銀の龍の姿となり、
両の
前肢に
花夜を抱いて、俺はあてなく
天を泳いだ。
宮処を離れ、
千々に
連なる峰々を越えて行く。そのうち緑
一色だった
眼の下の景色に、ふいに鮮やかな
色彩が広がった。山の
中程、
俗人では登ることも下りることもできぬ
険しい
崖に囲まれて
密やかに
在る美しい花園。俺は人の姿に戻ってそこに
降り立ち、色とりどりに
群れ咲く花の海にそっと花夜の身を横たえた。
「花夜……
何故だ。何故、
斯様なことになった?人の命を救うためとて、お前
自ら命を
喪って
如何にする?」
何もできない口惜しさと歯がゆさに、思わず
恨み
言が口をついて出る。花夜は血の
気の
失せた
頬に静かな笑みを刻んだ。
「……すみません。あの
瞬間は、己のことなど……頭に浮かばなかったのです。私はただ、もう誰が血を流すところも見たくなかった……それだけしか頭に浮かばずに……気づいたら、勝手に
身体が動いていました。自らがどうなるのかなど、考えもせずに……」
途切れ途切れに花夜は語る。それは
溜め息のような、今にも消えてしまいそうに
儚い声だった。
「……このようなことになり……
哀しい、ですけれど……このように、あなたを哀しませたくなど、なかったのですけれど……。けれど、私……ほんの少し、
誇らしく思うのです。命を張って誰かを守るなど……そのようなことが私にできるとは、思っていませんでしたから。だから、せめて私のこの
最期を……ばかなことをしたとは、思わないでいて下さいますか?……ヤト様」
死の
淵に立ちながら、それでも
尚、恨み言の一つも
零さぬ花夜の心が、俺には分からなかった。
「お前は
何故、
斯様に
穏やかに全てを受け入れられるのだ。恨みは無いのか?怒りは無いのか?ただでさえ
幸薄き人生だと言うのに、
他人のためにばかり
駆け回り、傷つき、この上、
終には
他人の身代わりに命を散らすなど……これではお前は、何のためにこの世に生まれて来たか分からぬではないか!」
血を
吐くような思いで
叫んだ。
報われることの少なかった彼女の人生があまりにも哀しく、叫ばずにはいられなかった。この心優しき
少女が、何故このような所で
惨たらしく死に行かねばならぬのか、この
運命の理不尽さが俺にはとても受け入れられなかった。だが、花夜は俺の言葉に静かに異を
唱えた。
「……いいえ。私には……今ならば、分かる気がします。私が、何のためにこの世に生まれてきたのか、その
理由が……」
花夜は己の生を振り返ってでもいるかのように、遠い目で
天を
眺めた。
「きっと私は、『
花夜』を生きるために生まれてきたのです。
花蘇利国で、
父さまと
母さまの子として生まれ、あなたと出会い、共に旅をした……この世に二つとない、私だけの
生命を生きるために」
「何を言うのだ、花夜。お前の生は、決して幸せなものではなかったであろう?母を喪い、
国人に虐げられ、父にも
棄てられ、あてもなく野山をさすらう日々だったではないか。
斯様なもののために、お前は生まれてきたと言うのか?」
俺の言葉に、花夜は困ったように微笑む。
「“
斯様なもの”などとは
仰らないで下さい。……私は幸せでした。辛かったことも、哀しかったことも、今となっては全てが
愛しく思えるのです。出会いも、別れも、
泪も、胸の痛みさえも……何もかも全て、他の誰にも
辿ることのできない、私だけが味わうことを許されたものたち。……この世の長く果てなき
時間の中でも、
唯一人……私だけが
刻むことを許された思い出たちですから。それに……」
花夜の
震える手が俺の
衣袖に
探るように
触れた。俺はその小さな手のひらを、両の手であたためるように
握りしめた。
「この世で
唯一つの恋ができましたから。……あなたは、まだ分かっていらっしゃらないでしょう。あなたが私にどれほどの幸せをくださったのかを。あなたの
隣にいるだけで、どれほどに世の中が美しく見えたのかを。……あなたと出会えたというそれだけで、私はこの生を幸せだったと、胸を張って言えるのです」
そう言って微笑む花夜の顔は、沈みゆく
茜色の日の光を受けて、まるでこの世のものとは思えぬほど
神さびて
輝いて見えた。俺の手を弱々しく握り返し、花夜は
溜め息のように
囁く。
「ただ、できることならば……もっとあなたと共にいたかった……。もっといろいろな所へ旅をして、いろいろな景色を見たかった……。言い出せば、きりがないのでしょうけれど……。もっと、あなたのお姿を眺めていたい…ですけれど……もう、本当に、目を開けていられません」
「花夜!」
消えゆく命をつなぎ
留めようとでもするように、名を叫ぶ。花夜のまぶたは今にも閉じられてしまいそうに、
小刻みに震えて見えた。
「……すみません。あなたを、このような形で、
独りにしてしまいます……。真であれば、
何処かの国や里の
鎮守神にして差し上げて……、多くの
国人や里人に囲まれ
慕われる幸せを、あなたに味わって
頂かねばならないのに……。せめて、私がいなくなった後は……新しき巫女を見つけて……幸せな、暮らしを……」
「ばかなことを言うな!
