俺達は一旦、
霧狭司の
兵士の手により捕らわれ、国府の奥にある倉の一つに押し込められた。その扱いはとても神聖な巫女姫に対するものなどではなく、霧狭司が花夜のことを
前の
社首でも姫でもなく、単なる侵入者としか見ていないことは明らかだった。
倉の中は昼でも隙間から微かな光が差し込むのみで、隣にいる花夜の姿さえ暗がりにぼんやり沈んでいるように見える。膝を抱えて座り込んだまま一言も
喋らずにいる花夜に、俺はひそりと問いかけた。
「お前、
何故雲箇の言葉を信じる?己の父が信じられぬのか?」
俺はこの時まだ、雲箇の言葉を信じきれてはいなかった。一国の
首長としての決断とは言え、血を分けた己の娘をそう
容易く
見棄ててしまえるものなのかと疑問に感じていたからだ。まして、こんなにも健気に国を想う花夜のことを、非情に切り捨てるなど、できるものなのだろうかと。
「……もしかして、表情にでも表れていましたか?私が父を信じきれていないことが」
それは彼女にしては珍しい、どこか皮肉混じりの声音だった。
「ああ。お前のその瞳で分かった。口では違うと言いながら、瞳は既に何かを悟ったような色をしていた。自分が
棄てられることさえも『有り
得ること』と、
端から全てを諦めているかのような……」
その言葉に隣から苦笑するような気配が伝わってくる。花夜は
頷き、疲れたような声で言った。
「そうです。私は、父を信じていません。雲箇姫の言葉を否定したかったのは本当です。しかし、それが否定しきれぬ
真実だと、あの時既に分かっていました。私は、父にそうされても仕方のない人間なのです。私は……父に、憎まれているから……」
ひどく思いつめた顔で花夜が話し出したその時、ふいに柔らかな声が
室の
内に響いた。
『それは、あなたのせいではありません』
その声は花夜の腰に
吊るした五鈴鏡から響いていた。それは触れてもいないのにひとりでに裏返り、ほのかに光をたたえた鏡面を表に向ける。光は
次第に強さを増し、鏡面から盛り上がり、やがて鳥の形となって鏡から飛び出してきた。
「
母さま!?」
驚いたように名を呼ぶ花夜の前で、光はゆっくりと人の形をとっていく。
『改めまして、お初にお目にかかります、ヤトノカミ様。花夜の母・
鳥羽と申します』
光の中から
顕れたその姿に、俺は目を
瞠った。
「お前は……
鳥神の巫女だったのか」
初めて目にした人の姿の鳥羽は、花蘇利のような小国では
首長の
妃といえど決して身につけられぬはずの、高度な
手技による
衣裳を身につけていた。おまけに、独特な形の
袖を持つ
上衣は『
天の羽衣』と呼ばれる、鳥神に仕える巫女に特有のものだ。
『はい。私はかつて、ここより西の海辺に
在る『
水鳥多集く
羽真那国』の姫であり、国の
鎮守神たる鳥神様に仕える
社首でした』
「
莫迦な。
何故それが花蘇利の首長の
妃になどなっているのだ?神に仕える巫女に手をつけるは大罪。しかもそれが
他国の姫ともなれば尚更のことのはず……」
『その
訳は、これよりお話しいたします。私が
何故、
彼の人の妃となったのかを。そして花夜がこれまでこの国で、
如何なる目に
遭ってきたのかを……』
そうして鳥羽は語りだした。己の過去を。そして、花蘇利国でかつて何があったのかを……。
それは花夜の父・萱津彦が父親を戦で亡くし、まだ
二十にもならぬ若さで首長の座に就いてから、しばらく経った頃のことだった。花蘇利の浜辺に
一艘の
刳舟が流れ着いた。中にいたのは気を失って倒れ伏した一人の
少女。
それは白鷺を思わせるほっそりとした首と
鰒珠のように白い肌を持つ、繊細に整った顔立ちの少女だった。
しかも彼女は花蘇利の民が今までに目にしたことも無いような
衣裳に身を包んでいた。胸元を赤い紐で結んだ白い上衣は極上の柔らかさを持つ
練絹で織られ、しかもその袖は細かな
襞を
連ね、鳥の翼を模したかのような不思議な形をしていた。足先までを覆う長い
裳は色鮮やかな
朱華色。肩に掛けられた
生絹の
比礼には鳥の羽根の模様が
摺りつけられ、高く結った
