屋根は遠近(をちこち)が破(やぶ)れ、庭には泥(ひじ)が溜(た)まり、すっかりみすぼらしくなった宮殿(みかど)に女神を伴(ともな)い降(お)り立つと、すぐに海石(いくり)が走り寄(よ)ってきた。
「泊瀬(はつせ)様！泊瀬様は御無事(ごぶじ)ですか!?」
　女神の腕(かいな)に抱(だ)かれ力無く眸(ひとみ)を閉じている泊瀬に気づき、海石の顔は蒼(あお)くなる。
「大事(だいじ)無い。気を失っておるだけだ」
「鎮守神(ちんじゅがみ)様……。元の御姿に戻られたのですね……」
　女神の言葉に海石は安堵(あんど)の息をつき、俺達の方に目を移した。
「花夜姫！大丈夫(だいじょうぶ)なのですか？お顔の色が優(すぐ)れませんわ」
「大丈夫です。……少し、疲(つか)れてしまっただけです。それよりも海石姫。何やら、宮殿(みかど)の内の気配が穏やかならざる気がするのですが……」
　俺の背から降(お)りようとする花夜に手を差し伸(の)べながら、海石はその頬に皮肉(ひにく)な笑みを浮かべた。
「……ええ。嵐が鎮(しづ)まった後、この騒(さわ)ぎの源(みなもと)を求め多くの人が集まって来たのですわ。葦立(あだち)氏(うぢ)の企(たくら)みは今や宮殿中の知るところとなり、皆がその罪を責め咎(とが)めているところですの」
　海石の言う通り、そこには俺達が飛び立つ前にはいなかった多くの人々が集まっていた。葦立氏はその中で一所(ひとところ)に集められ、周りを他の氏族に囲まれて項垂(うなだ)れている。宮殿には彼らを咎(とが)め、蔑(さげす)み、罵(ののし)る声が満ちていた。
　女神はその様子に一時(いっとき)眉(まゆ)を曇(くも)らせたが、すぐに表情(かお)を引き締(し)め、泊瀬を抱いたまま歩(あゆ)みを進める。
　人々は女神に気づくと一時(いちどき)に唇(くちびる)を閉ざし、その場に平伏(ひれふ)していった。
「……皆(みな)の者、宮処を騒(さわ)がせてすまなかった。詫(わ)びて済(す)むこととも思えぬが、せめて詫びを言わせてくれ」
　女神が詫(わ)びの言葉を述(の)べると、人々の間から恐(おそ)れ入(い)るような声が上がった。
「勿体(もったい)なきことでございます！そもそも今度(こたび)の騒(さわ)ぎは、葦立氏が泊瀬親王(はつせのみこ)を弑(しい)し奉(たてまつ)ろうとしたのが事の始まり。鎮守神様の罪ではございません！全ての咎(とが)は葦立氏にあります。鎮守神様、どうかこの者共(ものども)に罰(ばつ)をお与え下さい！」
　人々は口々に葦立氏への裁(さば)きを求める。女神は再び哀(かな)しげに眉を曇(くも)らせた。
「……相も変わらず醜(みにく)いものだ。何か事が起これば嬉々(きき)として互(たが)いを咎(とが)め合う。此(こ)の宮殿(みかど)の者共は全く、哀しいくらいに何も変わらぬものだな。……ここにいるのは皆、大なり小なり何がしかの罪を犯(おか)してきた者ばかりであろうに」
　皆一様に項垂(うなだ)れ、身を縮(ちぢ)めている葦立氏の中にあって、雲梯(うなて)だけは己(おの)が立場も周りの声も我関(われかん)せずとばかりに笑う。その振舞(ふるまい)に周りを囲む男(をのこ)の一人が苛立(いらだ)ったように声を上げた。
「雲梯様。あなたは今少し、御自(みづか)らの御立場を弁(わきま)えられた方がよろしいかと存(ぞん)じますが。王太子(ひつぎのみこ)と言えど、泊瀬親王(はつせのみこ)弑逆(しいぎゃく)の企(くわだ)てに与(くみ)した罪は重(おも)うございますぞ」
　だが雲梯は怯(ひる)むこともなく落ち着き払った表情(かお)で言い返す。
