深い藪を抜けた先には、一本の
藤の巨木があった。
「……なんて美しい藤の木……。一体どれほどの
歳月を
経れば、このような大木に育つのでしょう……」
花夜が感嘆の声で呟く。藤の木は、その太い蔓を大蛇のように他の木の幹に絡みつかせ、
天を覆うように広げた枝に満開の花を咲かせている。その花房が風に揺れる様は、まるで薄紫の花の滝のようだった。
杜の
四方から飛んで来る
祈魂の群れは、その花の一つ一つに宿り、藤の木全体をぼんやりと光り輝かせていた。
「この祈魂はどうやら、藤の木に寄せる人間の想いが形と成ったもののようだな。藤の木に対する人間の、愛情や憎悪、感謝の念に『
祈がい』――ありとあらゆる想いが祈魂と
化り、その想いの対象に依り憑く。それは積もり積もって、やがて莫大な霊力の塊となり、神を降ろす器を成すのだ。祈魂がこうして、目に
視えるまでに強くなり、光り輝くのは、その『器』が間も無く完成する
兆だ。もうすぐここに、藤の
木神が降臨されるぞ」
「……『降臨』?それは、
何処か他の
世界から、この『
祈形国』へ、神様の
霊がいらっしゃるということですか?」
「そういうことになるのだろうな」
「何処の
世界からいらっしゃるのですか?神話に出てくる
高天原や
豊葦原瑞穂国や
常世国という
世界は、本当に在るのですか?」
好奇心のままに問いかけてくる花夜に対し、俺は無言になった。花夜はハッと表情を変える。
「すみません。もしかして、
人間が聞いてはならぬ話でしたか?」
「……いや、そうではない。俺自身も
識らぬのだ。神や
精霊の霊が何処より生まれ来るのかを。この
世界のことならば、誰から教えられずとも大概のことは識っている。だが、この世界の外のことは、まるで分からぬ。そのような
理になっているようだ」
口籠りながらなんとか説明を終えたその時、背後の茂みが派手に鳴った。
「お?何だ、お前。こんな所で一人で何をしている?」
振り向いた先には数人の
男が立っていた。格好から察するに、木を
伐ることを
生業とする
杣人と思われた。
「私は巫女です。勧請の旅の途中で、ここに立ち寄らせて頂いております」
巫女という高い身分にありながら、花夜はどんな人間に対しても丁寧な物腰で接していた。男達はやや面食らったように花夜を見つめる。
「……へぇ。あんたみたいな
女子さんが、一人で旅を、ねぇ」
男の一人が
下卑た笑みを浮かべた。その時の俺は、
俗人からは視えぬよう姿を
幽したままだったから、男達の目には
女子の一人旅のように映ったのだろう。男達があらぬ行動に出るようなら姿を
顕し花夜を守ろうかと思った、その矢先、別の男が先ほどの男をたしなめた。
「妙なことを考えるなよ。相手は巫女様なのだぞ、この
罰当たりが」
「でもよ、
霧狭司国のお
偉いさんからしたら、他国の巫女が霊力を失うのはありがたいことなんじゃねぇのか?」
「霧狭司……」
花夜が硬い表情で呟くのが聞こえた。俺も男達を見る目を険しくする。それは俺にとって
因縁浅からぬ国の名だった。
「ばか。それで俺達が罪を犯し、汚れた手で御神木に触れたのでは本末転倒だろう。
神坐として使えなければ、苦労してこの木を伐って帰っても何の報酬も得られんのだぞ」
そう言って男が指差したのは、目の前で咲き誇る藤の木。花夜は顔色を変えた。
「伐る?この木を、ですか?」
「ああ、そうだ。だから悪いが、よそへ行ってくれないか?このままここにいられたら危ないんでね」
「いけません!この木には間も無く神様がお宿りになるのです!伐ってはいけません!」
花夜の必死の訴えを男達は一笑に付した。
「何言ってんだ?どこに神様がいるって?どう見たって、ただの木じゃねぇか」
何の霊力も無いこの男達には、藤の木を輝かせる祈魂の光など、視えはしないのだ。
「だいたい、それが本当だとしても、所詮は藤の木の神様だろう?俺達がこの木を伐るのは、この世の全ての水を司る
水神様のため。藤の木の神なんぞとは格が違うんだ」
「格が違う?確かにそうだな。神の間にも序列というものは存在する。この世の
基を
形成す風火水土の四柱の神と比べられては、大概の神が下位に置かれるだろう。だが神は神。お前たち人間が容易く傷つけて良い存在ではない」
俺はそれ以上黙って男の話を聞いていることができず、姿を顕した。男達はぎょっとして後ずさる。
「こいつ……!どこから現れた!?」
「待て!
