第九章 土の下の女神

 狭い穴を何とか(くぐ)ると、途端に天井が高くなった。
 その石室(いわむろ)四方(よも)の壁と天井をびっしりと細かな文様で埋め尽くされていた。そして松明で照らした先、(むろ)の中央には何故か小さな御井(みゐ)が一つあった。
 泊瀬(はつせ)は立ち止まり、目を閉じた。耳を澄まし、肌で微かな風を感じ、鼻をひくひくと小さく動かす。五感を研ぎ澄ませて何かを感じ取ろうとしているようだった。
「……この感じ、覚えがある。恐らく此処(ここ)だ。俺がいつも(いめ)の中であの方に会っていたのは」
 小さく(つぶや)くと、泊瀬(はつせ)は御井に駆け寄った。
「ミヅハ様!ミヅハ様、いらっしゃいますか!?俺です!泊瀬です!」
 その呼び声は石室中に響き渡る。直後、井の底からぽたり、と水の(しただ)る音が聞こえた。
「……はつ、せ……?」
 一つ、また一つと響く水音に混じり、夢見ているかのようなあやふやな声が聞こえる。それと同時に井の底から少しずつ、(ほの)かな光が漏れ始めた。
「そうです!俺です、ミヅハ様!あなたに会いに此処(ここ)まで来たのです!」
「……泊瀬。(まこと)に泊瀬なのだな」
 初めあやふやだった声は次第にはっきりとしていき、水音も光も激しさを増していった。やがて、井戸から光の塊が飛び出してきた。それは石室の暗さに慣れた目には(まぶ)し過ぎるほどの、青みを帯びた(しろかね)の光だった。
「ミヅハ様!」
 泊瀬が歓喜の声を上げる。海石(いくり)(おそ)れ敬うように深々と(こうべ)を垂れ、花夜(かや)は驚きに目を(みは)った。
「あの方が……水波女神(ミヅハノメノカミ)……?」
 光の中から現れた女神は水を統べる姫神にふさわしく、水の持つありとあらゆる美しさを一つに凝縮したかのような姿をしていた。
 長い御髪(みぐし)は日の光を浴びて流れる清水(しみづ)を思わせる滑らかな(しろかね)の色、瞳は透き通った水海(みづうみ)の深い深い水底(みなそこ)を思わせる碧色。身にまとう御衣(みけし)は水を織ったかのように透き通る薄物と、水泡(みなわ)のような淡い(しろかね)の模様を散りばめた水浅葱(みづあさぎ)の一枚布を組み合わせたもので、()(あと)()(あと)も無くただその身に巻きつけているだけだというのに、この上なく優美な形で女神の身を飾っていた。肩の辺りには比礼(ひれ)の代わりなのか、光を受けて虹の色に(きら)めく(みづ)の珠が(いく)つも(つら)なり、女神が身動きする(たび)にしゃらしゃらと耳に心地良い音を奏でていた。
 だが、花夜が驚いたのは女神の美しさにではなかった。
「泊瀬、(わたくし)に会うために斯様(かよう)な所まで来てしまったのだな」
 憂いに眉を曇らせるその表情は大人の婦女(をみな)のようだったが、その声は、姿は、まるで違っていた。
 澄んだ声は想像していたよりもずっと高く愛らしく、背丈(せたけ)はまだ大人になりきれていない泊瀬のそれよりも(なお)低い。その姿は人間(ひと)で言えば(よわい)六、七つほどの女童(めのわらわ)のように見えた。
「ミヅハ様!俺は、あなたをお救いするために此処(ここ)まで来たのです。共に此処(ここ)を出ましょう。もうあなたは、こんな暗く寂しい所で孤独に耐えていなくても良いのです!」
 泊瀬は幼い姫神に(うやうや)しく手を差し伸べ、熱く語った。だが水波女神(かぶり)を振る。
「いいや、(わたくし)此処(ここ)を出ることはできぬ」
「何故ですか!?八乙女の結界は既に破られた!あなたはもう解き放たれたのです!」
「……そうではないのだ」
 水波女神は目を伏せ、哀しげに吐息した。