「お前達の方こそ、今少し考えて物を言った方が良いぞ。先の私の言葉に偽(いつわ)り無きことは鎮守神様も既(すで)に御存知(ごぞんじ)だ。お前達の犯した“罪”は私の血を通して既に鎮守神様の知るところとなっているのだからな」
　その言葉に、ざわめいていた室(むろ)の内が再び刹那(せつな)のうちに静まりかえる。雲梯は女神に目を向け、大国の王太子(ひつぎのみこ)に相応(ふさわ)しい雅(みやび)かな笑(え)みで問う。
「さて、鎮守神様。我らへの裁(さば)きは如何(いか)なるものになるのでしょうか？心優しきあなた様のこと、他の族(うから)の罪も知りながら、我らだけを罰(ばっ)するような筋(すぢ)の通らぬことはなさりますまい」
　女神はわずかに目を逸(そ)らし、そっと溜(た)め息を零(こぼ)した。
「……妾(わたくし)は元よりお前達を罰する気など無い。人間(ひと)の罪は人の間で裁(さば)くべきものと思うておるゆえな。如何(いか)なる罰を与えるかは、皆でよく話し合って決めるが良い。……必ず泊瀬を交(まじ)えて、な」
　淡々(たんたん)と語るその声には、女神の憂(うれ)いの心が滲(にじ)み出ているかのようだった。海石(いくり)に肩(かた)を支(ささ)えられた花夜(かや)が気遣(きづか)わしげに見つめると、その眼差(まなざ)しに気づいた女神が苦(にが)く微笑(ほほえ)む。
「案ずるな。少々気の滅入(めい)るような場ではあるが、斯様(かよう)なことで荒魂(アラタマ)になりはせぬ。もう泊瀬に斯様(かよう)なことはさせられぬからな」
　他の者達に聞こえぬようひそりと囁(ささや)き、女神は腕(かいな)の内に眠る泊瀬の髪(かみ)をそっと梳(す)く。それはまるで母が赤子に触(ふ)れるかのような、心から愛しいものに触れていると傍目(はため)にも分かる、優しく慈(いつく)しみに溢(あふ)れた手つきだった。
　その様を、食(く)い入(い)るように――どこか狂(くる)おしいまでの眼(まなこ)で見つめる者があった。頑(かたく)なに纏(まつ)わり付くようなその眼差(まなざ)しの主(ぬし)は……魂依姫(タマヨリヒメ)・雲箇(うるか)。
　髪は乱(みだ)れ、衣裳(きぬも)は汚(けが)れ、かつての凛(りん)とした姿が嘘(うそ)のように惨(みじ)めな姿で葦立氏の中に座らされていた彼女は、俄(にわか)にふらりと立ち上がった。
「……鎮守神(ちんじゅがみ)様。あなた様にとってその親王(みこ)は、如何(いか)なる存在(もの)なのですか？」
　そのままふらふらと女神に歩(あゆ)み寄ろうとする彼女を、皆(みな)が止めようとする。だが雲箇(うるか)が小さく祈道(キドウ)の詞(ことば)を呟(つぶや)くと、肩に羽織った比礼(ひれ)がふわりと揺れ、止めに入った者の悉(ことごと)くを風の霊力(ちから)で薙(な)ぎ倒した。時を同じくして、雲箇の手を縛めていた縄も鋭い風の刃に断ち切られてはらりと地に落ちる。
「魂依姫(タマヨリヒメ)を捕らえておきながら、神宝(かむだから)を取り上げておかなかったのですか!?」
　海石(いくり)が眦(まなじり)を吊(つ)り上げ、葦立(あだち)氏を取り囲んでいた人々を咎(とが)める。
「そうは言われても、真実(まこと)に御神宝(みかんだから)を目にしたことのない我らには、何(いづ)れが御神宝で何(いづ)れがそうではないのかなど、分からぬのだ……」
　巫(カンナギ)であれば常(つね)にはない霊力(ちから)の宿った神宝(かむだから)を見分けることなど造作(ぞうさ)も無いことだ。だがそもそも霊力(ちから)を感じ取る目を持たぬ俗人(ただひと)から見れば、それはただの比礼(ひれ)としか思われなかったのだろう。
　取り返しのつかぬ過(あやま)ちに、海石は苦々(にがにが)しげに唇(くちびる)を噛(か)みしめた。
