やがて水柱は完全に形を変えた。
天高くに浮かぶそれは、水を
統べる神に
相応しく、どこまでも
透き通った水の
躯を持つ、とてつもなく大きな
龍だった。
眸の色はそれまでよりも
更に青く深みを増して輝き、
水精のように澄んだ
鱗は日の光を浴びて
虹の色に
煌めく。それはまるで
選りすぐりの
珠を集めて作ったかのような、
眩いばかりの姿を持つ龍だった。
だが、その口から
放たれるものは身が
凍てつくかと思うほどに冷たく、恐ろしい
咆哮だった。
龍となった女神が
吠えるたび、風がざわめき、雲が吹き寄せられてくる。
天は見る
間に黒雲に
覆われ、すぐに雨が降り出した。
滝津比古と戦った時のような、一寸先も見えぬ土砂降りの雨だった。
雲梯は激しく打ちつける雨を全身に浴びながら、喜びとも悲しみともつかぬ
表情で
天を
仰ぐ。
「……そうだ。これで良い。清めの雨がこの国の全ての罪・
穢れを洗い流す。そして神の怒りに触れれば、人々も心を改めよう。この国は生まれ変わるのだ」
雨は庭園の池をたちまちに
溢れさせ、
宮殿はまるでそれ自体が水の上に浮いているかのように、激しく波打つ水に取り囲まれていった。それでも嵐は
止むことなく、
鳴神と
雹を
伴い
更に激しさを増していく。人々は逃げ
惑い、少しでも雨風を
凌げるよう
衝立や
几帳の
陰などに
潜り込んでいた。
「何ということだ!この
有様では
宮処も
酷いことになっているぞ。この勢いでは今にでも
霊河が
溢れかねぬ」
「まさか、
水神様に
護られし我が国が、水による
災いで滅びると言うのか……!?」
「それゆえ私はこの
企てに
異を立てたのだ!
鎮守神様の
泊瀬親王に対するご
寵愛が
真実であるなら、
途轍もないことになると!」
「
今更何を言われる!こうしてこの場にいるだけで、そなただとて同じ罪人ではないか!」
「嫌だ!助けてくれ!誰かこの嵐を止めてくれ!」
罪をなすりつけ合い
醜く言い争う者に、他に救いを求め
縋るように泣き叫ぶ者――この場にいるほとんどの者が、この
有様に対して
為す
術を持たず、あるいは
端から為す気もなく
怯え
騒ぐばかりだった。
そんな中、
怯えもせず
惑いも見せず、
己が為すべきことを
悟っているかのように凛と声を上げた者がいた。
「
水統べる
水波女神が一の巫女・
雲箇。これより
鎮魂の
祭祀を
執り行います」
このような状況にあっても
尚、雲箇は変わらぬ無表情でその場に立っていた。そして迷いなど一切ない
眸で
空に浮かぶ水波女神を
見据え、当たり前のように
鎮魂の
舞を始める。吹き
荒ぶ雨風に時折よろめき、わずかに動きを乱しながらも、それはまるで舞の手本を見ているかのように型に正しく
沿った、きちりとした舞だった。
雲箇は手足を大きく振り動かし、手首に巻かれた
手纏や、首に巻かれた
頸飾を揺らして
拍子を刻もうとする。だが、その
音は
雨音に
遮られて誰の耳にも届かない。そして女神はその舞に心動かすどころか、懸命に舞う雲箇をほんのわずかも
振り返ることなく嵐を呼び続けている。
衣裳が雨で肌に
貼りつき、黒髪が乱れ崩れ、時に
雹に身を打たれながらも、雲箇は舞い続ける。だがどれほど舞っても全く変わらぬ女神の様に、初めてその顔に
焦りのような色が浮かび始めた。
「水波女神、我が
鎮魂の
祈がいはそのお耳に届かないのですか?我が
霊力が足りぬのでしょうか。それとも、それほどまでにあなた様の
魂は
荒んでいらっしゃるのですか」
その声には初めて己を――あるいは、己の今まで信じてきたものを疑うかのような迷いの色がにじんでいた。
「……
無駄なことですわ。どれほど高き