「水波女神様、射魔海石(いるまのいくり)です。畏れながらお尋ね致します。あなた様は何故(なにゆえ)此処(ここ)をお出になることができないのですか?」
 海石が恐る恐る口を開く。女神は海石に視線を向け、軽く目を見開いた。
射魔海石(いるまのいくり)……。かつて大宮に仕えていた姫だな。覚えている。……すまなかったな。(わたくし)(なれ)の友を救ってやることができなかった」
 その言葉に海石(いくり)も目を見開く。
「ご存知だったのですか。私と……夏磯姫(なつそひめ)のことを」
「ああ。八乙女だった者の顔は皆知っている。それに、水辺(みづべ)で起きた物事は全て妾の目に入る。……霧狭司は惜しい巫女を亡くした」
 遠くを見るような目でそう語った後、女神は表情を切り替え海石に向き直った。
「射魔海石、()が問いに答えよう。妾が此処(ここ)を出られぬのは、八乙女に封じられているからではない」
 その言葉に、泊瀬(はつせ)は信じられないという表情で首を振る。
「何を(おっしゃ)っているのですか、ミヅハ様。あなたは現に八乙女の結界の内にいらっしゃったではありませんか」
「そうではない。八乙女の結界など、(わたくし)にとっては何らの(さわ)りにもならぬ。考えてもみよ、八乙女に祈道(キドウ)を授けたのは妾なのだぞ。それに、そもそも如何(いか)なる霊力(ちから)をもってしても、人間(ヒト)の身で水を()べる神たる妾を封じることなどできぬ。……妾が此処(ここ)を出られぬ(わけ)はな……妾が、己で己を(いまし)めているからだ。決して此処(ここ)を出ぬように、とな」
 その答えに、皆が息を()む。
「……何故、ですか?」
 その問いに、女神はすぐには答えなかった。何かを深く憂えるような表情でしばし黙した後、女神は(さかしま)に俺たちに問いかけてきた。
「皆の者、この宮処(みやこ)の東を流れる霊河(ひかわ)が、かつて何と呼ばれていたかを知っているか?」
 花夜(かや)は戸惑うような顔で泊瀬を見、泊瀬は分からない、という顔で首を横に振る。その問いに答えを返すことができたのは海石だけだった。
「確か『荒河(あらかわ)』と呼ばれていたと、大宮にある何かの文書(もんじょ)で読んだことがあります」
「そうだ。かつて()の河は年毎(としごと)増水(まさりみづ)を起こし荒れ狂った。ゆえに『荒河』と呼ばれ恐れられていた。(おおやけ)には伏せられているが……実はそれは、妾のせいだったのだ」
 その告白に皆が言葉を失う中、女神は沈痛な表情で先を続けた。
「神というものには、必ず二つの顔が存在する。人々に幸と恵みを与える『和魂(ニギミタマ)』と、荒れ狂い人々に害をなす『荒魂(アラミタマ)』だ。この二つの(ミタマ)は、表裏一体のもの。平素は穏やかに()いだ神の(ミタマ)も、きっかけ次第で激しく荒ぶる――人間(ヒト)の心が怒りを得て荒れ狂うのと同じに、な。それを止めることは妾自身にもできぬ。そして一度荒魂(アラミタマ)となれば、妾は我を失い、その荒ぶる霊力(ちから)により嵐を呼び、辺りの河という河を荒れ狂わせ、人々に害をなすのだ。国王(くにぎみ)や八乙女は、それでも妾を鎮守神として留め置こうとする。だが妾は、妾の愛する国人(くにひと)の命を、(おの)が手で奪うことに耐えられなかった」
 女神の瞳から一滴(ひとしずく)(なみだ)(こぼ)れて頬を(つた)う。海石は呆然と、まるで独り言のように問いを口にする。
「『大いなる災い』……。まさか、古き文書(もんじょ)に記されていたのはこのことだったのですか?」