髷の根元にも、やはり大きな鳥の羽根が飾られていた。幅広の腰帯には五つの鈴を持つ鈴鏡。高い身分を窺わせるように、耳には
金の耳飾りが揺れ、首にも勾玉と丸玉の
頸飾が
二重に
捲かれていた。
腰に鈴鏡を帯びるのは
東国では巫女の証。
泥に汚れてはいても、その衣裳が神
棲まぬ国には到底作れぬような高度な手技で作られた上等な巫女の
装束であり、それを身に着ける
少女が
何処かの国で神に仕える高貴な巫女姫であることは誰の目にも明らかだった。
話を聞き駆けつけてきた萱津彦は、少女の姿を見るなり言葉を失った。しばらくの間は少女以外は目に入らず、物も考えられぬような有様であったと言う。そして敵国の罠を疑う
臣たちの反対も取り合わず、彼は少女を自らの
館に運ばせると、
侍女らに命じ手厚く看護した。
そんな萱津彦の姿に、臣たちは悟らざるを得なかった。この若き首長が、美貌の
少女に一目で心奪われてしまったことを。しかもそれは、萱津彦にとって生まれて初めての恋。それまでに彼が経験してきた
戯れの恋などとはまるで違う、己でも
御しきれぬほどの、狂おしく危うい恋だったのだ。
濡れて汚れた衣裳を着替えさせられ、きれいに整えられた
床の中で、やがて少女は目を覚ました。だが目覚めた彼女は一切を忘れ、己が何者であるのかも分からなくなっていた。
萱津彦は少女に記憶が無いことを知ると、彼女が花蘇利に流れ着いた時に身につけていた一切のものを、首長と臣以外は立ち入ることの許されぬ
稲倉の奥深くに隠した。そして彼女に真実を思い出させぬよう、周りの者全てに口封じをした上で、偽りの過去を少女に教えたのだ。偽りの名を与え、偽りの身分を与え、少女がいづれ
首長の
妃となる定めなのだと信じ込ませた。そして記憶を失くして不安がる彼女の心に付け込み、甲斐甲斐しく世話を焼き……ついには本当に彼女を己の妃としてしまった。
神と契りを結んだ
巫はそのほとんどが、己の神以外に触れられると
霊力を喪ってしまう。それは大概の巫がその神を生涯の伴侶とする契りを結んでいるからであり、神以外の者と契りを結ぶことが神に対する裏切りとなるがゆえである。
しかし神と巫との関係性はそれだけが全てではなく、たとえば伴侶としてではなく、親子や友人のような関係性を結んでいる神と巫も少なくはない。そうした場合は巫が神以外の人間と結ばれようと霊力を
喪いはしないのだが、鳥羽もまた、そうした巫の一人だった。
妃となり、娘を産んでも尚、彼女の霊力は喪われることがなかった。それどころか、記憶を失い、巫女としての行いを一切していないにも関わらず、彼女はその存在自体により、知らず知らずのうちに自らの
居る国に恵みをもたらしていた。
神と契りを交わした巫女には、その神の属性に応じた加護が与えられる。そしてその加護は巫女本人のみならず、その周囲にも及ぶ。霊力の強さによっては、国一つを丸ごと加護してしまえるほどだ。
彼女が花蘇利に来て以来、ありとあらゆる鳥の害がなくなった。里の田が雀に食い荒らされることも、
漁った魚が水鳥に掠め取られることも一切なくなった。それが彼女のもたらした恵みであるということは、誰が教えるまでもなく
自然国中に広まっていった。花蘇利の国は富み、国の民は皆、彼女のことを女神のように崇め、慕うようになった。当初は鳥羽を妃とすることに反対していた臣たちも次々に態度を翻し、むしろ鳥羽が決して記憶を取り戻さぬよう、萱津彦に力を貸すような有様となっていった。
だが、そんな鳥羽が全てを思い出す時が、ある日唐突に訪れる。それは七つになった花夜が、出入りを禁じられた
稲倉に忍び込んで遊んでいた時のことだった。花夜はその倉の奥深く、厳重に隠されていた鳥羽の巫女装束を、偶然に見つけ出してしまったのだ。
幼い少女が今までに目にしたこともないような美しい
衣裳を見つけて、身に
纏いたくなるのは自然なこと。そして、その姿を誰かに見せたいと思ってしまったのは無理も無いことだっただろう。しかしそれが鳥羽の、花蘇利の、そして花夜のその後の人生を狂わせてしまった。
「ねぇ母さま、見て見て。こんなきれいな