霊力を
備えていようと、どれほどの数の
人間を
蹴落としてその高き
位を手に入れようと、あなたは
詰まる所、
鎮守神様が
御自らお選びになったわけでもない
仮初の巫女。
己が位を守るためには手立てを選ばぬ、あなたのような者の
祈がいを、鎮守神様がお聞きになるはずがありませんわ」
海石の冷たい声に、雲箇は怒りの眼差しを向ける。
「
最早八乙女ですらない者が何を言うのです。たとえこれまで
一度も鎮守神様の御目にかかったことが無くとも、私は
紛うことなく
彼の女神の一の巫女です。鎮守神様が
荒水宮にお
籠もりになる前に
定められた大宮の
掟に従い、
魂依姫の座に
就いたのですから」
「掟など所詮、
真の
理に
敵うものでは……」
海石は雲箇の言葉に異を
唱えかけ……だが、何かを思いついたようにふいに
黙り込んだ。
「……そうですわね。あなたが真に鎮守神様の一の
巫であるならば、神を
和ぐための
弥終の手立てを成し
遂げる
務めがありますわよね?」
海石は
酷薄に
歪んだ笑みで問う。その問いに、再び雲箇の顔から表情が消えた。
「神を
和ぐ……?鎮守神様をお止めする手立てか!?そのようなものがあるのか!?」
「あるのであれば早くしてくれ!このままでは
宮殿が
保たぬ!」
二人のやり取りに気づいた葦立氏の面々が
一斉に雲箇に
群がり
詰め寄る。
「こうなってしまってはもう、手立ては一つしかありませんわ。鎮守神様にお許しを
乞うため、
贖物を
捧げるのです。
数多の
人間の命を奪った罪を
贖うとなれば、並の
財物や
供物では受け入れていただけません。この罪に釣り合う贖物となれば人間の命――それも、それなりに高き位に
在る
巫の命でなければいけませんわ」
その言葉に皆の眼が雲箇に――
霧狭司国で最も
位の高い
巫である
魂依姫に集まる。
「雲箇を人柱に
捧げると言うのか?だが、それでは大宮から
葦立の血を引く姫がいなくなってしまう」
「なに、案ずることはない。まだ幼いが
弟姫の
雲潤を代わりに八乙女に
据えれば良い。さすがに
魂依姫の位に上るまでには
時間がかかろうが、
止むを
得まい」
葦立氏たちは初めのうちこそ戸惑いを見せていたものの、
終いにははひどく
呆気なく雲箇の命を見放した。
「いかがですの?
他人の勝手で
己が命を振り回されるご気分は。でもあなたは
文句など言える立場ではありませんわよね。あなただってご自分を魂依姫の位に
就けるため、
数多の
人間の命を振り回してきたのですもの」
どこか勝ち
誇ったような海石の声に無表情のまま振り返り、雲箇は心に内の読めぬ声で静かに告げた。
「何か
心得違いをしているようですが、私は魂依姫としての己に
誇りを持っています。命を
惜しみこの
務めを
疎かにするつもりなど
露ほどもありません」
雲箇はそのまま迷いのない足取りで、巨大な
水海と
化った庭園に向かう。
「
水波女神よ!一の巫女・雲箇がこの身をもって全ての罪を
贖います。どうかそのお怒りを
鎮め、
和魂へとお戻りください」
女神へ向けて声を張り上げ、そのまま雲箇は荒れ狂う
水面へその身を投げようと床を
蹴る。――だが、後ろから
伸ばされた手が
既の事でその
腕を
捕らえ、引き
留めた。
「
駄目だ!そんなこと、あの
方は望んでいない!」
己が背より高い雲箇の身を無理矢理
羽交い
絞めにし、懸命に動きを封じようとする泊瀬に、海石が怒りの声を上げる。
「泊瀬様!どうしてお止めになるのです!?これがその
婦女の
運命なのです!自らの罪を
贖って死ぬのが、その
婦女に最も
相応しい死に方なのですわ!」
「たとえ
如何なる