(ミタマ)を荒ぶらせぬためには、妾の身を世間(よのなか)と切り離してしまえば良い。だから妾はこうして独り、水の霊力(ちから)を弱める『土』に囲まれた場所に()もった。そして妾がいなくても国を守れるよう、八乙女には妾の持てる限りの知識を『祈道(キドウ)』として授けた。妾さえこの孤独に耐えれば、全てが(まる)く治まると、そう思っていたのだ」
「なるほど。その御姿は、長き歳月(としつき)土の中に籠もり、水の霊力(ちから)を削られたがゆえのこと……というわけですか。ですが、そんなあなたの御心も知らず、霧狭司(むさし)の国人は止める神がいないのを良いことに、その祈道(キドウ)と武力で周りの国々を脅かし始めた。さらには国人同士でさえ、争い、命を奪い合っている」
 黙っていられずに言葉を紡ぐと、女神は打たれたかのように俺を見、哀しげに目を伏せた。
(なれ)は、泊瀬(はつせ)に手を貸してくれた蛇神(ヘミガミ)だな。()づは礼を言わせてもらおう。……そして、汝の言う通りだ。(わたくし)の考えが甘かったのやも知れぬ。国人達の暴挙を、妾は止めることができなかった。心ある八乙女や親王(みこ)内親王(ひめみこ)たちに(いめ)で幾度も呼びかけたが、彼らの(うるた)は他の氏族の者達に握りつぶされた。それどころか、そのせいで他の者達に(うと)まれ、命を落とした者さえいる」
「そんな……」
 花夜は衝撃に声を震わせる。女神は伏せていた目を上げ、哀しげな顔のまま泊瀬を見つめた。
「そもそも皆、信じぬのだ。(いめ)(わたくし)に会ったという者達の言葉を。泊瀬、妾に会ったというお前の言葉を他の者達が容易には信じなかったように、な」
 女神の言葉に泊瀬は(うつむ)き、己の過去を振り返るかのように固く拳を握りしめた。
「……確かに。夢で神に(まみ)えることが国王(くにぎみ)の器を持つ証だの何だのと言われているせいで、余計に皆、信じてくれなかった。ただの夢と嘲笑(わら)われたり、嘘つき呼ばわりされたり……」
 気遣(きづか)うように泊瀬を見つめ、花夜がぽつりと(つぶや)く。
「己の目に見えないもの、己の耳には聞こえないものを、人間(ひと)はそう容易(たやす)く信じてはくれませんからね……」
「けれど、一度(ひとたび)鎮守神(ちんじゅがみ)様が御姿をお見せになれば、皆きっと心を改めますわ!ですから鎮守神様、どうか皆の前に御姿をお見せください!そのまま永久(とこしえ)に地上にお留まりくださいとは申しません。ただ一度(ひとたび)だけで良いのです!ただ一度……皆を(さと)してくださいませ。そうすれば、きっとこの国は()くなります!」
 海石が必死に訴える。だが女神は全てを諦めたかのように力無く首を振るだけだった。
一度(ひとたび)姿を(あらわ)した程度でこの国が変わることはないだろう。変わったとて一時だけのこと。(わたくし)の諌めなどすぐに忘れ、あるいは都合の良いように解釈をねじ曲げ、国人達は再び過ちを犯し始める。妾が大宮にいた頃から既に、国人達は表向きには妾の言葉に従いながら、裏では悪事を重ねていた。そして妾はそれを知るたびに心を乱し、やがて荒魂(アラミタマ)となってこの国に災いをもたらした。もう、あのようなことを繰り返したくはない。妾はここを永久に出ぬと決めたのだ」
「そんな……」
 言葉を失う海石に代わり、俺は再度口を開いた。
(おそ)れながら、その言い様は鎮守神として如何(いかが)なものかと存じます。鎮守神ならば己の加護する国人の過ちは(おの)が手で正すべきかと存じますが」
 それは女神の怒りを買うことを覚悟の無礼な発言だった。そもそも鎮守神の中には己の加護する国ばかりを過度に重く見て、他国のことなど目に入っていない神も多い。己の口にしていることが単なる理想論に過ぎないことは百も承知だった。
 だが女神は怒りもせず、ただ静かに言葉を返すだけだった。
