それからしばらくのことは、己でも何をしていたかよく覚えていない。
花夜を喪った胸の痛みを
埋めることもできぬまま、ただ、あてもなく
遠近を
彷徨っていた。
時折は
知人に会うこともあったが、皆、俺の死んだような
眸を見ると戸惑った顔で口を
噤み、言葉
少なに去っていく。だが、
彼の女神だけは違っていた。
「お久しぶりですわね。今は『
夜刀神』と名乗っているのですって？」
髪や眸の色を変え、
人間の振りをして訪れた
峠の
茶店。そこで
偶に再びめぐり会った
彼の女神は、そう言って
艶やかに微笑んだ。
「
天探女か。
何故このような所にいる？」
「相も変わらず無礼な神ですこと。私が
何処にいようと私の勝手ではなくて？」
俺のあからさまに
煩がるような
口振りに眉をひそめながらも、
天探女は勝手に俺の隣に腰掛け、茶飲み話を始める。
「私もあなたと同じですのよ。これまで
契りを
交わしていた
男巫が
逝ってしまったものですから、あてのない旅をしている
最中ですの。
人間の姿に
化って
遠近の国を
覗き、新しき
巫でも探そうかと思っていますのよ」
「……新しき
巫、か。よくもまあ、そうも
容易く切り替えられるものだな。その死した
男巫に対して
情は無いのか」
「
情なら彼が生きているうちに、たっぷりとかけてあげましたわ。ですから死した後に心残りや
悔いを残したりはしませんの。だいたい、私の情が薄いのではなくて、あなたの情が厚過ぎるのですわ。
百年余りもの間、ただ一人の巫女に縛られて……。おまけにその名も、巫女の名から一字を取っているのですって？よくもまぁ、そこまで
人間に思い入れられるものですわ。今もこれからその巫女に会いに行くところなのでしょう？」
「会いに行く……？」
問いの意味をつかめず
訊き返すと、
天探女はきょとんと目を
見開いた。
「あら、違いますの？あなたの巫女が眠っているのはこの近くの山の中なのではなくて？あなたの
嘆き悲しむ声がそれはそれは激しく長く響き渡っていたせいで、この辺りの神々や
木霊達にはよく知られた所ですのに」
「……そうか。
此処はあの花園の近くなのか」
花夜を
喪ってからずっと、俺はあの花園に
一度も足を踏み入れていない。この時、いつの間にか花園の近くまで来ていたことも、天探女に言われて初めて気がついたほどだった。
「
呆れたものですわ。それほど大切にしている巫女の元へ、一度も足を運んでいないだなんて。そんなに、思い出すのが
辛いんですの？」
俺は答えず、言葉も無く茶をすする。天探女は
大袈裟な
溜め息をついた。
「とにかく、一度くらいは会いに行っておあげなさいな。胸の傷が痛むからと言って、あんな人も訪れないような寂しい所に
葬ったまま、会いにも行ってあげないようでは、あの巫女も
哀しみますわよ」
花夜が哀しむというその一言が、俺の胸に突き
刺さった。
こうして俺はあの日以来、初めてあの花園に足を踏み入れることとなった。
季節は春。
崖の上にある花園からは美しい
花弁がひろひろと、
天を舞う
蝶のように風に運ばれて来る。
俺はそれを見るともなしに
眺めながら、なかなか花園へ入る踏ん切りがつけられずにいた。あの場に再び立てば、あの日の悲しみが生々しく
蘇ってくるような気がして、恐ろしかった。
だがその時、そんな俺の
躊躇いを吹き飛ばすかのように、幼い声が響いた。
「たす……けて……っ。だれかっ……！」
ぎょっとして見上げると、花園へと
至る崖の途中、年の頃八つか九つほどの
女童が一人、岩にしがみつくようにしてぶら下がっていた。
「何をやっているのだ！」
俺はすぐさま崖を登り、女童を助ける。俺に
抱えられて崖を下りた女童は、深々と頭を下げて礼を言ってきた。
「どうも
有難う、
お兄さん」
「お前、
何故あのような所にいた。落ちたらただでは
済まぬ所であったぞ」
「あの……。この崖の上から、
年毎にすごくきれいな
花弁が飛んで来るんです。だから、どんな花なのかどうしても気になって、
確かめてみたくなって……」
「それで崖を登る途中、足を踏み
外してぶら下がっていたということか。そうまでして見てみたいほど綺麗な
花弁なのか」
「はいっ！まるで
天を
転がるようにひらひらしていて、その裏に表に風に
翻る様が、まるでお日様を
浴びてきらきら
瞬いているように見えて……まるで冷たくない雪のようで、見ていると心がふわぁーっとあたたかくなるんです。すごく、幸せな気持ちになるんです！」
眸を輝かせて言う
女童に、俺は
気紛れに問いかけた。
「ならば、見せてやろうか」
「え……？」
「俺が崖の上まで連れて行ってやろう。どうだ？行ってみたくはないか？」
今にして思えば、
独りで立ち入るのが
辛いこの花園に、誰か一人でも別の人間がいれば気が
紛れると、そういう気持ちがあったのかも知れない。
「はいっ！」
女童は顔中を笑みで満たして
頷く。俺はその
幼子を背負って崖を登り、百数十年ぶりに花園へと足を踏み入れた。
「うわぁー……。すごい！やっぱり、
綺麗！こんな花、見たことない！」
女童ははしゃぎ声を上げ、花園を走り回る。俺は呆けたようにその景色に見入った。
崖を登りきって
直ぐに目に飛び込んできたのは、
丈の低い花々の中にあって一つだけ、高く
天へと伸びた花の木だった。
ちょうど花夜の身を埋めた辺りに、
標のように立つその花は、俺にとってあまりにも
見覚えのあるものだった。
「この花、何という名の花なのでしょう。お
兄さんは知っていますか？この花の名を」
あどけない声に、俺は
呆けたまま答えを返す。
「この花は、
幸有の花。誰かの
幸を
祈がう
人間の優しさを
糧として育ち、見る者全てに幸を与えてくれる花だ」
女童はきょとんとした顔で俺を見上げ、舌足らずな声で花の名を繰り返す。
「さく…ら……？」
薄紅の淡い
花弁が、雪のように
降り
注ぐ。
名付けた者の
祈がいをそのまま表したかのような、あたたかく、優しい
花弁だ。その
花吹雪に包まれて、俺は、
視えざる誰かの
腕にあたたかく抱き締められているかのような錯覚を
覚えた。
「あれ？お兄さん、どうしたの？」
泣きそうで泣けない俺の顔を、女童が
訝しげに
覗き込む。俺は答えず、花を見上げたまま女童に問いかけた。
「お前、この花が好きか？」
「え？はい。好きです。すごく、きれいだから」
「ならばお前に、この花の種をやろう。今は持っていないが、俺は
年毎に必ず
此処へ来ることにするから、その時にでも……」
――私、この花がこの
世界を埋め尽くす様を見てみたいです。誰かに
幸く
有るようにと
祈がいを込めて名付けたこの花が、その名の通りに誰かに
幸をもたらしながら、この
世界に広がっていく様が……。
いつかの花夜の言葉が、胸の中で蘇る。
「広めてくれ、この花を。いつかこの
世界を、この優しい花で埋め尽くせるように……」
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