「我が
使達よ、行け。我が目となり、辺りを探れ」
国府のそば近く、敵方に
気取られぬよう木の
陰に注意深く身を潜め、俺は
神使の
蛇達を
召び出した。周りの
草野から白い
蛇たちが無数に
湧き出し、するすると国府の塀をすり抜けていく。
俺はそれを見届けると
眼を閉じた。視界が一瞬闇に染まった
後、すぐに別の景色に切り替わる。
神使の蛇たちと俺との間には『
魂の
緒』と呼ばれる霊力で紡いだ糸が結ばれている。目を閉じればその糸を通して、神使の眼に映るものが俺の頭の中に映し出されるのだ。
脳に浮かぶその景色の中には、
鉄の小札を連ねた甲に身を包む
将や大刀を手にした
兵士達の姿が数多く在った。
「
国庁の周りはやはり兵士の数が多いな。突破するのは容易ではあるまい。どこか見張りの手薄な所は無いものか……」
幾匹もの神使たちの視界を転々と渡り歩き、国府の中を
探る。隣にいるはずの花夜は俺が声に出して状況を伝えてもほとんど言葉らしい言葉を返すことなく、時折申し訳程度の相づちを返してくるのみだった。悲壮なまでに張り詰めた花夜の気配を肌で感じながら、俺は
神社の方角へ向かった神使の一匹へと意識を合わせた。
「ん……?」
脳裏に映るその景色に、思わず疑問の声が洩れる。
「どうかなさいましたか?ヤト様」
「……妙だな。神社へ向かう道だというのに、兵士の姿がまるで見えない。どういうことだ?」
神社と言えば、国庁と並ぶ国の中枢のはずだ。その周りに見張りを置いていないなど有り得ない。
訝りながらも俺は神使を神社の内部へと
遣わした。
神社を囲む
二重の
空堀の先には
歪な円を描く塀が、そしてその更に先には幾つもの建物が立っていた。塀の外を見張るための物見やぐらに、
神宝を収めているであろう高床の倉、そして中央には長い
梯子を入口に架け渡した三層の
楼があった。
高い
梯すなわち『高橋』が架け渡されているのは、それが神を
祭祀る建物である証だ。俺は迷わず神使をその
楼へと向かわせた。
だが
楼に
辿り着く寸前、視界に映った
あるものに俺は意識を囚われた。
「花夜、お前、最近
社の庭で
祭祀をしたか?」
思わず傍らの花夜に問う。
「いいえ。そもそも花蘇利には社の庭で行う祭祀などございません」
「ならばあれは、八乙女の立てたものか?
楼の前に
神籬があるが……」
そこに
在ったものは、四本の柱と
注連縄で作られた結界と、その内に置かれた
八脚の
案。それは屋外で
祭祀を行う際の
仮初の
祭壇だった。ただしそれは通常の
神籬と異なり、
木綿垂を付けた
常緑樹が飾ってあるべき
案の上には、その代わりのように
瓢の葉を浮かべた
水盤が置かれていた。
「ん?
瓢の葉……?まさか……!」
その
刹那、俺の頭に神使を通してびりっと
痺れのようなものが走った。
霊異の気配だ。
「まずい!引き返せ!」
魂の
緒を通じて即座に命じるが間に合わず、神使の目の前でぶわりと水盤の水が盛り上がった。それは瞬く間に透き通った蛇の姿に変化し、神使に襲いかかってくる。水の
精霊・
水霊だ。
激しい水
飛沫が上がった直後、再び視界が闇に転じる。俺は
眼を開き、
呻くように
呟いた。
「……やられた」
「え?『やられた』とは、
如何なさったのですか?ヤト様」
「神使の一匹を水霊に捕らわれた。そうか。
兵士が一人もいないのはこうした
訳か。兵士など置かずとも、
八乙女の
霊力だけで充分なのだ」
血の気が引いていくのが自分でも分かった。
「花夜、今すぐ俺のそばから離れろ!……いや、ここで一人にさせるは、かえって
危ういか。しかし……」
考えもまとまらぬままに、とにかく花夜だけは逃がそうと俺は必死に怒鳴る。だが花夜は当然のことながら戸惑うばかりだった。
「何を
焦っておいでなのですか、ヤト様。
何故、離れろなどと
仰るのですか?」
「とにかく行くぞ!少しでも神社から距離をとらねばならぬ」
俺は花夜の手を取り立ち上がらせると、すぐに茂みを
掻き分け、森の奥へと駆け出した。花夜は何も分からぬまま、それでも黙って俺について来る。だが、ただでさえ長旅で疲労している上、
岐神との闘いの傷も
癒えてはいないのだ。花夜は次第に息を荒くしていき、ついには足をもつれさせ、地に転がってしまった。
「花夜!」
「大丈夫、です……。先へ行って下さい」
「何を言う!お前、
膝が震えてまともに立てていないではないか!」
俺は己の
不甲斐なさに
歯噛みした。いつもそうだ。
精霊だったあの頃も、神となってからも、俺は
唯一人の人間すら守りきれていない。
俺はその場に腰を
屈め、
擦り傷だらけの花夜の手当てを始めた。
