
「お止め下さい、ヤト様!」
 制止する花夜に、俺は鋭く問う。
「止めてどうする。この男どもが本当にこの木を諦めると思うのか?たとえどれほど固く誓いをさせたとしても、当てにはならん。人間は我が身可愛さに約束さえ平気で破る生き物だ。ここでこの男どもを始末しておくか、我々がここに留まり続けでもしない限り、この木を守ることはできん」
「武力で解決するだけが全てではありません!他にも方法はあります!」
 花夜はそう言うと、再び五鈴鏡を手にとり踊りだした。
「千葉茂る花蘇利国の社首・花夜が祈がいます。天探女尊よ、我が身にその魂をお分け下さい」
 花夜の瞳が妖しく輝く。俺は顔を強張らせて身を引いた。
「あ……天探女、だと……っ?」
『まぁ、失礼な反応ですこと。せっかく力を貸して差し上げようとしていますのに』
 花夜の身に降りた天探女は、なまめかしい仕草で髪をかき上げると、妖艶に微笑んだ。蛇に捕らわれた男達は、いつの間にか悲鳴を上げることも忘れ、その姿に見入っている。
『ねぇ、あなた達。このままこの神に殺されたくはないのでしょう?』
 俺を指差し、天探女が男達に問う。男達は呆然とした顔のまま激しく首を縦に振った。
『でも、このまま手ぶらで帰って咎めを受けるのも嫌なのでしょう?』
 男達は再び首を振った。その瞳は虚ろで、正直に答えれば己の不利に働くという考えすら、今は浮かばぬように見えた。
『だったら良い方法を教えてあげましょう。霧狭司の神祇官にはね、こう伝えるの。行ってみたら、藤の木は根が腐り枯れておりました≠チて。こうすれば、あなた達が咎められることはないし、この神に殺される危険を冒してまでもう一度木を伐りに遣わされることもないでしょう?』
 男達の顔が明るく輝く。天探女はいたずらっぽく微笑んで俺を振り返る。俺はしぶしぶ指を鳴らし、神使に男達を解放させた。男達は奇妙な笑みをその顔に貼りつけたまま、後も見ずに駆け去っていく。
『これで、ひとまずは安心でしょう。私の暗示に逆らえる人間などいませんもの』
「さすが、人の心を惑わし、真実をねじ曲げることには長けているな」
『いつでも真実ばかりを口にすれば上手くいくというものではありませんわ。嘘が悪いもののように言われるのは、皆がその使いどころを間違えるからです』
「その使いどころを間違えて主を死なせたお主がそれを言うのか」
『あら。あなたこそ、そんなことを言える立場ではありませんわよね?今でこそ、神と呼ばれ畏れられていますけど、元は主さえその身で殺めた荒ぶる精霊ですものねぇ』
 その瞬間、残酷な情景が脳裏に蘇った。全身に浴びた血潮の熱さと、鉄錆びたようなその匂い、その中で己の発した叫びさえもが、今この場で響いているかのように鮮明に蘇っていた。
 ――真大刀!目を開けよ!このようなこと、あってはならぬ!お前までもが命を喪うなど、あってはならぬ!
 俺は天探女を睨みつけ、低い声で告げた。
「助けてくれたことには感謝しよう。だがその身からさっさと去れ。それは我が巫女の肉体だ」
『言われなくても、もう行きますわ。あなたのように無礼な男神とこれ以上話していたくありませんもの。あなたみたいな神の巫女が、こんな善い娘だなんて、もったいない限りですわ……』
 最後まで恨みがましい呟きを口にしながら、天探女は花夜の身を離れていった。俺は過ぎし日の幻に心を囚われたまま、ただぼんやりとそれを見送った。
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