罪人であろうと、
国人の命が
喪われればあの
方が哀しむ!それがあの方が
荒魂となったが
故のことならば、余計に御自らを責めて
辛い思いをなさってしまう!それに……」
泊瀬は一旦言葉を切り
躊躇う様を見せたが、すぐに意を決したようにその言葉を口にした。海石を確かに止められる、
狙いすました一言を。
「海石姫が憎しみに
駆られて
他人を死に追い込むような
人間になってしまったら、
夏磯姫が哀しむだろう!」
その言葉に海石は打たれたように動きを止め、目を
見開いた。その
眸はそのまま何かを探すように
空を見つめ、うろうろと
彷徨う。
「夏磯姫……。そうですわよね。もしもあなたが見ていらしたら、きっとこのような醜い私のことは、嫌いになってしまいますわね……。私はもう、あの頃の私ではありませんの。もう、あなたに合わせる顔など無いのですわ……」
己を
嘲るようにそう
呟くと、海石はその顔を隠すように
両手で
覆い、
泪を
零し始めた。泊瀬はそれを痛ましげに見つめるが、
掛ける言葉を探し
あぐねているような有様だった。
「
放しなさい、
泊瀬親王。私には務めがあります。鎮守神様を
鎮めるという務めが!」
雲箇は
尚も
抗い、もがく。泊瀬は舌打ちし、
怒鳴るように叫んだ。
「あんたが身を投げたって、ミヅハ様が
和魂に戻られると決まったわけでは無いだろうが!」
その時、花夜がそっと俺の
袖を引いた。
「ヤト様。真に他に手立てはないのですか?
水神様を
鎮める手立ては」
その
囁きに、俺はしばし考え込んだ
後、答えた。
「確かではないが、あるにはある。雲箇姫は八乙女とはいえ、水神が
直に選び
契りを
交わしたわけではない、言わば仮初の
巫だ。だがこの場に、仮初ではない、水神の真の
巫として最も
相応しい者がいる」
「
泊瀬親王ですね」
「ああ。
己が課した
戒めを破って助けるほどに
寵愛する
親王だ。
彼の親王の言葉にならば、
荒魂となった水神も
応えてくれるやも知れぬ。しかし、この嵐の中ではいくら声を上げたとて、
天に浮かぶ水神の耳には届くまい。俺に翼でもあったならば、親王を背に乗せて水神の元まで
昇っていってやるのだが」
「翼なら、あります」
言って、花夜は
腰から
五鈴鏡を外し、俺の前に差し出した。俺は問うように花夜の顔を見つめる。
「分かっているのか、花夜。
鳥羽の
霊力は
最早尽きる
間際の所まで来ている。鳥羽は
霊だけでこの世に
在るもの。
霊力が全て
尽きれば、この世から消え去り、
二度会うことは
叶わなくなるのだぞ」
「
何時かこのような日が来ることは分かっていました。
心構えは元よりできています。ここで何もせず
悔いを残したくはありませんから。それに……」
一旦言葉を切り、花夜は五鈴鏡を
愛しげに胸に抱きしめた。
「たとえ今は別れても、
何時かまた、何処かで会えるかもしれませんから。もしかしたら私はそれに気づくことができないかも知れませんが……。それでもまた何時か、この
世界のどこかで触れ合うことができると、私は信じていますから」
「生まれ変わり、か……。だがそれはおそらくこの
世界の
外にある
理だ。それが
如何なる形なのか、そもそも真にあるのか
否か、神たる俺にも分からぬのだぞ」
「良いのです。分からないからこそ、信じて、
祈がうのです。きっとそれこそが、
人間がこの世を生きるための力なのだと、私は信じていますから……」
そこから先は言葉にせず、花夜はただ強い決意を秘めた眼差しで俺を見た。俺は
頷き、泊瀬へ向け呼びかける。
「
泊瀬親王よ、命を
賭す気があるならば共に来い。
水神に声が届く所までお前を連れて行ってやろう」