かつての俺は神ではなく、
大刀に宿る
精霊に過ぎなかった。
物にも
霊は
宿る。作り手の
祈がい、使い手の
祈がい、その物に対する感謝の気持ちや様々な
想い……そうした小さな
祈魂が少しずつ積もり積もっていき、やがてその物に
霊を
召び
降ろす。
神とはほど遠いちっぽけな
霊であり、
霊力有る
人間の目にしか映らぬものだが、それでも心を持ち、確かに
其処に宿っているのだ。
だが俺の
霊は他の
精霊とは
異なり、
禍々しく
歪んでいた。
“
大刀”とはその名の通り、
人間の
肉体を『
断ち』切るために
在るものだ。そんな“大刀”に寄せられる想いは、決して綺麗な祈りばかりではない。
大刀を持つ側の荒々しく
血の
気に
逸る心や戦で
手柄を立て少しでも高き
位を手に入れたいという欲に取り
憑かれた心、
斬りつけられた側の怨みや憎しみが、
何時しかどす黒い
陰となって俺の
霊を
侵し、
禍々しく歪めていった。そしてその歪んだ霊による
禍が持ち手にまで及ぶようになった頃、俺は持つ者を不幸に
陥れる“
禍霊の
大刀”と呼ばれるようになっていた。
その呼び名に
違わず、俺の主となった者たちは俺の歪んだ霊に呼び寄せられた災いにより、次々と
惨たらしい死を
遂げていった。そんな俺を手にしたがる者は
自ずとなくなり、俺は
度重なる戦で大刀の身が
傷んだのを
折に、荒れ果てた
魚眼潟国の森の中に置き捨てられた。
それから
幾年もの時が過ぎ、このまま誰からも忘れ去られ静かに
朽ちていくのだろうと、俺自身も思っていた。そこに、あの若者が現れた。
「
漸く見つけた。そなたか。主を
殺める
禍霊の
大刀と言うのは」
地を
覆い
隠すように
生い
茂る草を踏み分け俺を拾い上げたその若者は、まだ
童と言って良い年の頃に見えた。
衣や顔をわざと
泥に汚し、背に草木の葉の入った
勝間を
負ったその姿は、一目見ただけでは
杣人の子か
何処かの
邑の
農夫の子のようにしか見えなかった。
『
童が我に何用だ。
去ね。軽き心で我を手にせば痛き目を見ようぞ』
言ったところで
聴こえぬだろうと思いつつも、俺は声無き声で警告を発した。
今まで俺を手にした
如何なる人間も、俺の声を聴くどころか、俺の存在に気づくことすらなかった。また今度も意に反して
戦場に連れ出され、血を浴びることになるのだろうと、
半ば
諦めの心地で俺は彼の動きを待っていた。だが彼は
然も当たり前のように、さらりと俺の“声”に言葉を返してきた。
「やはり、
霊の宿る
大刀であったか。なるほど、ひどく
傷んではいるが、
精霊が
降りるに
相応しい見事な大刀だ。
尤もその
霊も、
数多の血に
染まり
歪んでいるようだがな」
彼は俺を手に取ると、
眼の高さに
掲げ持ち、
霊の奥底まで
覗き込むかのような眼差しで見つめてきた。何処にでもありふれたその姿にそぐわず、その言葉や眼差しはまるで神に
仕える
巫のそれだった。
『
汝は何者か。
何処かの国の
男巫か?』
「いいや、私は
鍛冶だ。『
青葉騒ぐ
鯨鯢国』が
鍛冶部にして、
村下・
矢筈が子、
真大刀。
鉱鉄の声を聴き、大刀と心通じ合わせるを
生業としている」
驕りとすら聞こえるほどに
己が力を信じ、
誇りに満ちた声で、彼は名乗りを上げた。欲にぎらついた
将の眼や戦に疲れた
兵士の顔とはどこか違うその若々しさが、俺にはひどく
眩しく映った。
「どうだ?私と共に来ぬか?戦に傷つき、
人間の
怨みの
染みついたその
刀身を、私が打ち直してやろう」
恐れを知らぬかのような
笑みをその口元に
刷き、彼はそう
誘いかけてきた。
不思議な若者だった。
声音や
口振りは思い上がり
自惚れているようにも思えるのに、その
眸はどこまでも
真直に輝いていた。
俺は心が
揺らぐのを感じていた。だが、彼の言葉をそのまますんなりと受け入れることはできなかった。
『そうして打ち直して、我を再び
戦場へと送り出すのか。この
刀身に
人間の血を浴びるのはもうたくさんだ。我はここでひそかに
朽ちていく。放っておいてもらおう』
冷たく突き放したつもりだった。だが彼はその
頬に刻んだ笑みを消すことなく、さらに言葉を
掛けてきた。
「ならば私は、他を
滅ぼすための力でなく、大切な何かを守りきるための力をそなたに
授けよう」
俺には初め、その言葉を信じることができなかった。
『大切な何かを守りきる力?