銀の髪に
紅い瞳……こんな色、
人間にはあり得ない!神だ!」
「そうだ。神だ。お前たち人間の敵う存在ではない。この木のことは諦めて、すぐに立ち去れ。さすれば見逃してやろう」
だが男達は去らなかった。彼らは顔を強張らせながらも、冷静に俺から距離をとり、腰に下げた袋から何かを取り出した。
「まさか本当にこんなものを使うことになるとはな……」
「ああ。
神祇官様の仰ることは真実だった。この杜には荒ぶる神や精霊が本当に棲んでいるのだな……」
男が手にしたのは一枚の
瓢の葉だった。男はそれを飲み水の入った皮袋の中へ放り込む。直後、皮袋から、到底その中に収まっていたとは思えぬ量の水が噴き出した。
「何!?まさか、
祈道の
業!?」
悲鳴のように叫ぶ花夜の目の前で、噴き出した水が透明な蛇の形を成していく。水の精霊、すなわち
水霊だ。
「
瓢は水神の
御印だ。おそらく霧狭司国の巫女が、予め術を施し杣人達に渡しておいたのだろう。……厄介なことを」
俺は小さく舌打ちした。蛇神は水の霊力に属する神。俺が蛇身に変化したところで、水霊と闘うにはあまりに相性が悪い。
「大丈夫です。私にお任せ下さい」
花夜はおもむろに腰から五鈴鏡を外すと、その鏡面を天へかざした。
「
母さま!時間を
稼いで下さい!」
花夜が叫んだ刹那、鏡から白い光が飛び出した。それは見る間に白鷺のような形へと変化し、
水霊へ向かっていく。花夜の母・鳥羽の霊鳥だ。鳥羽は水霊を
翻弄するようにその目の前を素早く飛び回り、注意を引きつける。その
隙に花夜は、
沓を脱ぎ捨て素足で土の上を踊りだした。
手にした五鈴鏡を振り鳴らし、身につけた
珠をしゃらしゃらと響かせ、
身体全体で音律を
奏でる。それはこの時代でさえ既に忘れられかけた、
古の
素朴な
祭祀だった。
「千葉茂る花蘇利国の社首・花夜が
祈がいます。この世界のあまねく山を司る
大山祇神が子神・木の花の散るを司る
木花散流比売尊、どうか我が身に一時その魂をお分け下さい」
謡うように神への祈言を口にする花夜の瞳は、
次第にとろん、と
虚ろになってくる。神の魂をその身へ降ろすため、無我状態となるのだ。やがてその瞳が、それまでとは別の光を帯びて輝く。
『
木霊よ、
茨蕀置の
杜にて今、花咲ける木々の
精霊たちよ、その
種子を、
花弁を、我が元へ
疾く散らせ』
花夜の唇から、花夜のものではない強い
言霊を秘めた声が紡がれる。直後、轟音が耳を打った。杜の木という木が枝を揺らし鳴り騒ぐ音、それにより巻き起こされる風の音、耳を覆いたくなるようなその音と共に、何かがこちらへ押し寄せてくる。
「ヤト様!目と鼻を
塞いで下さい!」
花夜が叫ぶ。反射的にそれに従うと、何かひどく細かいものが頬を撫で、水霊の方へ通り抜けていくのを感じた。
「何だ!?目が……っ、目が痛いっ!」
「ぶはっくしょ……っ、くしゅっ、くそっ!鼻汁が止まらん!」
男達が悲鳴を上げる。おそるおそる目を開け、俺は状況を悟った。
「なるほど。水の霊力を
削ぐには土、か」
目を閉じる前までは透き通っていたはずの水霊の躯は、今や様々な色が混じり合い、まだらに
濁っていた。濁りの正体は
杜中から散り集まった花粉や花弁だ。
「水の動きを鈍らせるには、土をかけて泥にしてしまえばいい。でも私には土神様や山神様をお
召びするほどの霊力はありません。ですから、
木花散流比売尊の
魂をお借りしました。
木の花より散りしものもまた、やがて土へと変わるもの。土ほどではありませんが、水の霊力を削ぐことができます」
花夜の言葉通り、水霊は最早その形を保ってはいなかった。花粉と花弁が溶け混じり、泥の塊のような姿となり、地にもがいていた。俺は人の姿のまま水霊の元へ歩み寄り、濡れた花弁に埋もれた
瓢の葉を手刀で両断する。
霊媒を失った
水霊は、ぴくりとも動かなくなった。
男達は花粉にむせび苦しみながらも、俺から逃げようと駆け出す。俺は指を鳴らした。木々の下生えの間に潜んでいた