「……花夜(かや)姫、申し訳(わけ)ありませんが、しばらく此処(ここ)で堪(こら)えていてくださいませ」
　一言謝(あやま)り、花夜の身を手近にあった厨子(づし)にもたせかけると、海石は迷いを振り切ったような表情(かお)で雲箇の前に立ちはだかった。
「止まりなさい！葦立雲箇(あだちのうるか)！仮にも魂依姫(タマヨリヒメ)たるあなたが鎮守神様に刃向(はむ)かうなど、許(ゆる)されることではありませんわ！」
「“魂依姫(タマヨリヒメ)”……。そうです。私は魂依姫。この国の一の巫女なのです……」
　雲箇の眸(ひとみ)は海石を映しているようで、まるで映していない。その目はただひたすらに女神へと向けられていた。
「鎮守神様。何故(なにゆえ)私に目を向けてくださらぬのですか？私は魂依姫。あなた様の一の巫女です。あなた様にとって、この国で最も大切な存在(もの)は、その親王(みこ)などではなく、この私ではないのですか？何故、私の鎮魂(タマシヅメ)の祈りを聞き届けてくださらなかったのですか？何故、私を見てすら頂(いただ)けぬのですか？」
　其処(そこ)に在(あ)ったのは悲しみでも嘆(なげ)きでもなく、ただ何の含(ふく)みも持たぬ疑問の声のみだった。雲箇は未(いま)だに己(おの)が立場を、己が為(な)してきたことを、疑ってすらいないのだ。
「あなた様にお仕(つか)えするためだけに、長年尽(つ)くして参りましたのに。この位(くらい)に昇(のぼ)りつめるために、多くのものを引替(ひきか)えにして参りましたのに……。その親王(みこ)が、あなた様の御心を惑(まど)わせたのですか？その親王(みこ)さえいなくなれば、私に目を向けて頂けるのですか？」
　言いながら、雲箇は懐(ふところ)に手を差し入れ、何かを取り出す。それは、別宮(わけみや)の古墳(ふるつか)の中で海石が落とした刀子(とうす)だった。
「海石姫！」
　花夜が悲鳴のように名を呼ぶ。海石は青ざめながらもその場を退(ひ)かない。
「葦立雲箇(あだちのうるか)！己が何を為(な)さんとしているか、分かっているのですか!?」
「何ですか、その目は。私が正気ではないとでも言いたげですね。私はもちろん正気です。鎮守神様が斯様(かよう)な、宮処(みやこ)で騒(さわ)ぎを起こすしか能のない親王(みこ)にお目をかけられるはずがありません。鎮守神様はきっと、何かおかしな霊力(ちから)で惑(まど)わされているのです。あの親王(みこ)さえいなくなれば、御目を覚(さ)まして頂けるはずです」
「あなたはまだ己が過(あやま)ちに気がつかないのですか!?あなたのその位は、あなたそのものが力を尽(つ)くし何かを喪(うしな)って得たものではなく、他の者を生贄(いけにえ)とし、その泪(なみだ)の上に成り立ったもの。斯様(かよう)なものに意味があるとでも思うのですか!?」
　亡(な)き親友(とも)を想ってか、雲箇を詰(なじ)る海石の目には泪(なみだ)がにじんでいた。だが雲箇は己がなぜ責められているのか分からないとでも言いたげに眉(まゆ)を顰(ひそ)めた。
「幾人(いくたり)もの人間(ひと)で位を競(きそ)い合えば、敗(やぶ)れていく者があるのは当たり前のことではありませんか。力無きものが敗れるは世の理(ことわり)。そうして敗れた者が泣こうが命を落とそうが、己(おの)が力が足りなかっただけのこと。私には関(かか)わり無きことです。生き残りたくば、如何様(いかよう)な手を使ってでも力を手に入れれば良いだけの話ではありませんか」