斯様な力、あるものか。大刀には
如何に
足掻いたとて、
人間の肉を断ち命を奪うことしかできぬ。何かを守るためと言いながらも、結局はそのために人を
殺め血を流すのではないのか』
その言葉に、
真大刀はくすりと笑った。
「
違うな。大刀の役目は人を殺めることだけではない。真に名高き大刀というものは
人間の
肉体でなく、心を
斬るのだ。敵の戦おうとする心を
砕き、自らの負けを認めさせ、ただそこに
在るというだけで大切なものを守る――それこそが、我ら
鍛冶の目指す大刀作りの
極みだ。
既に
精霊を宿らせたそなたのような大刀であれば、
斯様な名高き大刀となる見込みも大いにある。そなたも
折角この世に生まれ出たのだから、血に
塗れた記憶しか持たぬまま朽ちていきたくはなかろう?もっと美しい、新たな記憶を共に刻んでいこうではないか」
真大刀はそこで初めて、その
齢に
相応しい
曇りの無い笑みを浮かべた。
黙って立っていれば野山に菜でも
採りに来た邑の子のようで、口を
開けば
巫のような
厳しさと
奇しき
気配を感じさせ……、だがそうして
あどけなく笑っている顔は、まるでただの
男童でしかない。
くるくると印象を変え、何故だか目が
離せない。不思議に心
惹かれる何かを持った若者だった。
『……まあ、共に行ってやっても良かろう。だが、
汝が
如き
童に我を打ち直せるのか?』
素直になりきれずにそんな
憎まれ口を叩くと、真大刀はほんのわずか気を
損ねたような顔になった。
「“
童”ではない。
他人より育ちは
遅いが、私はこれでも
十四だ」
これが、俺と真大刀の出会いだった。こうして俺は彼の暮らす
郷へ共に行き、生まれ変わることとなったのだった。
真大刀と俺の過ごした『
青葉騒ぐ
鯨鯢国』は、
魚眼潟の森より小さな国を一つ
挟んだ北、深い山々に囲まれた場所にあった。
その名の通り青葉が風に
騒ぎ、
瑞山には
猿の声が
谺し、
白砂の上を流れる澄んだ水には
年魚が
群れ泳ぐ、山の景色に水の景色、何処に目をやっても心
奪われるような美しい
地だった。
真大刀の
郷はその中でも
金山や
砂鉄の流れる川に囲まれ、郷にいるほとんどの者が
作金者という郷だった。名を『
鉄鉱燃ゆ
鉄砂郷』と言い、
鯨鯢国に
仕える
鍛冶部が
代々暮らしてきた郷だ。
「真大刀。君という
人間は全くもって、何という
恐れ知らずなことをするのだ?ただ一人郷を抜け出して
噂の
禍霊の大刀を拾いに行くなど。
斯様な所には
旅人を
襲う
賊が
現れなどする
故、
危ういのだぞ。
珍しい
大刀と聞けば
己が身も
省みず求めに行くなど、君は真、
鍛冶の事となると
愚かしいほどに熱くなるのだな」
郷に帰り着いた真大刀に向かいそう言って
おっとりと笑ったのは、背に
鉄槌を背負い片足を引きずるようにして歩く
独眼の
男神だった。名を
鉄砂比古と言う。
郷と同じ名を持つその神は、郷に住む鍛冶部達の
遠祖の神にして
鎮守神、そして優れた
匠の
腕と技を人々に
授ける
鍛冶の神でもあった。
「申し
訳ございません、
鉄砂比古様。しかし、こうして山に菜を
採りに行く
邑人に化けていれば
賊の目には
留まらぬでしょうし、旅の
道筋につきましても私なりに気を配って選んだつもりです。その
証にこうして事無く目当ての
大刀を見つけ、郷に帰って来ることができましたし……」
しおらしく頭を下げて見せながらも、真大刀の声に
己が行いを
悔いているような色は全く無かった。その有様に鉄砂比古は
困ったような笑みを浮かべる。
