邑はそこからさほど離れていない所にあった。
案内された
邑君の
宅ではその夜、
邑人達の心尽くしの
酒宴が催された。
草壁の
室の中、炉の周りを囲むように並べられた
高坏には、邑の
婦女達の手による精一杯のもてなし料理が盛りつけられている。
赤米と
乾栗の
雑炊に、
橡の実の
団子に、
若菜汁……。花夜は言葉も無くそれらを見つめ、瞳を輝かせる。
「申し訳ございませぬ。神様とその巫女様に捧げるには到底見合わぬ、心ばかりの
粗末な
御食ではありますが、我が
邑ではこれが精一杯でして……」
ひどく恐縮した様子で告げる邑君に、花夜は笑顔で首を振る。
「いいえ。どれも私の好物です。それに、こうして炉のそばで
夕食を囲むこと自体、久しぶりですし」
「あの……あなた様方は、
何処の国の神様と巫女様なのでしょう。
何故このような所を旅してらっしゃったのですか?私は今まで、神様や巫女様というものは、国の奥まった
神社にお
籠もりになって、滅多に外へはお出にならぬものとばかり思っておりましたが」
邑人の何気ない問いに、花夜は
匙を持つ手を止めた。しばし逡巡し、
窺うように俺の目を見た後、花夜は小さな声で告げた。
「私達は
何処の国にも属していません。実は私達、帰る国をなくしてしまいまして……」
場の空気が一瞬にして変わる。問いを口にした邑人は、蒼白な顔で
平伏した。
「も、申し訳ありません!そのようなことをお訊きしてしまって……!」
「いいえ、謝られるようなことではありませんよ」
「しかし、それは大変ですな。か弱き
少女の身で旅などと……。今までさぞ、お辛きことも多かったでしょう」
「もしや、旅をしながら落ち着く先を探していらっしゃるのですか?神様とその巫女様ともなれば、迎え入れたいと望む国や里は山のようにあるでしょうからね」
「これからどちらへ向かわれるおつもりなのですか?お急ぎの旅でないなら、しばらくこの辺りにお留まりになってはいかがでしょう」
邑人達は、表向きはそれまでと変わらぬ風を装いながらも、その眼差しはにわかに熱を帯び、熱く花夜に注がれていた。俺には彼らの心の内が手に取るように分かった。
神の力を目の当たりにした人間の反応は、いつも同じだ。一度だけでは飽き足りず、二度三度と続けて神の恩恵に与ろうとする。
花夜に向けられる邑人の視線を苦々しく思った俺は、
態と不機嫌さも
露に口を開いた。
「花夜、酒がなくなった」
話を
遮るように、乱暴に
酒坏を突き出すと、途端に邑人達はぴたりと口を
噤み、恐いものでも見るかのような顔で俺を見た。花夜はきょとんとした顔をした後、「仕方がない」とでも言いたげな顔で微笑む。
「はい。今お
注ぎ致します。でも、ほどほどにして下さいましね。どこぞの
大蛇の言い
伝えのように、お酒で身を滅ぼしでもされてはかないませんから」
邑人達は、まだ何か花夜に話しかけたそうにしていたが、俺を恐れてか誰も自ら口を開くことはしなかった。気まずい沈黙が降りる。
聡い花夜は苦笑を浮かべ、わざと明るい声を出し、邑人達に違う話を振る。
「あの、私達、今は
世界中の美しい景色を求めて気ままな旅をしているのですが、この辺りでどこか美しい景色を見られる場所をご存知ではありませんか?」
問われた邑人は俺の方を気にしながらも、やや安堵したように顔の強張りを解く。
「それでしたら、やはり
不尽の山でしょう。
祈形国広しと言えど、あれほどの山は他にはありません」
「
峡国は山神様に加護された国ですからね、どの山も
見応えがあるはずです」
人々が口々に
国内の名所を挙げていく中、一人の若者がふと思いついたように口を開いた。
「この辺り、と言うには少し遠いですが、
千々峰を越えた向こう、
霧狭司国の
宮処は、それはそれは壮麗で、一目見る価値のあるものだそうですよ」
「馬鹿。
他国のことを言ってどうする」
峡国の良い所を印象づけたかったのであろう他の邑人たちに小声で小突かれても、若者はわけが分かっていない顔で首を傾げるばかりだった。
