第十章 嵐の宮殿

 やがて水柱は完全に形を変えた。天高くに浮かぶそれは、水を()べる神にふさわしく、どこまでも()き通った水の(からだ)を持つ、巨大な龍だった。
 瞳の色はそれまでよりもさらに青く深みを()して輝き、水晶のように澄んだ(うろこ)は日の光を浴びて虹色にきらめく。それはまるで()りすぐりの宝石を集めて作ったかのような、(まばゆ)いばかりの姿を持つ龍だった。
 だが、その口から発せられるのは身が(こお)りつくかと思うほどに冷たく、恐ろしい咆哮(ほうこう)だった。
 龍となった女神が()えるたび、風がざわめき、雲が吹き寄せられてくる。空は見る()に黒雲に(おお)われ、すぐに雨が()り出した。滝津比古(タギツヒコ)と戦った時のような、一寸先も見えぬ土砂降(どしゃぶ)りの雨だった。
 雲梯(うなて)は激しく打ちつける雨を全身に浴びながら、喜びとも悲しみともつかぬ表情で空を(あお)ぐ。
「……そうだ。これで良い。清めの雨がこの国の全ての罪・(けが)れを洗い流す。そして神の怒りに触れれば、人々も心を改めよう。この国は生まれ変わるのだ」
 雨は庭園の池をたちまちに(あふ)れさせ、宮殿はまるでそれ自体が水の上に浮いているかのように、激しく波打つ水に包囲されていった。それでも嵐は()むことなく、雷と(ひょう)(ともな)いさらに激しさを増していく。人々は逃げ(まど)い、少しでも風雨(ふうう)(しの)げるよう衝立(ついたて)几帳(きちょう)(かげ)などに(もぐ)り込んでいた。
「何ということだ!この様子では宮処(みやこ)も大変なことになっているぞ。この勢いではすぐにでも霊河(ひかわ)(あふ)れかねん」
「まさか、水神様の加護を受けし我が国が、水による害で滅びると言うのか……!?」
「だから私はこの計画に反対したのだ!鎮守神(ちんじゅしん)様の泊瀬王子(はつせのみこ)に対するご寵愛(ちょうあい)が本当であるなら、とんでもないことになると!」
「今さら何を言われる!こうしてこの場にいるだけで、そなただとて同罪ではないか!」
「嫌だ!助けてくれ!誰かこの嵐を止めてくれ!」
 罪をなすりつけ合い(みにく)く言い争う者に、他に救いを求めすがるように泣き叫ぶ者――この場にいるほとんどの者が、この状況に対して()(すべ)を持たず、あるいは(はな)から為す気もなく(おび)(さわ)ぐばかりだった。
 そんな中、(おび)えもせず(まど)いも見せず、自分の為すべきことを(さと)っているかのように凛と声を上げた者がいた。
「水()べる水波女神(ミヅハノメノカミ)筆頭(ひっとう)巫女・雲箇(うるか)。これより鎮魂(ちんこん)祭祀(さいし)()り行います」
 このような状況にあってもなお、雲箇は変わらぬ無表情でその場に立っていた。そして迷いなど一切ない瞳で宙に浮かぶ水波女神を見据(みす)え、当然のように鎮魂の(まい)を始める。吹き(すさ)ぶ風雨に時折よろめき、わずかに動きを乱しながらも、それはまるで舞の手本を見ているかのように型に忠実な、きっちりとした舞だった。
 雲箇は手足を大きく振り動かし、手首に巻かれた(たまき)や、首に巻かれた首飾(くびかざ)りを揺らして音律(おんりつ)を刻もうとする。だが、その音は雨音に(さえぎ)られて誰の耳にも届かない。そして女神はその舞に心動かすどころか、必死に舞う雲箇を一顧(いっこ)だにせず嵐を呼び続けている。
 衣裳が雨で肌に()りつき、黒髪が乱れ(くず)れ、時に(ひょう)に身を打たれながらも、雲箇は舞い続ける。だがどれほど舞っても一向(いっこう)に変わらぬ女神の様子に、初めてその顔に(あせ)りのような色が浮かび始めた。
「水波女神、我が鎮魂の()がいはそのお耳に届かないのですか?我が霊力が足りないのでしょうか。それとも、それほどまでにあなた様の(ミタマ)(すさ)んでいらっしゃるのですか」
