「花咲く夜に君の名を呼ぶ」第10章で描いている「水沼原宮」の庭園の様子は、奈良時代の平城宮東院庭園の様子を参考にさせてもらっています。
この庭園は平城宮の東に張り出した部分の東南隅にあり、その跡地からは釉薬をかけた美しい瓦――すなわち物語中でも既に描いた「るりの瓦」がたくさん出土しています。
1967年のこの庭園の発見により、それまで「万葉集」の和歌や「懐風藻」の漢詩の描写から想像するしかなかった奈良時代の庭園の姿が分かってきたのですが、そこでは既に現在の日本庭園に通じる洲浜の手法が使われていました。
池の底にはこぶし大の玉石が敷かれ、それは岸辺に向かってゆるやかな勾配を造り、岸辺に複雑かつ優美な曲線をつけていました。さらに岸辺や中島(=池の中の島)には石組の築山も設けられていました。
つまり人工の岬や入江、山などを形成し、自然の風景の「ミニチュア」を造るということがこの時代から既に行われていたのです。
さらに、庭園内にはマツ・ヒノキ・ヤナギなどの高木やウメ・ツバキ・ツツジなどの中低木が植えられ美しい緑の景色を作り上げていたようです。
池をのぞむ建物は、池の上にバルコニーが張り出し、さらにそこから対岸へ向けて朱塗りの平らな橋が架けられていました。建物の柱は断面略八角形で、他の部材もそれに合わせて加工されており、とても技巧に満ちた建物だったことが分かります。
そして池の中からは奈良時代の上流階級の人々が乗って遊んだのであろう木製の小舟も出土しています。
奈良時代の人々の風流な社交場であったことが想像されるこの東院ですが、実際に天皇による宴会が催されていたという記事が「続日本紀」にも載っています。