　そもそもの物の捉(とら)え方があまりにもかけ離(はな)れている相手に、こちらの物の考え方や人の道をただ説(と)いて聞かせたところで通じはしない。――言葉の通じない相手というものは世の中に必ずいるものだ。そしてそれに気づかされた時、ほとんどの人間(ひと)は、分かってもらうために力を尽(つ)くしたり工夫(くふう)をしようと考えるよりも先に、望(のぞ)みを失くしてしまったり、苛立(いらだ)ちや焦(あせ)りに目が眩(くら)んで何も考えられなくなるものらしい。
　海石もまた呆(ほう)けたように目を見開(みひら)き、しばし言葉を失った。やがてその口元に、ひきつった笑(え)みが浮かぶ。
「……話になりませんわね。あなたにはきっと最期(さいご)まで分かりませんわ。何故(なにゆえ)あなたでなく、泊瀬(はつせ)様が鎮守神様のご寵愛(ちょうあい)を得(え)たのかなど……」
　その皮肉を帯(お)びた眼差(まなざ)しに、雲箇の眉(まゆ)がぴくりと上がる。
「何ですか、その顔は。私が其処(そこ)の親王(みこ)より劣(おと)っているとでも言う気ですか。……そう言えば、あなたは其処の親王(みこ)付きの宮女(みやをみな)でしたね。あなたも其処の親王(みこ)と共に鎮守神様を惑わせていたのでしょう。ならば今この場で、魂依姫たる私がその罪を裁(さば)いて差し上げます！」
　言うなり、雲箇は刀子(とうす)を振り回し海石に踊(おど)りかかる。海石は悲鳴を上げ、髪一筋(かみひとすぢ)の間(ま)で刃(やいば)を避(さ)けた。
「止(や)めよ！葦立雲箇(あだちのうるか)！妾(わたくし)は惑わされてなどおらぬ！」
「いけません、鎮守神様！今の雲箇ではあなた様のお言葉さえ耳に入りませんわ！泊瀬様と共にお逃(に)げくださ……」
　海石が思わず後ろを振り返り、女神へ向けて叫(さけ)んだその時、再び雲箇が刀子(とうす)を構(かま)え飛び出してきた。だが海石は気づくのが遅(おく)れ、すぐには動けない。
　避(さ)けられぬ刃(やいば)がその身に突(つ)き立つかと思われた刹那(せつな)――二人の間に割り込んだ影があった。
「御二人とも、おやめくだ…………ッ」
　二人を止める声は途切(とぎ)れ、意味を成(な)さない悲鳴に変わる。胸に刃(やいば)を受け床(ゆか)に崩(くず)れるその人影を、俺は信じられぬ思いで見つめた。
　呆(ほう)けたように、ただ立ち尽(つ)くすばかりだった己が迂闊(うかつ)さを、俺は呪(のろ)った。彼女(・・)がこのような場を黙(だま)って見過ごせるはずなどなかったというのに……。
　ただ成(な)り行(ゆ)きを見つめるだけだった俺の傍(そば)で、彼女は己が為(な)すべきことを逸早(いちはや)く悟(さと)り、ほとんど力の残っていない身体(からだ)を無理に動かしてまで行動を起こしてしまって(・・・・・・・・)いたのだ。
「……花夜！」
　名を叫(さけ)び、駆(か)け寄る。花夜は痛みに潤(うる)む眸(ひとみ)で俺を見上げてくる。その衣(きぬ)にはじわじわと血の染(し)みが広がりだしていた。
「……何故(なにゆえ)です？何故、己と関わり無き者を救うために身を投げ出すのです？それが一体何になると言うのです……？」
　取り乱し狼狽(うろた)え、震(ふる)える声で雲箇が呟(つぶや)くのが背中越しに聞こえる。