「真大刀。そういう事柄ではなかろう。君が何でもできる子だというのは知っているが、家の
人間や皆の気を
揉ませてはいけないよ。言うまでもなく、この俺にも、だ。君は俺が見込んだ
百年に一人の才を持つ
鍛冶なのだからな」
鉄砂比古の言葉に、
真大刀は照れたように
頬を
染める。
「それで、その
霊が
彼の
禍霊の大刀か。確かにこれはひどく
歪んでいるな」
鉄砂比古は俺を一目見るなり、そう言って眉根を寄せた。
「はい。そのことにつきまして、実は鉄砂比古様にお
頼み申し上げたいことがあるのですが」
「うむ、分かっている。
浄めの火によりその
霊を清め、新たなる
大刀に生まれ変わらせるのであろう?俺も手伝おう。
斯様に
霊を
恨みつらみに
穢されたままでは
哀れだからな」
「はいっ!」
真大刀はきらきらした
眸で鉄砂比古を見上げ、
大袈裟なほどに深く頭を下げた。鉄砂比古と共に仕事ができるのが
嬉しくてたまらないという
表情だった。その、俺に対するものとはまるで
違う真大刀の有様が俺には
面白くなかった。
鉄砂比古という神は
驚くほどに明るく気さくで
人間臭い神だった。姿を
幽すこともなく
郷の中をふらふらと出歩き、
郷人と共に酒を
呑み笑い合う。俺が神と
見えたのは鉄砂比古が初めてだったが、それまで
朧けに思ってきた神の姿とは何もかもが
違っていた。
『信じられぬな。あれが真に神なのか?神とはもっと物静かで
厳かなものと思っていたが』
思わず本音を
零すと、すぐさま真大刀の
鋭い目が飛んできた。
「
無礼なことを言うな。あの
方はあれで良いのだ。
気安い御
振舞いも
飾らぬご
気性も、全て我ら郷の民を心から愛して下さっている
証。それに、あのお姿も……」
そう言われて俺は神であるのに神らしくない
彼の神の姿を思い出した。神だというのに目も
脚も不自由で、
杖を
支えに郷を歩くその姿を。
「
鍛冶は身を
病むのが
運命の
生業。火の強さを整えるため
炉の中を三日三晩片目で
覗き
込まねばならぬが
故に片目の光を失い、強い力で
蹈鞴を
踏み続けねばならぬが
故に
脚を痛めていく。あの方は、
我らが負うべきその
病を、身代わりに引き受けて下さっているのだ。だからあの
方は片方の御目が見えぬし、脚もお悪い。我々はそんなあの
方を
誇りに思っているし、心よりお
慕い申し上げているのだ」
真大刀の声音には、鉄砂比古を
敬い
慕う心が
溢れていた。
『神、か……。いつか我もなれるであろうか』
「何だ?そなた、神になりたいのか?」
思わず
零れた
呟きに問いを返され、俺は
慌てた。
『べ、べつにそのような
大それたこと、望んではおらぬ。ただ、もし
叶うならば、と思っただけであってだな……』
「何を
焦っている。より高みに
上りたいと
祈がうは
然程可笑しなことではあるまい。
容易いことではないが、物に宿る
精霊だとて、長き
歳月を
経て
数多の
祈魂を集めれば神にもなれると聞いている。私がそなたを、そんな
祈魂を寄せられるだけの
優れた
大刀へと生まれ変わらせてやろう」
『
己の
腕をそこまで信じきれるとは、
大したものだな。
汝が我を神にすると言うのか?』
己が才をまるで
疑わぬ真大刀の口振りをからかうように問うが、彼はそれが当たり前であるかのように笑って言った。
「ああ、そうだ。私がそなたを、
何れは神にもしてみせよう」
何れは神にもしてみせる――その言葉が、俺達が望んでいたのとはまるで
違う形で、やがて
現実になると知りもせずに。