第十章 嵐の宮殿(みかど)

 水沼原(みぬまがはら)の中央に建つ国王(くにぎみ)の宮は、その正式な名を『水沼原宮(みぬまがはらのみや)』という。
 水神の加護を受ける国にふさわしく、水辺(みづべ)の景色の美しさで知られた宮殿(みかど)だ。
 庭園には水底(みなそこ)に人の拳ほどの大きさの小石を()き詰めて整えた広大な池が広がり、しかもその岸は岬や入江を表した複雑な曲線で彩られている。さらにそのほとりの遠近(をちこち)には険しい岩山に見立てた石組築山(つきやま)(もう)けられ、庭の風景に(おもむき)()えていた。
 水際(みなぎわ)や池の中島(なかのしま)には松や柳、梅に海石榴(つばき)躑躅(つつじ)などの木々が茂り、日が差すと水面(みなも)に映った光が枝葉の上に目にも涼しい水のを描き出す。
 池に面した建物には水の上にまで張り出した露台(ろだい)があり、さらにそこから向こう岸まで長い平橋(ひらはし)()け渡されている。月の美しい夜にはここから庭を(なが)めながら歌を()み合ったり、酒宴(さかみづき)(もよお)すのだそうだ。
 だが俺達はその景色を望むことすら叶わなかった。
 周りが見えぬほど隙間(すきま)無く兵士(いくさびと)に囲まれたまま、俺達は宮殿の裏門から(ひそ)かに宮の内に引き入れられた。そのまま人目を(はばか)るようにして連れて行かれたのは、とてもまともに罪を(あらた)められるとは思えぬ宮殿の外れの一つの(むろ)だった。
 四方(よも)を壁に囲まれたその室の内にいたのは、全て葦立(あだち)(うぢ)の血を引く者ばかり。それに気づいた海石(いくり)雲箇(うるか)()めつけ、声を荒げた。
如何(いか)なるおつもりですか!親王(みこ)たる泊瀬(はつせ)様を、このような場で、その上国王様のお許しも無く(あらた)めるおつもりですか!?」
親王(みこ)と元は八乙女と言えど、今は(まが)うことなき罪人(つみびと)の身。我らのやり方に口を差し(はさ)めるような立場では無いはずです」
「このようなやり方で私達を死罪に追い込めたとしても、射魔(いるま)氏が黙ってはいませんわ。そもそも葦立の人間のみで勝手に定められたことなど、誰が認めるとお思いですか」
「葦立の人間だけではありません。今はまだお出ましになっておられませんが……」
 雲箇が言い終わらぬうちに、(むろ)の外から足音が聞こえてきた。
「……どうやらおいでになったようです」
 雲箇は言葉を切り、立ち上がる。その場にいた葦立氏の人間達も皆、一斉に(こうべ)()れて(かしこ)まった。
 息を()めて見守っていると、やがて扉が開き、二十(はたち)になるかならぬかほどの年若い(をのこ)が現れた。
「皆の者、待たせたな」
 そう言って薄く笑った男は、一目で高貴な身分と分かる豪奢(ごうしゃ)(きぬ)をわずかに着崩し、両脇に胡蝶楽(こちょうらく)の舞姿の愛らしい女童(めのわらわ)迦陵頻(かりょうびん)の舞装束を身につけた美しい男童(をのわらわ)(はべ)らせていた。
 その姿に泊瀬と海石は目を()き、呆然と(つぶや)く。
王太子(ひつぎのみこ)……雲梯(うなて)様……」
「……兄上」
二人の口から漏れ出たその名に、花夜も目を見開(みひら)く。
「泊瀬様の兄君……?王太子(ひつぎのみこ)様?では、あの方が霧狭司国(むさしのくに)の次の()国王(くにぎみ)様なのですか……?」
 信じ(がた)い、とでも言いたげな声だったが無理もない。雲梯(うなて)身形(みなり)は罪を(あらた)める場に相応(ふさわ)しくないどころか、夜通し遊んだ後にそのままの姿で出て来たかのようなしどけないものだった。
 その姿に雲箇(うるか)も一瞬(まゆ)(ひそ)めかけたが、それに関しては何も言わず、ただ(うやうや)しく頭を下げる。
王太子(ひつぎのみこ)様、よくぞおいでくださりました。先に申しておきましたこと、(おぼ)えておいでとは存じますが……酒や水の(たぐい)などお持ちではいらっしゃいませんね?」
「ああ。あれだけ口うるさく言われればさすがに覚えているさ」
 雲梯はうんざりしたように顔をしかめる。その二人のやり取りを聞き、海石(いくり)は顔を(かた)くする。