斯様な幸せ、俺は
要らぬ!俺の巫女はお前だけだ。お前だから
契りを結んだのだ!もうこの先、誰とも契りは結ばぬ!俺の巫女は、この命の果てるまでお前ただ一人だ!」
「……
嬉しい」
花夜の
眸から、
透き通った
滴が
零れ落ち、頬の横の
花弁を
濡らす。
「その、お言葉を頂けただけで……私はもう、他に何も
要りません。ですから……私のために不幸せになど、ならないで下さい。ヤト様……どうか、あなたに……
幸く、
有ら……」
その言葉は、最後まで続けられることなく
途切れた。俺の手の中で、花夜の小さな手のひらが力を失って重くなる。まるでただ眠っているだけのような静かな花夜の白い顔を、俺は
呆けたように見つめた。
「……花夜、目を開けよ」
頬を
叩き、呼びかける。つい先ほどまで言葉を
交わしていたというのに、既にその
霊はここにはない。死とは何と
呆気なく、受け入れ
難いものなのだろう。
しばらく我を失い
呆けた
後、ひたひたと押し寄せてきたものは、胸を
穿つような
虚ろさと、狂おしいまでに乱れ騒ぎ俺を
苛む心の痛みだった。その想いに
突き動かされるまま、俺は花夜の身をかき
抱き、
天地を
震わすほどに嘆き叫んだ。
時間を忘れ、昼も
夜もなく泣き叫び続け、いつしか
泪は
涸れ
果てた。だがどれほど
嘆いたところで花夜が
蘇ることはない。
自棄になったように物も食べず眠りもせず
喚き続けたところで、
人間と同じ生死の
運命を持たぬ俺が花夜の元へ旅立てるわけでもない。
大切なものだとは分かっていた。
喪い
難いものだということも知っていた。だが、それがどれほど当たり前に俺の日々の一部となっていたかを、実際に
喪ってみて初めて知る。
俺の日々に美しい
彩りを与えてくれていた、知らぬうちに優しいもので
満たしてくれていた――君が俺に
及ぼしていた、そのあまりに大きな力に、失った今、ただ呆けたように立ち
尽くすより他ない。だが、それでも俺の生は
途方も無く続くのだ。君の
欠けたこの
世間に、ひとり取り残されたまま……。
神と
人間とでは、生きる速さも生死の
理も何もかもが
違う。いつか別れが来ることは初めから分かっていた。だが、俺は分かったふりをしていただけで、本当はまるで分かっていなかった。そのことを、今になってやっと思い知らされた。俺は何故、君を
失くして平気でいられると思っていたのだろう。
せめてその
霊の
脱殻だけでもずっと抱いていたかったが、
生命を
喪ったものはやがて
朽ち行くのがこの世の
運命。この世の
理はほんのささやかな俺の
祈がいすら許してはくれない。
その身が
綺麗な姿を
留めているうちに、俺は花夜の身を花の中に
埋めた。そして、ひとり花園を後にした。
最早泪が流れることはなかったが、その日も俺の
代わりに泣くように、静かに雨が
降っていた。