「……霧狭司」
その名を、花夜は表情も無く
呟く。
俺と花夜は
四年の間に
祈形国の至る所を
巡ったが、霧狭司国には一歩も足を踏み入れていなかった。
「それほどに美しい所なのですか、霧狭司の宮処は」
自分の言葉に興味を示してもらえたのが
嬉しかったのか、若者は瞳を輝かせて
頷く。
「私もこの前、邑に立ち寄った旅の
商人から伝え聞いただけなのですが、他の国々とはまるで違う、この世のものとは思えぬ美しく大きな宮処だそうです。私も一度行ってみたくてたまらないのですよ」
「馬鹿を言うな。あのような、他国に戦を仕掛けてばかりの国など……。峡国の方がよほど良い国ではないか」
「そうだそうだ。噂ではあの国は、
鎮守神の加護を持つ国々にまでちょっかいをかけているそうではないか。神の加護する国同士が争うなど、恐ろしいことだぞ」
「……そうですね。恐ろしいことです。
何故、霧狭司の鎮守神様は、そのような恐ろしい企みを黙認なさっているのでしょう……」
それは邑人へ向けた言葉というよりも、
独り
言のようだった。花夜は邑人達の会話に
相槌を打ちながらも、心ここにあらずな表情だった。何を考えているのか窺い知ることはできない。だが、嫌な予感に胸が騒いだ。
明くる朝、別れの挨拶を述べて邑を立とうとする花夜の前に、邑君がおずおずと進み出た。何を言い出すつもりか、俺には察しがついていた。
「あの……男神様、巫女様、どうかこのままこの邑に留まり、我らの鎮守となってはいただけませんか?」
それは今までにも、こうして邑や里に立ち寄るたびに言われ続けてきた言葉だった。花夜は困ったような顔で邑人達を見渡し、口を開いた。
「申し訳ありませんが、そのお申し出はお受けできません」
邑人達の間から落胆したような吐息が零れる。だがそこには、初めから断られることが分かっていたとでもいうような諦めの響きも混じっていた。
「残念ですが、仕方ありませんな。このような田舎では到底男神様の御心には適いますまい。旅立ちの前に御心を乱すようなことを致しまして申し訳ございませんでした」
深々と頭を垂れる邑君を前に、花夜は腰の小袋を探る。
「あの……、私達はここに留まることができませんが、代わりにこの種を置いていきます。どうか受け取って頂けませんか?」
そっと手のひらに載せられた種に、邑君は瞳を瞬かせた。
「種、ですか?一体何の種でしょう?」
花夜は微笑んで告げる。
「私の祈魂を籠めた幸有の花の種です。祈がいを籠めて育てれば、その人が大切に想う誰かに、きっと幸を授けてくれます」
「あれで良かったのか?」
邑を離れてしばらくしたところで、俺は花夜に問いかけた。
「何がでしょうか?」
「あの邑のことだ。お前が望むならば、あのままあの邑の鎮守神となっても良かったのだぞ」
「いいえ、良いのです。そもそもヤト様はあの邑のこと、あまりお気に召してはいらっしゃらなかったでしょう?」
「……気づいていたのか」
「気づきますとも。私はあなたの巫女ですもの」
どこか誇らしげに微笑ってそう言い、花夜は俺の目をじっと覗き込んだ。
「それで、ヤト様はあの邑のどこがお気に召さなかったのですか?」
「……何もかもだ。神の力を欲しながら、俺のことは恐れて目も合わせられぬ所も、それでいて巫女の方は懐柔しようと馴れ馴れしくお前に話しかけていたことも、口では鎮守神を希いながら、端から諦めの態度が透けて見える所も、全てだ」
「そこまでお厭いになっては哀れです。神と見えるのも初めてという人々には無理からぬことかと思いますし」
「そうであったとしても、俺はあの手の輩は虫が好かぬ。自らの力で事を成そうとせず、他人の力や情けを当てにするような輩はな。幸有の花だとて、無事に育てられるものかどうか怪しいではないか。良かったのか?残り少ない種をあの邑に置いてきてしまって」
幸有の花は、花を咲かせるまでに恐ろしく手のかかる花だった。病にも虫にも弱く、他の花々との生存競争に敗れてしまうこともしばしばだった。冬を越さねば花が咲かないというのに雪の重みに負けて駄目になってしまうこともある。種を渡しても、育てるのを途中で諦め枯らしてしまう人間が後を絶たなかった。