「水の類を持ち込ませない……。つまりは、水を通して外のことを見守っていらっしゃる水神(みづかみ)様の御目も、此処(ここ)には届かない……ということなのですね」
「そんな……」
 花夜も()(すべ)が分からぬように顔を強張らせる。その張り()めた場の中、雲梯はそれを意にも(かい)さぬかのような明るい声音で泊瀬に話しかけた。
「久しいな、泊瀬親王(はつせのみこ)。少し背が伸びたのではないか?」
「兄上……、あなたが俺達を(あらた)めるのですか?」
 心の内がまるでつかめない異腹(ことはら)の兄に、泊瀬は硬い声で問いかける。雲梯は苦笑いして首を横に振った。
「いや、私は単なるお(かざ)りだ。ただこの場にいて全てを見守っていれば良いと言われている。それにそもそもお前たちの罪が(あらた)められることなどないさ。お前たちは身柄(みがら)を移される最中(さなか)、心乱し次の代の国王(くにぎみ)たる私に(おそ)いかかった。ゆえにその場で()り捨てられた。……そういう筋書(すぢがき)になっているそうだからな」
 顔色を変えぬ……どころか、うっすら笑みさえ浮かべたままで、彼はあっさりと葦立氏の(たくら)みを(あば)いた。俺達は言葉を失い、葦立氏達は色めき立つ。滅多(めった)に顔を動かさぬ雲箇でさえも、眉間(みけん)(しわ)を寄せて雲梯をたしなめた。だが雲梯は何を言われようと動ずることもなく、その顔色を(たも)っている。
今更(いまさら)何を明かしたところで(かま)わぬだろう。どうせ口は封じるつもりなのだろうしな。折角(せっかく)の舟遊びを取りやめさせてまで斯様(かよう)な茶番につき合わせるのだから、少しばかり楽しんでも良かろう」
 にやにやした笑みを浮かべながらそう言う雲梯に、雲箇は(あきら)めたように()め息をつく。その時、たまりかねたように花夜が声を上げた。
「あなた(がた)は、ご自分が何をしようとなさっているのか分かっておいでなのですか!?(おの)が欲のために命を(うば)う……それも何の罪もないお二人を罪人(つみびと)に仕立てあげて(あや)めるなど、許されるとお思いなのですか!たとえ今の一時(いっとき)水神(みづかみ)様の御目を(あざむ)けたとしても、その罪は(いづ)(あき)らかとなります!その時、水神様のお怒りを受けるお覚悟がお有りなのですか!」
 だが周りに居並ぶ葦立の人間たちは、その言葉を鼻で嘲笑(わら)うだけだった。ただ一人、雲梯だけは興を起こしたように軽く目を見開き、花夜を見つめる。
「……魂依姫(タマヨリヒメ)・雲箇。あの女子(むすめ)は誰だ」
 その値踏(ねぶ)みするような目から(かば)うように、俺はさりげなく前に出て花夜(かや)の姿を(かく)す。
「彼の者は花蘇利(かそり)萱津彦(かやつひこ)が娘・花夜。そこにおられる蛇神(ヘミガミ)の巫女です」
「ほぅ……。我が国に(くだ)りし()の国の姫か」
 言って、雲梯は意味ありげな目で雲箇を見る。
「元は一国の姫で神に(つか)える巫女だというのに、(めづら)しく真直(ますぐ)(さが)女子(むすめ)のようだな。私は巫女と言えば皆、そなたのような女子(むすめ)なのだとばかり思っていたが。それとも巫女姫というものは、元々は斯様(かよう)なものなのか?」
「……さあ。私にお(たず)ねになられましても、分かりかねますが」
 からかわれているのを知りながら、雲箇はそ知らぬ顔で受け流す。その態度に雲梯もそれ以上何かを言うのを(あきら)め、花夜に向き直った。
「花夜姫よ。そなたの言葉は正しいが、それでこの者らの心が(くつがえ)ることはない。この者らはそもそも斯様(かよう)な物の見方をしてはおらぬからな。この者らはただ、(まつりごと)(あた)となるものを(ほうむ)り去る口実があればそれで良いのだ。罪の有り無しなど(はな)から考えてもおらぬ。それに神の(ばつ)(おそ)れてもおらぬ。長きに渡り御自らの身を封じていらっしゃる鎮守神(ちんじゅがみ)様が今更(いまさら)外へお出ましになって罰をお与えになるなど、この者らは考えてもおらぬのだからな」
「あなたは泊瀬様の兄君ではないのですか?弟である泊瀬様に対して、御(なさ)けは無いのですか?」