「すみません。私がもっとしっかりと走れれば……」
「お前が謝ることではない。悪いのは俺だ」
「あの、私には未だ分からぬのですが、
何故逃げねばならぬのですか?」
「
神使の一匹を捕らわれたと言ったであろう。神使と俺は
魂の
緒で結ばれているのだ。それはすなわち……」
「すなわち、魂の緒を
辿れば、その主の元へ行き着けるということ」
ふいに凛とした声が森に響いた。ぎょっとして振り返ると、そこにはいつの間に現れたのか、一人の巫女の姿があった。つややかな黒髪を頭上高くから結い垂らし、白い
上衣と燃えるような
深紅の
裳に身を包んだ、年の頃十七、八と
思しき巫女だ。その手には、
瓢の
蔓で全身を
縛り上げられた、俺の神使の一匹が
握られていた。
「そなた達ですね。この白蛇を神社に
放ったのは」
巫女は音も無くこちらに歩み寄って来る。
兵士の一人も連れていないというのに、こちらを恐れる様子など全く無く、それどころかその顔にはどんな表情も浮かんではいなかった。
無駄な動きが一切無く、感情ですら表さないその様は、生きている人間のものとは思えず、まるで神か
精霊か、あるいはよく出来た
人形でも目にしているかのような不気味さを
醸し出していた。
「……あなたは、
霧狭司国の八乙女の一人ですね」
花夜が警戒心も
露に問う。目の前の巫女が相当に高い身分を持つ姫であることは、その身につけた
鮮やかな裳の色からも明らかだった。『
紅の八入』と呼ばれるその色は、高価な紅花を
惜しみなく使い、更にその
染汁に何度も何度も数えきれぬほど
浸し入れねば出せない。花夜が身につけていた裳のような、
茜で染める茶色がかった
緋色とは根本からして違う、
贅と手間を
尽くしたものなのだ。
巫女は花夜の問いにほんのわずか、美しい眉をひそめた。
「自らは名乗らず、私に名乗りを求めるのですか。まあ、良いでしょう。たとえ礼を欠いていようとも、問われたからには答えて差し上げます。私は
水響む霧狭司国の八乙女が一人、
雲箇。国を治める
二十一氏族が一つ、
葦立氏の姫。そして霧狭司の
国王の命により遣わされた、
花蘇利国の新しき
社首です」
それは彼女の姿を見た瞬間から予想できていた言葉だった。だがそれでも、その言葉が花夜に与えた衝撃は測り知れない。
花夜は凍りついたように雲箇を見つめ、一瞬その身をふらりと
傾がせた。だがすぐにハッとしたように表情を改め、胸を張り、雲箇に対抗するように名乗りを上げる。
「私の名は花夜。ヤトノカミの巫女にして、千葉茂る花蘇利国、
萱津彦の娘です」
その座を奪われ、もはや社首と名乗ることはできなくとも、それは精一杯の
矜持と威厳に満ちた、堂々とした名乗りだった。その名乗りに
雲箇は一瞬、虚を突かれたように言葉を
失くした後、
怪訝そうに問い返してきた。
「まぁ。ではそなた、国を追われた
前の
社首ではありませんか。
何故、今更ここへ戻って来たのですか?」
その言葉に、花夜は信じられぬと言うように目を見開く。
「国を追われた?何ですか、それは。私は知りません。だって私は、花蘇利に
鎮守神をお迎えするために旅に出されたはず……」
「これはまた異なことを。花蘇利国は自ら霧狭司の前に
膝を折り、
水神様の加護の下に入ることを決断したのです。それなのに、わざわざ危険な
勧請の旅に姫を
遣わすなど、有り得ぬではありませんか。そなたは
棄てられたのです。新しき神の
祭祀を広めるにあたり、古き
祭祀の象徴など不要。新しき社首を迎え入れるにあたり、前の社首を
始末するのは当然のことではありませんか」
ひどく残酷な言葉を、雲箇は表情一つ変えずに告げる。花夜はそれを否定するように激しく首を振った。
「そのようなこと、
偽りです!だって
父さまは、旅立つ私の頭を
撫でて『
幸く有れ』って言ってくれました!旅の無事を祈ってくれました!なのに……それが
偽りだったなんて、そのようなこと、あるはずが……」
必死に叫びながらも、花夜は自分で自分の言葉を信じきれていないような、そんな目をしていた。
「……仕方がありません。信じられぬと言うならば、その目と耳で確かめるが良いでしょう。
水神様の治める地に招かれざる神を引き入れた罪は、本来ならば死に
値するところですが、いたづらに
死人を出し
穢れを生んでは、私の
霊力に
障りが出ますゆえ」
どこまでも勝手なその物言いに、俺は
雲箇を
睨めつけた。だが、それ以上どうすることもできなかった。雲箇の後ろには水神がついている。到底俺の
敵う相手ではない。
花夜は迷うように視線を
彷徨わせた後、覚悟を決めたように
頷いた。
「分かりました。会わせて下さい、父さまに」