「……すまぬな。霧狭司国(むさしのくに)のことは、最早(もはや)妾でもどうすることもできぬ。どうすれば皆が心を改めてくれるのか、妾にも分からぬのだ。情けないことだが、人間(ひと)の心が斯様(かよう)に動かし難く、(はか)り難きものだとは妾も()くなるまではまるで知らなんだ。もし霧狭司国を止めようとするならば、最早、全てを壊し一より創り直す他に術は無い。そして妾は、そのこと(・・・・)を何よりも恐れているのだ」
「どういうこと、ですか?」
 女神の口調に穏やかならざるものを感じ取ったのか、問う泊瀬の声はひどく硬い響きをしていた。
「妾はここで(ひさ)しく霧狭司(むさし)の悪事を見つめ続けてきた。そしてこれを正すには最早国を壊すしかないと考えてしまっている(・・・・・・・・・)。……その妾がもしこの先、荒魂(アラミタマ)になることがあったなら……、妾はその考えを、真実(まこと)のことにしてしまうかも知れぬ、ということだ」
 語る声は変わらず静かなものだったが、聞いていた者は皆、その言葉に身を震わせた。相手は水神(みづかみ)だ。言葉通り、霧狭司国一つを壊滅させるなど造作もないことだろう。そして、荒魂となった女神の心は己でも(ぎょ)することができない。もし怒りが鎮まらなかったとしたら、事は霧狭司一国だけでは終わらないのだ。
「分かったであろう?()ればこそ妾はここを出ることができぬのだ。妾のために命を懸けここまで来てくれた(なれ)らには悪いが、許せ」
 あまりにも恐ろしい可能性を示されて、それでも女神にここから出てくれとは誰も言えなかった。俺たちはただ、女神の言葉を受け入れるしかなかった。
 呆然自失の体で立ち尽くす俺たちに、女神が鋭く告げる。
「皆の者、一時も早くここを出よ。そして射魔(いるま)(いえ)には戻らず、すぐに宮処(みやこ)を離れるのだ。汝らが結界を破ったことはすぐにでも八乙女に知れよう。追っ手がかかる前に逃げるのだ」
 その言葉に皆ハッと顔色を変えた。
「……そうですわ。他の氏族の方々は泊瀬様の御言葉を信じません。下手をすれば神域を侵した罪で裁かれてしまうかも知れませんわ!」
「そんな……」
 泊瀬はそれでも離れ難そうに女神を見つめ続ける。女神は泣き笑いのような表情(かお)で泊瀬を見つめ返し、そっとその頬に触れた。
「すまなかったな、泊瀬。妾が一方的に汝との交わりを断ったがゆえに、汝を(いたづら)に苦しめた。あれは汝を想ってのこと。かつて妾の声を夢に聞いた他の親王(みこ)たちのように、汝を苦境に落としたくはなかった。妾の本意ではなかったのだ」
「ミヅハ様……」
 泊瀬は戸惑うように女神の名を呼ぶ。女神は心から(いとお)しむように言葉を続けた。
「汝は妾を救いたいと言ってくれたが、妾は既に汝に救われていたぞ。長き孤独の中、(いめ)の中だけでも妾と交わってくれる存在(もの)があって、どれほど胸が癒されたことか……。何もしてくれずとも良い。ただ妾と言葉を交わし、泣き笑いしてくれる……それだけで良かったのだ。その上、汝は妾を気にかけ、妾を想い、こうして危険を冒してまで駆けつけてくれた。斯様(かよう)な相手がいてくれるというだけで、心は救われるものなのだ」
 言って、女神は名残り惜しげにその指を離した。
「行くのだ、泊瀬。必ず逃げ延びよ。妾はずっと、水を通して汝のことを見守っているぞ」
 泊瀬はそれでも躊躇(ためら)うように立ち止まっていたが、海石に促され、ようやく歩を踏み出した。
 俺たちは重い足を引きずるようにして、女神の石室(いわむろ)を後にした。

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