 花夜の必死の問いに、雲梯は再び薄く笑った。だがそれは、それまでの他人(ひと)(あざけ)るような()みとは(こと)なり、(さび)しさとも(にが)さともつかぬものの混じった笑みだった。
「私に何を(のぞ)んでおるのか知らぬが、無駄(むだ)なことだ。私はただのお飾りだからな。何の力も持ってはいない。それに兄弟(はらから)(なさ)けなど持ったところで(むな)しいだけだ。どれほどの情けを(そそ)いだとて、その相手は明日(くるひ)には(まつりごと)の争いにより(ほうむ)られているかも知れぬのだからな」
「兄上……」
 これまで思いも(およ)ばなかった兄の苦しみを垣間(かいま)見た気がして、泊瀬は思わずその名を呼ぶ。雲梯はその顔を見つめ返し、ふっと笑みを消した。
泊瀬親王(はつせのみこ)宮処(みやこ)で巻き起こす数々の(さわ)ぎの話は、なかなかに面白(おもしろ)かったのだがな……。それがもう聞けぬとは()しいことだ」
 それは全てを()(はな)すかのような、冷たく情の無い声だった。何もかもを(あきら)めた顔で、しかし手つきだけはやけに優しく、雲梯は(かたわ)らの童部(わらわべ)の目を(ふた)ぐ。
「お前たち、これから先この場で起こることを見てはいけないよ。耳も(ふた)いでいなさい。(おさな)き子らには惨過(むごす)ぎるものだからね……」
 その雲梯の言葉を合図にしたかのように、(むろ)(すみ)(ひか)えていた一人の(をのこ)が立ち上がる。(なわ)で手首を(いまし)められ、身動きがとれぬ泊瀬と海石に(あゆ)み寄り、その身に()いた大刀(たち)に手をかける。
 泊瀬と海石はぎゅっと目を(つむ)り、花夜は青ざめた顔で叫びを上げた。
「やめてえぇぇえーっ!」
その刹那(せつな)、庭園の池から、井から、あるいは深き(つち)の底から――宮の内のありとあらゆる場から一斉(いっせい)に、音を立てて水が()()がった。
 それは()き出た勢いそのままに御殿(みあらか)の床や屋根、壁や戸を次々と打ち(こわ)し、その場にいた兵士(いくさびと)らや葦立氏(あだちうぢ)幾人(いくたり)かをも弾き飛ばし、倒していった。
 花夜(かや)泊瀬(はつせ)たちの手首を縛めていた縄も、まるで鋭い片刃(かたな)で切り裂かれたかのように断ち切られて地に落ちる。
「一体、何が……?」
 呆気(あっけ)にとられ立ち()くす花夜の目の前、今やすっかり外の光が差し込むようになった(むろ)只中(ただなか)に先ほど()き上がったと(おぼ)しき水の(かたまり)が、そのまま流れ落ちることもなく、ふよふよと(くう)に浮いていた。
 内から(ほの)かな青い光を放つその大きな水の(たま)は、やがてゆっくりと形を変え、一人の女童(めのわらわ)――(いな)一柱(ひとはしら)の女神の姿をとっていく。
「ミヅハ……様……?」
 泊瀬が信じ(がた)いと言う顔で名を呼ぶ。
 その(ほお)には、先刻までは無かったはずの一筋(ひとすぢ)の切り傷がある。そして彼の横には刃の折れた大刀(たち)を手に呆然とへたり込む(をのこ)の姿があった。
「泊瀬!泊瀬!大事無いか?」
 水波女神(ミヅハノメノカミ)は白い素足(すあし)で空を()け、泊瀬の身に飛びついた。
「あぁ……血が出ておる。痛かったであろう?可哀想(かわいそう)に……」
 驚きのあまり何も言えずにいる泊瀬の顔をじっと(のぞ)()み、水波女神は(まゆ)(くも)らせる。そしてその小さな手のひらを泊瀬の頬に押し当てた。
 しばらくそうして()れてから、そっと手を離すと、にじんでいたはずの血は(ぬぐ)い取られたかのように消え去り、傷口には既にうっすらと瘡蓋(かさぶた)が盛り上がっていた。
 水波女神はほっと安堵(あんど)の息をつき、厳しい眼差しで葦立氏一同を振り返る。葦立氏は皆、血の()の引いた顔でうろたえ始めた。
「そんな、まさか、鎮守神(ちんじゅがみ)様が!?」
「鎮守神様は水波多(みづはた)の丘にお()もりになられているのではなかったのか!?」
「我らの(くわだ)てが知れてしまったと言うのか?何故だ!?あり()ぬ!」
