第十三章 花の(その)に眠る少女(おとめ)

 銀の龍の姿となり、両の前肢(まえあし)花夜(かや)を抱いて、俺はあてもなく空を泳いだ。
 宮処(みやこ)を離れ、千々(ちぢ)(つら)なる峰々を越えて行く。そのうち緑一色だった眼下に、ふいに鮮やかな色彩が広がった。山の中腹、俗人では登ることも下りることもできぬ急峻(きゅうしゅん)(がけ)に囲まれ、ひっそりと存在する美しい花園。俺は人の姿に戻ってそこに()り立ち、色とりどりに()れ咲く花の海にそっと花夜の身を横たえた。
「花夜……何故(なぜ)だ。何故、こんなことになった?人の命を救うためとは言え、お前自身が命を(うしな)ってどうすると言うのだ?」
 何もできない(くや)しさと歯がゆさに、思わず(うら)(ごと)が口をついて出る。花夜は血の()()せた(ほお)に静かな笑みを刻んだ。
「……すみません。あの瞬間は、自分のことなど……頭に浮かばなかったのです。私はただ、もう誰が血を流すところも見たくなかった……それだけしか頭に浮かばずに……気づいたら、勝手に身体(からだ)が動いていました。自分がどうなるかなんて、考えもせずに……」
 途切(とぎ)れ途切れに花夜は語る。それは吐息(といき)のような、今にも消えてしまいそうに(はかな)い声だった。
「……こんなことになって……(かな)しい、ですけど……こんな風に、あなたを哀しませたくなど、なかったのですけど……。でも、私……ほんの少し、(ほこ)らしいんです。命を張って誰かを守るなんて……そんなことが自分にできるとは、思っていませんでしたから。だから、せめて私のこの最期(さいご)を……ばかなことをしたとは、思わないでいて下さいますか?……ヤト様」
 死の(ふち)に立ちながら、それでもなお、恨み言の一つも(こぼ)さない花夜の考えが、俺には分からなかった。
「お前は、何故(なぜ)そんなにも(おだ)やかに全てを受け入れられるのだ。恨みはないのか?怒りはないのか?ただでさえ薄幸(はっこう)の人生だと言うのに、他人のためにばかり()け回り、傷つき、その上ついには他人の身代わりに命を散らすなど……これではお前は、何のためにこの世に生まれて来たか分からんではないか!」
 血を()くような思いで(さけ)んだ。(むく)われることの少なかった彼女の人生があまりにも哀しくて、叫ばずにはいられなかった。この心優しき少女(おとめ)が、何故(なぜ)こんな所で無惨(むざん)に死に行かねばならぬのか、この運命の理不尽(りふじん)さが俺には到底(とうてい)納得できなかった。だが、花夜は俺の言葉を静かに否定した。
「……いいえ。私には……今ならば、分かる気がします。私が、何のためにこの世に生まれてきたのか、その理由が……」
 花夜は自分の人生を振り返ってでもいるかのように、遠い目で空を(なが)めた。
「きっと私は、『花夜(わたし)』を生きるために生まれてきたんです。花蘇利国(かそりのくに)で、父さまと母さまの子として生まれ、あなたと出会い、共に旅をした……この世に二つとない、私だけの人生を生きるために」
「何を言うのだ、花夜。お前の人生は、決して幸せなものではなかっただろう?母を喪い、国の民に(しいた)げられ、父にも()てられ、あてもなく野山をさすらう日々だったではないか。そんなもののために、お前は生まれてきたと言うのか?」
 俺の言葉に、花夜は困ったように微笑む。
「“そんなもの”なんて言わないで下さい。……私は幸せでした。辛かったことも、哀しかったことも、今となっては全てが愛しく思えるんです。出会いも、別れも、(なみだ)も、胸の痛みさえも……何もかも全て、他の誰にもたどることのできない、私だけが味わうことを許されたものたち。……この世界の長く果てない歴史の中でも、たった一人……私だけが(きざ)むことを許された記憶たちですから。それに……」
 花夜の(ふる)える手が俺の衣袖(きぬそで)(さぐ)るように()れた。俺はその小さな手のひらを、両手であたためるように(にぎ)りしめた。
「この世で唯一の恋ができましたから。……あなたは、まだ分かっていらっしゃらないでしょう。あなたが私にどれほどの幸せをくださったかを。あなたの(となり)にいるだけで、どれほど世の中が美しく見えたかを。……あなたと出会えたというそれだけで、私はこの人生を幸せだったと、胸を張って言えるのです」