神使の蛇達が、ゆらりと這い出し男達の足に絡みつく。
「逃さぬ。お前達は
余熱が冷めたら、どうせまたこの木を伐りに来るのだろう?そうはさせぬ。せめて藤の木神がこの木を離れられるほどに育つまで、手出しをしてもらっては困るのだ」
「き、伐らない!伐らないから!み、見逃して下さいっ!」
「悪いが人間の言うことは信用できぬ。特にお前達、霧狭司の
国人はな」
俺は男の一人に歩み寄り、その喉元に
手刀を突きつけた。
「お
止め下さい、ヤト様!」
制止する花夜に、俺は鋭く問う。
「止めてどうする。この男どもが本当にこの木を諦めると思うのか?たとえどれほど固く誓いをさせたとて、当てにはならぬ。人間は我が身可愛さに約束さえ平気で
違える生き物だ。ここでこの男どもを始末しておくか、我々がここに留まり続けでもせぬ限り、この木を守ることはできぬ」
「武力で解決するだけが全てではありません!他にも手段はあります!」
花夜はそう言うと、再び五鈴鏡を手にとり踊りだした。
「千葉茂る花蘇利国の社首・花夜が
祈がいます。
天探女尊よ、我が身にその魂をお分け下さい」
花夜の瞳が妖しく輝く。俺は顔を強張らせて身を引いた。
「あ……
天探女、だと……っ?」
『まぁ、失礼な反応ですこと。せっかく力を貸して差し上げようとしていますのに』
花夜の身に降りた
天探女は、なまめかしい
仕草で髪をかき上げると、艶然と微笑んだ。蛇に捕らわれた男達は、いつの間にか悲鳴を上げることも忘れ、その姿に見入っている。
『ねぇ、あなた達。このままこの神に殺されたくはないのでしょう?』
俺を指差し、天探女が男達に問う。男達は呆けた顔のまま激しく首を縦に振った。
『でも、このまま手ぶらで帰って
咎めを受けるのも嫌なのでしょう?』
男達は再び首を振った。その瞳は虚ろで、正直に答えれば己の不利に働くという考えすら、今は浮かばぬように見えた。
『だったら良い方法を教えてあげましょう。霧狭司の
神祇官にはね、こう伝えるの。行ってみたら、藤の木は根が腐り枯れておりました≠チて。こうすれば、あなた達が
咎められることはないし、この神に殺される危険を
冒してまでもう一度木を
伐りに遣わされることもないでしょう?』
男達の顔が明るく輝く。天探女はいたずらっぽく笑んで俺を振り返る。俺はしぶしぶ指を鳴らし、神使に男達を解放させた。男達は奇妙な笑みを顔に貼りつけたまま、後も見ずに駆け去っていく。
『これで、ひとまずは安心でしょう。私の暗示に逆らえる人間などいませんもの』
「さすが、人の心を惑わし、
真実をねじ曲げることには
長けているな」
『いつでも
真実ばかりを口にすれば上手くいくというものではありませんわ。嘘が悪いもののように言われるのは、皆がその使いどころを間違えるからです』
「その使いどころを
違えて主を死なせた
汝がそれを言うのか」
『あら。あなたこそ、そんなことを言える立場ではありませんわよね?今でこそ、神と呼ばれ
畏れられていますけど、元は主さえその身で
殺めた荒ぶる
精霊ですものねぇ』
その刹那、残酷な情景が
脳に
蘇った。全身に浴びた血潮の熱さと、
鉄錆びたようなその匂い、その中で己の発した叫びさえもが、今この場で響いているかのように鮮明に蘇っていた。
――
真大刀!目を開けよ!このようなこと、あってはならぬ!お前までもが命を
喪うなど、あってはならぬ!
俺は天探女を
睨みつけ、低い声で告げた。
「助力には感謝しよう。だがその身から
疾く
去ね。それは我が巫女の肉体だ」
『言われなくても、もう行きますわ。あなたのように無礼な男神とこれ以上話していたくありませんもの。あなたみたいな神の巫女が、こんな
善い
女子だなんて、
勿体ない限りですわ……』
最後まで恨みがましい呟きを口にしながら、天探女は花夜の身を離れていった。俺は過ぎし日の幻に心囚われたまま、ただぼんやりとそれを見送った。