「水神様の御目が届かぬよう、この(むろ)の内には一滴(ひとしずく)の水も持ち込まぬようにしたのではなかったのか!?」
 戸惑(とまど)(さわ)ぐ葦立氏らを冷たく静かな(ひとみ)で見渡し、水波女神は物を知らぬ幼子(おさなご)に言い聞かせるかのようにゆっくりと(くちびる)(ひら)いた。
「一滴の水も持ち込まぬなど、できるはずがあるまい。人間(ひと)の身にいったいどれほどの水が(ふく)まれていると思っておるのだ。(わたくし)は汝らの(まなこ)上辺(うわべ)に張った(みづ)(まく)を通して全てを見ておったぞ」
 (さば)きを言い渡すかのようなその声音に、居並ぶ者達は一様に青ざめ、(おび)え、身を(ちぢ)ませる。だがその中にあってふいに、場にそぐわぬ狂喜に満ちた笑い声を発した者がいた。
素晴(すば)らしい。人間(ひと)小賢(こざか)しき(はかりごと)など、いとも容易(たやす)く無きものとしてしまわれる。さすがは神。これこそ私がずっと求めてきたものだ」
「……兄上……?」
 皆が呆気(あっけ)にとられて見つめる中、雲梯(うなて)不気味(ぶきみ)な笑みを頬に()りつけたまま女神に歩み寄る。
「お初に御目にかかります、我らの愛し(うやま)水波女神(ミヅハノメノカミ)様。ずっと御目にかかりたいと()がっておりました」
「……王太子(ひつぎのみこ)・雲梯か。お前は(わたくし)に何を望むというのだ?」
 雲梯を見つめる水波女神の(ひとみ)は、それまで葦立氏らに向けていたものとは少し(こと)なる(さま)を見せていた。そこには心なしか、(あわ)れみにも似た(なさけ)が宿っているように見えた。
「水を通してこの宮殿(みかど)の中を見守っていらしたあなた様になら、お分かりになるのではありませんか?幾百年の長きにわたり別宮(わけみや)()もり続けていらしたあなた様が、折角(せっかく)こうしてこの場へ出ていらしたのです。これを機に、この乱れきった宮殿(みかど)を正していかれてはいかがです」
 その言葉に葦立氏らは再び(はげ)しくざわめきだす。
「何を(おお)せになるのですか王太子(ひつぎのみこ)様!」
「我らを裏切るおつもりですか、雲梯様!」
「……裏切る?一体何を裏切ると言うのだ?私は元々お前たちに(くみ)したつもりなどない。たまたま葦立の血を引いて生まれたからと言って、何故(なぜ)その(うがら)思惑(おもわく)に従わねばならない?私は私だ。お前たちの思いのままに(あやつ)られるなど、最早(もはや)()えられぬ。()れば今度(こたび)は我が思惑に、神さえも利用させて頂く」
 うっすら笑みを浮かべたまま、雲梯は床に転がる折れた大刀(たち)(きっさき)に手を伸ばした。
泊瀬親王(はつせのみこ)よ、知っているか?鎮守神(ちんじゅがみ)様が如何(いか)にして荒魂(アラミタマ)となられるかを」
「兄上!?何を……!?」
 雲梯は躊躇(ためら)うことなくその手に刃を(にぎ)る。すぐに赤い血が手のひらから(あふ)れ、手首を流れて(したた)り落ちる。
「鎮守神様は真清水(ましみづ)(ごと)き清らかな御心(みこころ)の主。それ(ゆえ)他人(ひと)()しき思惑(おもわく)によりもたらされる罪無き者たちの(むご)き死に対して、御心を乱さずにいらっしゃることはできないのだ。……私が長き歳月(としつき)、この宮殿(みかど)で見聞きしてきたような酷きことに対しては、な」
 言いながら雲梯は大刀の欠片(かけら)を放り捨て、その血塗(ちぬ)れた指で(おもむろ)に、女神の白い頬をなぞった。その血に触れた刹那、女神の身がびくり、と大きく震える。
如何(いかが)ですか?水を通して全てを知ることのできるあなた様であれば、お見えになるでしょう。この血潮の水に刻まれた私の記憶が。これまでこの国で、どれほどの(むご)きことが行われてきたのかが」
 その口振(くちぶ)りはひどく淡々としていた。だが女神を見つめるその(ひとみ)暗冥(くら)く、()やすことのできぬ哀しみと、一切の望みを()たれた(むな)しさに満ちているように見えた。