 その声には初めて自分自身を――あるいは、自分の今まで信じてきたものを疑うかのような迷いの色がにじんでいた。
「……無駄(むだ)なことですわ。どれほど高い霊力を(そな)えていても、どれほどの数の人間を蹴落(けお)としてその高い地位を手に入れても、あなたは所詮(しょせん)鎮守神(ちんじゅしん)様ご自身に選ばれたわけでもない仮初(かりそめ)の巫女。己の地位を守るためには手段を選ばないあなたのような人間の()がいを、鎮守神様がお聞きになるはずがありませんわ」
 海石(いくり)の冷たい声に、雲箇は怒りの眼差しを向ける。
「もはや八乙女(やおとめ)ですらない者が何を言うのです。たとえこれまで一度も鎮守神様に御目にかかったことがなかったとしても、私は(まぎ)れもなく()の女神の筆頭巫女です。鎮守神様が荒水宮(あらみのみや)にお()もりになる前に定められた大宮の(おきて)に従い、魂依姫(タマヨリヒメ)の座に()いたのですから」
「掟など所詮(しょせん)、真理に(かな)うものでは……」
 海石は反論の言葉を言いかけ……だが、何かを思いついたようにふいに沈黙(ちんもく)した。
「……そうですわね。あなたが本当に鎮守神様の筆頭の(カンナギ)であるならば、神を()ための最後の手段を成し()げる義務がありますわよね?」
 海石は酷薄(こくはく)(ゆが)んだ笑みで問う。その問いに、再び雲箇の顔から表情が消えた。
「神を()ぐ……?鎮守神様をお止めする手段か!?そのようなものがあるのか!?」
「あるなら早くしてくれ!このままでは宮殿が()たん!」
 二人のやり取りに気づいた葦立氏の面々が一斉(いっせい)に雲箇に(むら)がりつめ寄る。
「こうなってしまってはもう、手段は一つしかありませんわ。鎮守神様にお許しを()うため、贖物(あがもの)(ささ)げるのです。多くの人間の命を奪った罪を(あがな)うとなれば、並の宝物(ほうもつ)供物(くもつ)では受け入れていただけません。この罪に釣り合う贖物となれば人間の命――それも、相当に高い地位に()(カンナギ)の命でなければいけませんわ」
 その言葉に皆の眼が雲箇に――霧狭司国(むさしのくに)で最も(くらい)の高い(カンナギ)である魂依姫(タマヨリヒメ)に集まる。
「雲箇を人柱に(ささ)げると言うのか?だが、それでは大宮から葦立(あだち)の血を引く姫がいなくなってしまう」
「なに、心配は()らぬ。まだ幼いが妹姫の雲潤(うるみ)を代わりに八乙女に()えれば良い。さすがに魂依姫(タマヨリヒメ)の地位に上るまでには時間がかかろうが、やむを()まい」
 葦立氏たちは初めのうちこそ戸惑いを見せていたものの、結局はひどく呆気(あっけ)なく雲箇の命を見放した。
「いかがですの?他人(ひと)都合(つごう)でご自分の命を左右されるご気分は。でもあなたは文句(もんく)など言える立場ではありませんわよね。あなただってご自分を魂依姫の地位に()けるため、多くの人間の命を左右してきたのですもの」
 どこか勝ち(ほこ)ったような海石の声に無表情のまま振り返り、雲箇は感情の読めない声で静かに告げた。
「何か勘違(かんちが)いをしているようですが、私は魂依姫としての自分に(ほこ)りを持っています。命を()しんでこの(つと)めを(おろそ)かにするつもりなど(つゆ)ほどもありません」
 雲箇はそのまま迷いのない足取りで、巨大な湖と化した庭園に向かう。
水波女神(ミヅハノメノカミ)よ!筆頭巫女・雲箇がこの身をもって全ての罪を(あがな)います。どうかそのお怒りを(しず)め、和魂(ニギミタマ)へとお戻りください」
 女神へ向けて声を張り上げ、そのまま雲箇は荒れ狂う水面へその身を投じようと床を()る。――だが、後ろから()ばされた手が寸前でその(うで)をつかまえ、引き()めた。