「良いのです。あの種はそういうものですから。私達が態と手を加えて無事に育つよう仕向けたのでは意味がありません。それでは私の望む景色は生まれませんもの」
「……そうだったな。人間が他者を思いやり、祈がいを込めて育てた花がこの世界を埋め尽くす――それが、お前の一番見たい景色なのだったな」
花夜は微笑んで頷く。
美しい景色を求めて旅をするようになって幾月か後、俺は花夜に、どんな景色が一番見たいのかと尋ねたことがあった。花夜はしばらく悩んだ後、唇を開いた。
『ただ美しいだけではなく、心があたたかくなるような、見ているだけで幸せになれるような景色が見たいと思います。人間の優しい気持ちが形となったような景色が……』
そう言いかけて、ふと手のひらの上の幸有の花の種に視線を落とし、花夜は素晴らしいことを思いついたというように顔を明るくした。
『そうです、私、この花がこの世界を埋め尽くす様を見てみたいです。誰かに幸く有るようにと祈がいを込めて名付けたこの花が、その名の通りに誰かに幸をもたらしながら、この世界に広がっていく様が見たいです』
「……そのためにお前はわざわざ種の一つ一つに、名付け通りの力が宿るよう祈魂を籠めているのだからな」
「はい。とは言え、本当は私一人の祈魂では霊力が足りないのですが……。けれど、育てるのが困難な花を想いを籠めて育てれば、きっとその想いが祈魂となり、私だけでは足りない分を補ってくれると思うのです」
あの時と同じ顔で、花夜は幸せそうに微笑んでいた。
「私、今でも脳に思い描くだけで幸せになれるのです。誰かを想って育てられた花が無事に育ち花開けば、それはこの世界の人々の心に優しさが在ることの証となります。この花が世界を埋め尽くす様を見ることができるなら、どんなに戦や諍いの絶えない世の中であっても、人間の優しさを信じられると思うのです」
花夜の語るそれは、途方もない夢想に思えた。だが俺はその夢を無謀と嗤うことはできなかった。叶わぬ夢物語だと頭では思っても、その光景を思い描けば俺の胸も不思議なほどに震えた。その景色を、俺も実際にこの目で見てみたくなった。だから俺は、花夜のその夢に力を貸すことにした。
それ以来俺達は、時折茨蕀置の森に寄って幸有の花の種を補充しては、それを旅の途中に立ち寄る邑や里に置いていくということを続けてきたのだ。
「しかし、このようにずっと旅を続けていて良いのか?そろそろ
一つ
所に落ち着きたいとは思わぬのか?俺の意向を気にして遠慮することはないのだぞ」
改めて問うと、花夜はなぜかやや気まずげな表情で沈黙した。それからちらりと俺を横目で
窺った。
「遠慮などしておりません。
勿論、いずれは
何処かの国や里に留まり、ヤト様の
祭祀を次の
代へ引き継いでいくべきだということは分かっています。……でも、今はまだ、こうしてヤト様と
二人だけで旅をしていたいのです」
「そうか。ならば良いが」
その返答に、花夜は再び沈黙した後、わずかに頬をふくらませた。
「……分かっていらっしゃいませんね。私の言うことの意味を」
「何が分かっていないと言うのだ?」
問い返すと、花夜は小さくため息をついた。
「ヤト様はお気づきではなかったようですが、私は気がついていました。あの邑の若い
少女達が、ヤト様のお姿にうっとりと見惚れていたのを。年頃の
少女がヤト様のお姿に目を奪われるのは仕方のないことですが、内心穏やかではいられませんでした。つまりは私も、あまりあの邑が気に入ってはいなかったということです。……巫女にあるまじき思いだと分かってはいますが……」
言いながら俺を見つめる花夜の瞳は、どこか熱を帯びて潤んでいた。口にしない想いを、どうか察して欲しいと懇願するような瞳だった。
花夜が俺に向ける想いに、この時、俺はもう気づいていた。だが、打ち明けられないのを良いことに、それがどんな