「……あなた様が国人(くにひと)の命を守らんとして土の下に()もっておいでの間、この国ではその国人の命が、くだらぬ争いにより、それはそれは沢山(うしな)われてきたのですよ。この国は最早(もはや)()うに腐り果てております。あなた様が御心をかけるほどの値打ちも無い、救いようもなく(けが)れた国と成り果てておりますよ」
 女神の身が小刻(こきざ)みに震えだす。その(まなこ)(うつ)ろになり、その唇からは何かを必死に(こら)えようとするような、ひどく苦しげな声が(こぼ)れだす。
「あ……、あ……あぁ……っ。いかん、このままでは……心が、……(たま)が、(たも)てぬ……っ」
「ミヅハ様!」
 泊瀬は女神の頬を(けが)す血を衣袖(ころもで)(ぬぐ)い、その(かた)を両の手で(つか)んで()すり、正気を取り戻させようと死に物狂いで呼びかける。
「ミヅハ様!しっかりなさって下さい!荒魂(アラミタマ)などになってはいけません!あなたは(おっしゃ)っていたではありませんか!荒魂となって愛する国人達の命を奪ってしまうことには()えられないと!だからあなたはこれまで、あのような(つら)く寂しい所でたった独り耐えていらっしたのでしょう!?」
斯様(かよう)な言葉、何にもならぬぞ、泊瀬親王(はつせのみこ)。私の血に刻まれた記憶は、下手をすれば凡人(ただひと)でさえも気が狂いかねんほどのものだ。まして幾百もの歳月、荒魂となるを()けるため酷きものから御目を()らしていらした水波女神(ミヅハノメノカミ)様にはとても耐えられぬものであろう」
「兄上!あなたは一体、何をなさりたいんだ!このままでは荒魂となったミヅハ様に全てを壊されてしまう!この宮殿(みかど)も、宮処(みやこ)も、下手をすればこの国さえも!」
 泊瀬の叫びに、雲梯は笑みを深くする。それは正気の人間のものとは思えぬほどの狂おしき笑みだった。
「……分かっているではないか。私はこの国を壊したいのだ。この国の(みにく)(けが)れたもの全てを水に流し、清く美しい国を一から(つく)り直すのだ」
 その場にいた全ての者が言葉を失う中、女神の(うめ)き声だけが(あや)しく室の内に響き続ける。
「あぁ……何ということだ……。(わたくし)が目を離していたばかりに、このような(むご)きことが……。何故(なにゆえ)なのだ?何故、汝らは同じ国人の間でさえ、()くも血を流し合う?何故、他国(あたしくに)(おか)数多(あまた)の命を奪ってまで領土(くに)(ひろ)げたがる?(わたくし)には分からぬ。……何故汝らは、他人(ひと)の痛みが分からぬのだ?」
 女神は両の(かいな)で頭を(かか)え、震えながら(うずくま)る。
「あぁ……斯様(かよう)(なさけ)を持たぬ者ばかりでは、最早(もはや)、いかに望みをかけたとて何にもならぬ。なんと(みにく)く、なんと(おろ)かしい……これが(わたくし)の愛した国なのか?……(いや)だ。このような(けが)れたもの、もう見とうない!……清めなければならぬ。(わたくし)が何を言っても変えられぬというのなら、せめて、この手で…………!」
 その声はまるで悲鳴のように甲高(かんだか)(かす)れ、(しま)いの方は上手く聞き取ることができなかった。
 直後、床板を()き破り、女神の足下から再び水が()き出す。泊瀬は水の勢いに()ね飛ばされ、派手(はで)な音を立てて壁にぶつかり倒れた。
「泊瀬様!」
 顔色を変えて()け寄る海石(いくり)に手を()って無事(ぶじ)を知らせ、泊瀬は(けわ)しい表情で噴き上がる水の柱を見つめる。
 水は(なお)も噴き上がり続け、琉璃(るり)の瓦を()せた屋根さえ()え、遥か高くまで(のぼ)っていく。
 それはやがてただの水柱(みづばしら)ではなく、ある形を()していった。
 波の飛沫(しぶき)(からだ)(おお)(うろこ)となり、その身は長く、どこまでも長く()びて大蛇(ヲロチ)のようにくねる。それは、まるで……
「あれは……水霊(ミヅチ)?……いいえ、(たつ)?……龍神(たつがみ)様、でしょうか?」
 花夜の(つぶや)きに、俺は首を振る。
「いや。あれは水波女神(ミヅハノメノカミ)だ。荒魂(アラミタマ)となり(もと)の姿を(あらわ)したのだ」

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