駄目(だめ)だ!そんなこと、あの(かた)は望んでいない!」
 自分より背の高い雲箇の身を無理矢理羽交(はが)()めにし、必死に動きを封じようとする泊瀬に、海石が怒りの声を上げる。
「泊瀬様!どうしてお止めになるのです!?これがその女の運命なのです!自らの罪を(あがな)って死ぬのが、その女に最もふさわしい死に方なのですわ!」
「たとえどんな罪人だろうと、国民の命が(うしな)われればあの(かた)が哀しむ!それがあの方が荒魂(アラミタマ)となったがためのことならば、余計にご自分を責めて(つら)い思いをなさってしまう!それに……」
 泊瀬は一旦(いったん)言葉を切り躊躇(ためら)う様子を見せたが、すぐに意を決したようにその言葉を口にした。海石を確実に止められる、(ねら)いすました一言を。
「海石姫が憎しみに()られて他人(ひと)を死に追い込むような人間になってしまったら、夏磯(なつそ)姫が哀しむだろう!」
 その言葉に海石は打たれたように動きを止め、目を見開(みひら)いた。その瞳はそのまま何かを探すように宙を見つめ、うろうろとさまよう。
「夏磯姫……。そうですわよね。もしもあなたが見ていらしたら、きっとこのような(みにく)い私のことは、嫌いになってしまいますわね……。私はもう、あの頃の私ではありませんの。もう、あなたに合わせる顔など無いのですわ……」
 自分自身を(あざけ)るようにそうつぶやくと、海石はその顔を隠すように両手で(おお)い、涙をこぼし始めた。泊瀬はそれを痛ましげに見つめるが、かける言葉を探しあぐねているような様子だった。
(はな)しなさい、泊瀬王子(はつせのみこ)。私には義務があります。鎮守神様を(しず)めるという義務が!」
 雲箇はなおも抵抗し、もがく。泊瀬は舌打ちし、怒鳴(どな)るように叫んだ。
「あんたが身を投げたって、ミヅハ様が和魂(ニギミタマ)に戻られるという保証は無いだろうが!」
 その時、花夜(かや)がそっと俺の(そで)を引いた。
「ヤト様。本当に他に方法はないのですか?水神(すいじん)様を(しず)める方法は」
 その(ささや)きに、俺はしばしの思案の後、答えた。
「不確実だが、あるにはある。雲箇姫は八乙女とはいえ、水神が(じか)に選び(ちぎ)りを()わしたわけではない、言わば仮初(かりそめ)(カンナギ)だ。だがこの場に、仮初ではない、水神の真の(カンナギ)として最もふさわしい者がいる」
泊瀬王子(はつせのみこ)ですね」
「ああ。己に課した禁を破って助けるほどに寵愛(ちょうあい)する王子(みこ)だ。()の王子の言葉にならば、荒魂(アラミタマ)となった水神も(こた)えてくれるかも知れん。しかし、この嵐の中ではいくら声を上げたところで、空に浮かぶ水神の耳には届かないだろう。俺に翼でもあったなら、王子を背に乗せて水神の元まで(のぼ)っていってやるのだが」
「翼なら、あります」
 言って、花夜は(こし)から五鈴鏡(ごれいきょう)(はず)し、俺の前に差し出した。俺は問うように花夜の顔を見つめる。
「分かっているのか、花夜。鳥羽(とわ)の霊力はもはや限界まで来ている。鳥羽は(たましい)だけの存在。霊力が全て()きれば、この世から消え去り二度と会えなくなるのだぞ」
「いつかこんな日が来ることは分かっていました。覚悟(かくご)は最初からできています。ここで何もせず後悔(こうかい)したくはありませんから。それに……」
 一旦(いったん)言葉を切り、花夜は五鈴鏡を愛しげに胸に抱きしめた。
「たとえ今は別れても、いつかまた、どこかで会えるかもしれませんから。もしかしたら私はそれに気づくことができないかも知れませんが……。それでもまたいつか、この世界のどこかで触れ合うことができると、私は信じていますから」
