長い長い追想から還り、俺は空を見上げた。いつの
間にか雨は
止み、
雲間からは
下弦の月が
覗いている。二十三夜の、
月待の月だ。
いつしか『
さくら』と呼ばれるようになった花は、俺の頭上で月光に照らされ、花びら一枚一枚に
灯を
点したかのように淡く輝いている。
俺はあれからずっと、この花の種を
蒔き続けている。あれからさらに何百もの年が過ぎ、気づけば花は国中に広まっていた。
病気に負け、害虫に負け、何百という木が
駄目になったことがあった。木材や
薪として、何百という木が
伐り倒されたこともあった。だがいつの時代にも、不思議とこの花に深く
魅せられる者が現れ、脈々と花の
系譜を
繋いでいく。
いつしか花は人々に愛され、国の
境も
海峡も越えて広まった。
そして今や春となれば、
至る所に
薄紅の花の海が生まれる。人々は花に引き寄せられたかのように木の下に集まり、心
和んだような
笑みを浮かべる。
きっと、これで良かったのだろう。その本当の名や意味は忘れられても、この花を見た人々が、ほんの
束の
間でも世の
辛さや哀しみを忘れ、幸せな気持ちや、優しい気持ちになれるなら……君はそれで充分だと言って
微笑ってくれるだろう?
花夜……。
答えの返ることのない呼びかけを再び心の中で
囁き、さくらの木を見上げる。そこで俺はふと違和感を
覚えた。
さくらの花は
相変わらず、その花びらに淡い輝きを
点している。だが、それが月光に照らされているせいだけではないことに、俺はようやく気がついた。
「これは……
祈魂?」
それはいつか花夜と見たのと同じ光景だった。花の周り、
青闇に包まれた
空に、蛍火のような光を
放ちながら
漂うものがある。
それは、さくらを愛する人々の想いが形を
成したもの。――さくらに寄せる人々の想いが、今この木に新たな神を降臨させようとしている。
俺は息をつめてその様を見守った。
祈魂の光は
徐々に
一箇所に集まり、人の形を成していく。優美に広がる長い
裳裾に、それが女神であることが分かる。肩にはさくらの花をつなぎ合わせたような形の
領巾が、髪には
枝垂ざくらの
花簪が
揺れる。まだ大人になりきれていないような、
華奢で未成熟な印象を与える女神だ。その姿が鮮明になるにつれ、俺の胸は奇妙な
既視感にざわめきだした。
目の前で、光が
弾ける。さくらの香りが一段と
濃くなった。白に、黄金に、虹の七色……ありとあらゆる色彩を
凝縮したようなその光の後に現れたのは、どこか
頬にあどけなさを残す、
一柱の姫神。
「あなたは……龍神?
何故、ここに……?」
女神は目の前に立つ俺を見つめ、不思議そうに両眼を
瞬かせる。小さな唇から
零れたのは、俺のことがまるで分からぬというような、疑問を宿した声だった。だが、それは記憶の中のものとまるで変わらない、
懐かしい
声音をしていた。
俺はすぐには返事ができなかった。胸がつまって、
上手く言葉が出て来ない。いつかの問いの答え――神や精霊の
魂が
何処から
巡り来るのかを、俺は今、初めて知った。
枯れたはずの
涙が頬を
伝う。それを
拭うこともしないまま、俺は微笑み、名を呼ぶ。もう幾百年もの間、呼びかけても答えの返ることのなかった君の名を。
きっと君は、全てを忘れてしまっているから、今度は俺が教えてあげよう。春には花かんむり、夏には川辺の
木陰、秋には
黄葉、冬には満天の星……君と共に見た景色、君が教えてくれた全てのことを。
君の生まれたこの世界は、とても美しいところだから。