「世の中には斯様(かよう)な人間(ひと)も在(あ)るということだ。そなたの知るものだけがこの世の全てではない。己に都合(つごう)の良い真実(まこと)ばかりを受け入れて、それをこの世の理(ことわり)だと思い込もうとしたところで、世の中はいとも容易(たやす)く“それ”とはまるで違(ちが)う理(ことわり)で動いていったりするものだ。……我々は鳥や獣(けもの)と違い、なまじ心が深く入り組んでいるがゆえに、弱きものは死に絶(た)え強きものだけが生き残るという自然の理(ことわり)だけでは生きていけない。強さや力が求められる世の中であっても、どこかで心を求めてしまう生物(いきもの)なのだ。そなたが弱さや偽(いつわ)りと吐(は)き捨てて持とうとしなかったものを、この姫や泊瀬は確(たし)かに持っているし、それ故そなたは鎮守神様に御目をかけられることはなかった。そなたがいくら否定しようと足掻(あが)いたところで、その真実(まこと)は変えられぬ。……族(うから)の思惑(おもわく)により態(わざ)と心を封じられ、情(なさけ)を奪(うば)われてきたそなたにとっては酷(むご)きことであろうがな……」
　雲梯(うなて)が雲箇へ向け憐(あわ)れむように、だがそれでいてどこか突(つ)き放(はな)すような口振(くちぶ)りで何事(なにごと)か語りかけていたが、その時の俺にはどうでも良いことだった。
「花夜姫！」
　海石が泪(なみだ)のにじむ目で花夜の傍(かたわ)らに膝(ひざ)をつき、胸に沈(しず)む刀子(とうす)を引き抜こうと手を伸(の)ばす。だがすぐに女神に止められた。
「待て！うかつにそれを抜(ぬ)いてはならぬ。下手(へた)をすれば血が噴(ふ)き出し、すぐに死に至(いた)ってしまうぞ」
　女神は泊瀬の身を海石に預(あず)け、花夜の傷口に手を当てた。女神の霊力(ちから)が土に染(し)み込(こ)む水のように、花夜の身に注(そそ)がれていく。花夜の顔から緩々(ゆるゆる)と苦しみの色が消えていくのを見て、俺はほっと息をついた。
　血が流れ出すのが止まったのを見計(みはか)らい刀子を引き抜いた女神に、俺は礼の言葉を述(の)べようと口を開(ひら)く。だが、女神の顔色に気づき、その言葉を発することができなくなった。
「……すまぬ。妾(わたくし)にできるのはここまでだ」
　悲しみに沈んだ表情(かお)で俯(うつむ)く女神に、俺は上手(うま)く回らぬ頭で問いかける。
「何を言われるのだ？傷は癒(い)えたのではないのか？あなたの御霊力で」
　だが女神は首を横に振る。
「妾(わたくし)は水を司(つかさど)る神。妾にできるのは、血を止め、傷口を塞(ふた)ぎ、身の内の水の流れを操(あやつ)って苦痛を感じぬようにすることだけだ。ここまで傷ついてしまった臓腑(はらわた)を元に戻(もど)す能力(ちから)は持っておらぬ。花夜姫の命は、あと半日と保(も)たずに尽(つ)きるであろう。……妾には最早(もはや)どうすることもできぬ」
「どうすることもできぬ、だと？何か手は無いのか！花夜は霧狭司(むさし)の国人(くにひと)を庇(かば)って倒れたのだぞ！なのに……！」
「……やめて、下さい、ヤト様。それより……ここへ来て、手を握(にぎ)って下さい」
　思わず激しく憤(いきどお)る俺に、弱々しく哀しい声で花夜が頼(たの)んでくる。その声に俺はハッと我に返る。他人(ひと)を責(せ)めているような時ではないと気づき、すぐに花夜の顔を覗(のぞ)き込(こ)んでその手を握(にぎ)った。
「花夜、花夜……っ。苦しくはないか？何か、して欲しいことはないか？」
「……苦しくは、ありません。ただ……何だか、ひどく怠(だる)いような、眠たいような気がして……目を開けているのが辛(つら)い、です……」
　途切(とぎ)れ途切れにそう言った後、花夜はひどく切羽(せっぱ)詰(つ)った眼差しで俺を見つめた。
「ヤト様……、私を……どこか静かな場所へ、連れて行ってもらえませんか？……どこか、きれいで……二人きりになれる場所へ」
　そのささやかな祈言(ネギゴト)を、俺は物も言えぬまま受け入れた。迫り来る、避けようのない彼女との別れから、必死に目を逸(そ)らしながら……。