「生まれ変わり、か……。だがそれはおそらくこの世界の()にある(ことわり)だ。それがどういう形なのか、そもそも本当にあるのかどうか、神である俺にも分からんのだぞ」
「いいんです。分からないからこそ、信じて、()がうんです。きっとそれこそが、人間(ひと)がこの世を生きるための力なのだと、私は信じていますから……」
 そこから先は言葉にせず、花夜はただ強い決意を秘めた眼差しで俺を見た。俺は(うなず)き、泊瀬へ向け呼びかける。
泊瀬王子(はつせのみこ)よ、命を()す覚悟があるなら共に来い。水神(すいじん)に声が届く場所までお前を連れて行ってやろう」
「母さま、どうか霊力をお貸しください!その霊力でヤト様の御背中に翼を……!」
 花夜(かや)が五鈴鏡をかざすと、鏡面から鳥の形をした白い光が飛び出してきた。それは大蛇(だいじゃ)に変化した俺に向かい真っ直ぐに飛んで来る。実体の無いそれは、そのまま俺の身に()けるように吸い込まれ、まるで熱い血潮が(めぐ)るように(からだ)の中を()け巡る。やがてそれは(しお)()き出すように背から噴き出し、白く大きな光の翼へと変わった。
 花夜はその姿を()()れと(なが)め、深く頭を下げてから俺の背にまたがる。泊瀬(はつせ)もまた花夜に続き、おそるおそるといった様子で背に乗った。光の翼は力強く羽ばたき、背に乗った二人ごと俺の身を天高く――水波女神(ミヅハノメノカミ)の浮かぶ場所まで運んでいく。
 水神の周りは相変わらず(すさ)まじい嵐が吹き荒れていたが、その風雨が俺達の身に届くことはなかった。背に()えた光の翼がその羽ばたきの力により風を打ち消し、雨を(さえぎ)り、俺達を守ってくれていたからだ。だがその霊力は目に見えて消耗(しょうもう)していく。白く光る羽根が一枚、また一枚と翼から()け落ち、風に散って消えていくのが俺達の目にもはっきりと映っていた。
「ミヅハ様!どうかお(しず)まりください!このままでは多くの宮処人(みやこびと)が死んでしまいます!宮殿や大宮の者達だけでなく、罪もなき市井(しせい)の人々までもが死んでしまいます!」
 泊瀬は声を振り(しぼ)り、女神に呼びかける。視線を下へと(うつ)せば、(すで)に川と化した宮処(みやこ)の道を(こし)まで水に()かりながら逃げ(まど)う人々の姿が小さく見える。市場に(もう)けられた粗末(そまつ)(つく)りの小屋などは既にいくつも(こわ)れ、その材木が波間(なみま)(ただよ)っていた。宮処のそばを流れる霊河(ひかわ)は土色に(にご)り、その川幅(かわはば)()していた。この大河が(あふ)れれば、宮処に途方(とほう)もない被害が出ることは想像に(かた)くない。
 だが女神はそんな泊瀬に対し、それまでとはまるで(ちが)う、冷たく光る瞳を向けてきた。
「罪なき人間などおらぬ。市井(しせい)の者達にしてもそうだ。(おのれ)の欲のため平気で他人を裏切り、また身近で悪事が行われていようと見て見ぬ()りをする。(わらわ)はそのような(けが)れた世間を、水を通してずっと見てきた。荒魂(アラタマ)とならぬよう(むご)き物事から目を()らしていても、それでも分かってしまうのだ。人間の心は救いようもなく(すさ)んでいる。この国はとうの昔にもう(くさ)り果てておるのだ」
 その声には、優しさも慈悲(じひ)も哀しみも、一切感じることができない。伝わってくるのはただ、激しい(いか)りのみだった。
「この国は変わらねばならぬ。そのためには血と涙が()る。歴史の犠牲(ぎせい)となるものが要るのだ。――(うしな)って初めて気づくような重大なものを()くして初めて、人間は目を覚まし、改心する。人間はそうして争いと平和を()り返し、歴史を(つむ)いできたのだから」