 そう言って微笑む花夜の顔は、沈みゆく茜色(あかねいろ)の日の光を受けて、まるでこの世のものとは思えぬほどに神々(こうごう)しく輝いて見えた。俺の手を弱々しく握り返し、花夜はため息のように(ささや)く。
「ただ、できることならば……もっとあなたと一緒(いっしょ)にいたかった。もっといろいろな場所へ旅をして、いろいろな景色を見たかった……。言い出せば、きりがないのでしょうけど……。もっと、あなたのお姿を眺めていたい…ですけれど……もう、本当に、目を開けていられません」
「花夜!」
 消えゆく命をつなぎ()めようとでもするように、名を叫ぶ。花夜のまぶたは今にも閉じられてしまいそうに、小刻(こきざ)みに震えて見えた。
「……ごめんなさい。あなたを、こんな形で、(ひと)りにしてしまいます……。本来なら、何処(どこ)かの国や里の鎮守神(ちんじゅしん)にして差し上げて……、多くの民に囲まれ(した)われる幸せを、あなたに味わって(いただ)かねばならないのに……。せめて、私がいなくなった後は……新しき巫女を見つけて……幸せな、暮らしを……」
「ばかなことを言うな!そんな幸せ、俺は()らん!俺の巫女はお前だけだ。お前だから(ちぎ)りを結んだのだ!もうこの先、誰とも契りは結ばん!俺の巫女は、生涯(しょうがい)お前一人だ!」
「……(うれ)しい」
 花夜の(ひとみ)から、透明な(しずく)(こぼ)れ落ち、頬の横の花びらを()らす。
「その、お言葉だけで……充分(じゅうぶん)です。だから……私のために不幸になど、ならないで下さい。ヤト様……どうか、あなたに……()く、()ら……」
 その言葉は、最後まで続けられることなく途切(とぎ)れた。俺の手の中で、花夜の小さな手のひらが力を失って重くなる。まるでただ眠っているだけのような静かな花夜の白い顔を、俺は呆然と見つめた。
「……花夜、目を開けろ」
 頬を(たた)き、呼びかける。つい先刻まで言葉を()わしていたというのに、もうその(たましい)はここにはない。死とは何と呆気(あっけ)なく、受け入れ(がた)いものなのだろう。
 しばらくの茫然自失(ぼうぜんじしつ)の後、ひたひたと押し寄せてきたのは、()え難い喪失感(そうしつかん)と狂おしいまでの焦燥(しょうそう)だった。()き上げてくるその衝動のまま、俺は花夜の身をかき抱き、慟哭(どうこく)した。
 時間を忘れ、昼も夜もなく泣き叫び続け、いつしか(なみだ)()()てた。だがどれほど(なげ)いたところで花夜が(よみがえ)ることはない。自暴自棄(じぼうじき)になったように物も食べず眠りもせず(わめ)き続けたところで、人間(ひと)と同じ生死の運命(さだめ)を持たぬ俺が花夜の元へ旅立てるわけでもない。
 大切なものだとは分かっていた。(うしな)(がた)いものだということも知っていた。だが、それがどんなに当たり前に俺の日常の一部となっていたかを、実際に(うしな)ってみて初めて知る。
 俺の世界に美しい色彩(いろ)をつけてくれていた、知らないうちに優しいもので()たしてくれていた――君が俺に(およ)ぼしてくれていた、そのあまりに大きな影響力に、失った今、俺は呆然とするより他ない。だが、それでも俺の生は途方(とほう)も無く続くのだ。君の()けた世界に、ひとり取り残されたまま……。
 神と人間(ひと)とでは、生きる速さも生死の(ことわり)も何もかもが(ちが)う。いつか別れが来ることは初めから分かっていた。だが、俺は分かったふりをしていただけで、本当はまるで分かっていなかった。そのことを、今やっと理解した。俺は何故(なぜ)、君を()くして平気でいられると思っていたのだろう。
 せめてその(たましい)脱殻(ぬけがら)だけでもずっと抱いていたかったが、生命を(うしな)ったものはやがて()ち行くのがこの世の運命。この世の摂理(せつり)はほんのささやかな俺の()がいすら許してはくれない。
 その身が綺麗(きれい)な姿を(とど)めているうちに、俺は花夜の身を花の中に()めた。そして、ひとり花園を後にした。もはや(なみだ)が流れることはなかったが、その日も俺の()わりに泣くように、静かに雨が()っていた。
 
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