類のもので、どれほどの想いなのか、深く考えることを無意識に避けていた。それが何故なのか、今ならば分かる。俺は、花夜との関係が変わるのを恐れていたのだ。
神と
人間との恋は、別段禁じられたものではない。神が
人間の女を妻とした
例は
古にもある。だが、神の妻になるということは、花夜から
人間としての平凡な生を奪ってしまうことに他ならない。
神と
人間とは生きる速さも
生死の
理も何もかもが異なり過ぎる。
人間として避けられぬ老いと、
常若の神の
生命を
目の当たりにした時、そして、いずれは必ず訪れる別れの時、花夜は、そして俺は、この恋を
悔いることなくいられるだろうか……そのようなことばかり考えて、結論を先延ばしにしていた。
そのように深く思い悩むほどに、俺の心は既に花夜に囚われていたというのに……。
「あ……」
花夜が小さく声を上げた。気づけば俺達は
岐路にさしかかっていた。
東の
霧狭司へ通じる道と、南の
峻流河へ向かう道だ。俺が何かを言うより早く、花夜が決意を秘めた眼差しで口を開いた。
「あの……霧狭司へ行ってはいけませんか?」
それは邑での
酒宴の時から、何とはなしに予想のできていた言葉だった。
「霧狭司、か。お前、今まで彼の国を避けてきたのではなかったのか?」
「はい。私にとって
彼の国は、あまり良い気持ちを持てる国ではありませんから。けれど、そうして避けながらも、いつも心のどこかに、霧狭司国のことをもっと知りたいという思いを抱いていました。どうして彼の国は、花蘇利を奪ったのか、どうして、他と比べられぬほど華やかに栄えて
尚、他国に手を出そうとするのか。そして、
水神様ともあろう御方が、それを見過ごされていらっしゃるのはどうしてなのかを」
「霧狭司へ行ったからと言って、それが分かるとは限らぬぞ」
「分かっています。それでも、一目見ておきたいのです」
花夜が
何故、霧狭司国へ行きたがるのか、俺には分かるような気がしていた。
俺達は共に、霧狭司によって大切なものを奪われ、心に深い傷を負わされた身だ。この傷をつけた相手と、もう関わりたくない、名も聞きたくないという思いは確かにある。だがそれと同じほど強く、ある思いを抱えていた。
俺達はなぜ、大切なものを奪われ、傷つかねばならなかったのか……相手が何を思い、
何故あのような行為に及んだのか、その
理由を知りたい、と。
問い
質したところで、満足な答えが返って来ないことなど百も承知だ。それでも、わずかな手がかりでも良いから理由が欲しかった。自分達の運命が、何の理由もなく
ただ
徒に狂わされたなどと思いたくはないのだ。
俺は深々と吐息した。
「行くぞ、花夜」
言いながら、
峻流河の方角へと歩を踏み出す。花夜はそれを見て気落ちしたように
項垂れた。
「やはり、霧狭司へ行ってはいけませんか。そうですよね……」
「いや、いけないとは言っておらぬが」
「え?でも、そちらの方角は……」
「お前、わざわざ道も無い
千々峰の山を行く気だったのか?ここは一旦、道の
開けた南の
峻流河へと下り、
水門から海路で霧狭司へ向かった方が楽ではないか」
「ヤト様……」
花夜の顔が明るく輝く。
「見たいと言うならば気の済むまで見れば良い。ただし
見るだけだ。
宮処を見たら、すぐにでも引き返すぞ。彼の国に長居するは危険だからな」
この時、俺は本当に、霧狭司国の宮処をほんのわずか見て、すぐに引き返すつもりでいた。元より、宮処へ行っただけで花夜の望む答えが得られるなどと本気で考えてはいなかった。ただ、わずかでも花夜の心の
蟠りが晴れればそれで良いと、その程度の気持ちでいたのだ。
どれほど悔やんでも、時が戻ることはない。そのことは痛いほど承知している。だが俺は、この時に戻ってやり直したいと
幾度祈がったか知れない。
俺達は、何があっても霧狭司に足を踏み入れるべきではなかった。そして俺は、花夜の想いに対する答えを、先延ばしになどするべきではなかった。延ばした先に
時間が残されているかどうかなど、誰にも分からないと言うのに……。