衣を見つけたの」
「まぁ……本当ね。きれいな衣」
鳥羽は初めのうち、ただ無心に衣裳に
見惚れていただけだった。だが、花夜が衣裳とともに見つけてきた五鈴鏡を振り鳴らした途端、表情が変わった。彼女はしばらくの間、食い入るようにその鏡を見つめていたが、やがて両手で顔を覆い、その場にうずくまってしまった。
「母さま!?どうしたの!?どこか痛いの?」
たまたま鳥羽の元へと向かっていた萱津彦は、その声を聞きつけ部屋に飛び込み、花夜の姿を見るなり血相を変えた。
「何をしている、花夜!その衣裳をどこで見つけた!?倉には入るなと言ってあったはずだろう!」
思わず手を上げかけた萱津彦を、鳥羽は無言で制した。それから静かに立ち上がり、告げた。
「……思い出しました。全てを。私は、行かねばなりません。巫女として、国を救いに戻らねば」
萱津彦は愕然として妃の顔を見つめる。彼女は哀しげに微笑んで言った。
「私の
真の名は、
鳥羽。ここより西の海辺にある『水鳥
多集く
羽真那国』の姫にして、鳥神様に仕える社首です。あの日、羽真那は隣国の兵に襲われて……私は
一時難を逃れるため、舟に乗って
神社を逃げ出したのです。いずれ機を見て再び
社に戻り、鳥神様をお助けするはずでした。けれど不幸にも嵐に遭い、舟が沖に流され、
供人も皆波に
攫われ、私も気を失ってしまいました。気がつけば花蘇利の浜に流れ着き、全てを忘れていて……。こうして
幾年もの月日が
経ってしまいました」
「そうだ。あれからもう長い時が経つ。残念だが、お前の故郷が羽真那だと言うなら、その国は既に滅ぼされてなくなってしまったと聞いている。今更戻ったところで無駄なことだ。諦めて、このままここに居てくれ、
花名女」
己が付けた偽りの名を呼び、萱津彦が必死の表情で取り
縋る。だが彼女は首を横に振った。
「それでも、戻らねばなりません。あなたが
花蘇利の首長としてこの国を守らねばならぬように、私にも
羽真那の最後の巫女として最期の務めがあるのです」
「行けば殺されるぞ!敵国に捕らわれた巫女がどんな目に
遭わされるか知っているのか!?」
「覚悟の上です」
「行かせない!行かせるものか!どうしても行くと言うなら、行けないように閉じ込めるまでだ!」
萱津彦は鳥羽の手首を
掴み、無理矢理に宝物庫へと引きずっていった。そのまま鳥羽はそこに閉じ込められ、花夜もまた自室での謹慎を命じられた。だが、全てを思い出し、鳥神の巫女としての力を取り戻した鳥羽にとって軟禁場所を抜け出すことなど造作も無いことだった。鳥羽は時を見計らって宝物庫を抜け出し、花夜の元へ別れの挨拶に訪れた。
「花夜。これを渡しておきます」
かつての巫女装束に身を包み、すっかり旅支度を終えた姿となった鳥羽は、そう言って花夜に一面の鏡を渡した。鳥羽が花蘇利の浜に流れ着いた時に腰に帯びていた五鈴鏡だ。
「私はもう、あなたのそばにはいられません。これを私と思い、大切にしなさい」
「いやだ、母さま!行ってはいや!行かないで!」
泣いて引き止める花夜の頭を撫で、鳥羽は困ったように微笑んだ。
「そういうわけにはいきません。これは、私が私であるために為さなければならぬ務め。私は羽真那の最後の社首。私が解放して差し上げなければ、鎮守神たる鳥神様は国と交わした鎮守の契りにより彼の地に永久に縛られたまま、何処へも行くことができません。私のことを実の娘のように可愛がってくださっていた鳥神様を裏切ってこの国で平穏に生きることなど、私にはできないのです。……許してね、花夜。あなたやあなたの父さまを哀しませるのはとてもとても辛いけれど、それでも、私は彼の地へ戻ることを選ぶのです……」
鳥羽がどんなに言葉を尽くしても、花夜が納得することはなかった。とにかく鳥羽を行かせまいと、必死に衣を握り続けた。鳥羽はそんな花夜を無理に振り払うことはせず、ただ彼女が泣き疲れて眠るまで、ずっと頬や頭を撫で続けた。
次の朝、花夜が目覚めた時、既に鳥羽の姿はどこにもなかった。そして彼女が生きた姿で花蘇利に戻ることは、二度となかった。
最愛の