 それは時代の流れに翻弄(ほんろう)されるしかない人間の身からしてみればあまりに無慈悲(むじひ)冷酷(れいこく)理屈(りくつ)だった。泊瀬は衝撃(しょうげき)を受けたように呆然と目を見開(みひら)き、女神の姿を見つめる。
「ミヅハ様!どうしてしまわれたのですか!?そんな、人間を(こま)か道具のように見下(みくだ)した冷たい理屈、あなたには似合わない!あなたはもっと優しい(かた)だったはずです!国民ひとりの死にさえ涙を流すような、そんな方だったはずです!」
王子(みこ)よ、荒魂(アラミタマ)とはそういうものなのだ。怒りや絶望に心を支配され、それまでと思考の()り方が変わってしまう。まるであたかも人間が変わってしまったかのように、な。これまでと同じつもりでいては言葉など通じんぞ」
 俺は泊瀬を(さと)すように言葉を()ける。
「だが、だったら何を言えばいいんだ!どうしたら元のミヅハ様に戻ってくださるんだ!」
 どうすれば良いのか分からず癇癪(かんしゃく)を起こしたように叫ぶ泊瀬に舌打ちし、俺は女神に向き直った。
「水を()べる女神よ、どうかその(ミタマ)(しず)めたまえ。お怒りはごもっともですが、弱く、(おろ)かしく、己の欲さえろくに制御できぬ人間という生物が罪を犯すのは仕方のないこと。罪を(おか)さずには生きられぬ彼らを、どうか(あわ)れみ、(ゆる)したまえ」
 その言葉に、女神はひどく()めた眼で俺を見た。
「その言葉をそなたが口にするのか。我が眷属(けんぞく)たる蛇神(じゃしん)の身でありながら、我に(さか)らう神よ。我には()えるぞ。そなたの心の奥深く、(いま)()えぬ深い傷があるのを」
 その言葉に、俺はぎくりと身を強張(こわば)らせた。先ほどの言葉が俺の本心から出たものではない、女神を(なだ)めるための上辺(うわべ)だけの言葉であることを、俺自身がよく知っている。本当は俺も、人間の(おろ)かさを(ゆる)せてなどいない。俺もかつて愚かな人間同士の争いにより、大切なものを失っているからだ。
 胸の底の秘めた場所に封じ込め、普段は見ないようにしている深い傷――それを、どこまでも青く()き通った女神の瞳に見透(みす)かされている気がした。
「そなたも未だに憎んでいるのであろう。そなたの大切なものを奪った人間の愚かさを。そなたはそれを人間の弱さゆえ(ゆる)せると申すのか」
 その声は冷たく厳しいままだというのに、俺にはどこか甘く誘うようにさえ聞こえた。
 俺の大切なものを奪った国を、者たちを、壊してやりたいと何度思ったことだろう。だが、俺にはそれを()すだけの力など無かった。
 ずっと忘れようとしていた怒りや憎しみが、女神の言葉により胸の底から()き上がり、心が激しく()さぶられる。
「思い出すが良い。そして解き放て、その憎悪(ぞうお)の念を。共にこの国の人間に我らが怒りを知らしめようぞ」
 まるで命令を下すかのようにそう言い、女神は俺に視線を合わせてきた。瞬間、眼の奥を電撃に射抜(いぬ)かれたかのような衝撃が走った。
 眼から浸入した何かとてつもなく熱いものが、脳にまで達し、そのままその奥へ奥へと(もぐ)り込んでくるような感覚だった。
 頭に激痛が走る。それは脳の奥深くをえぐられ、そこから何かを強引に引きずり出されるかのような、激しく、(たえ)(がた)い苦痛だった。
「や、やめろ……っ!頭が……頭が、割れ……っ。うぁ、あ、あぁああぁあぁああぁっ!」
 気が狂いそうな痛みと共に、奔流(ほんりゅう)のようにめまぐるしく、眼裏(まなうら)(よみがえ)る光景があった。
 それは、俺が神となる前の記憶。俺が生まれて初めて友と呼べる人間と過ごした、愛しく……だが、癒やせぬほどに深く(くら)い哀しみに(いろど)られた記憶だった。
 
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