妃を失った萱津彦の嘆きようと怒りは凄まじいものだった。彼は花夜の頬を張り飛ばし、罵声を浴びせた。
「お前のせいだ!お前があの
衣裳を引っ張り出してなど来なければ、花名女がこの国を去ることは無かったものを!」
「ごめんなさい、父さま。ごめんなさい。ゆるして……」
泣きながら取り
縋る花夜を、それでも萱津彦は許さなかった。この
後彼は娘に対し、言葉を掛けることも触れることもなくなった。父だけでなく周りの人間も、鳥羽の加護が無くなり秋の
穀実が減ったことで、花夜に対する目を冷たくしていった。今まで自分たちが、真実を偽って鳥羽を花蘇利に引き止めていたことからは目を
逸らし、ただ鳥羽がいなくなったことに対する責を、全て花夜一人に負わせ責めたのだ。
だがその一方で、鳥羽の娘である花夜が何らかの霊力を受け継いでいることに期待し、幼い花夜を社首に祭り上げようとする人間たちもいた。しかし、巫の加護は神と契りを結んで初めて
験を
顕すもの。たとえ血を受け継いでいたとしても、鳥神と契りを結んでいない花夜がその加護を顕せるはずもなかった。
社首にはなったものの、鳥羽のような霊力を一切
顕すことのできない花夜は、やがて全てから見放され、かと言って首長の姫という立場ゆえ、あからさまに冷遇することも、一度就けた社首の座から
然したる理由もなく降ろすこともできず、
腫れ物のように扱われることとなった。唯一の慰めは、無事に務めを果たした鳥羽が死の間際、残りの霊力の全てを費やし、娘を見守る霊鳥へと姿を変えて舞い戻ったことだった。そうして花夜は、母の
霊だけを唯一の味方とし、頼る者の誰もない国の中で一人、生き抜いてきたのだ。
淡々と話されたその内容に、俺は激昂した。
「なんという身勝手な話だ。花夜、お前は国人を憎まなかったのか?何故、お前を然様な目に遭わせた国のために、危険な勧請の旅など引き受けたのだ!?」
「憎んでいないと言ったら、嘘になるのかも知れません。でも、私は皆を憎みたいわけではありません。だって、誰かを憎むのは苦しいことですから……。憎まれるだけでも苦しいのに、自分まで憎しみに染まってしまったら、心の内が痛くて、苦しくて、自分で自分を傷つけてばかりで、とても生きていけません。私はきっと、ただ哀しいだけなのです。憎まれるのが、哀しくて、辛くて、憎しみではなく愛を向けて欲しくてたまらないのです」
それは皮肉も苦みも何もかもが消えた、ただひたすらに静かで穏やかな声だった。絶望など最早味わい尽くし、憎しみも何もかも既に乗り越えてしまったとでもいうような声だった。
「私は、これまでずっと母のようになろうと努めてきました。言葉や仕草を真似てみたり、母のような霊力を得ようと巫女の修行に励んだり……。母のようになれれば、皆が母に向けていたのと同じ想いを、私にも向けてくれると思ったからです。けれど、どれほど努力を重ねても、誰も私のことを顧みてはくれませんでした。最早これ以上、何を努力すれば良いのか分からなくて、苦しくて……ですから、父から勧請の旅を命じられた時、私は何の躊躇いもなくそれを承諾したのです。鎮守神をお迎えすることができれば、皆が私を見る目を変えてくれると思ったから……」
そこまで言って、花夜は顔を伏せた。
「ごめんなさい、ヤト様。私はこのように卑小な人間です。国のため、戦を避けるためと言いながら、本当は国人に私のことを認めさせたいだけだったのです。……私のことを、軽蔑なさいますか?」
泣きそうな顔で、おそるおそる花夜が問う。俺は深々と溜め息をついた。
「するわけがなかろう。共にいたのは短い間だが、お前の心根が歪んでおらぬことくらい、疾うの昔に知っている。皆に認められたい、愛されたいと思うことの何が悪いと言うのだ。お前が国を守り、争いを無くしたいと望んでいるのは本当のことだろう。そこに少しばかり個人的な望みが加わったところで大したことではない」
「ヤト様……」
花夜は潤んだ目で俺を見た。遠慮がちに俺の衣を握り、花夜は吐息のように囁いた。
「ありがとうございます。……ヤト様が、私の神様で良かった」