【奈良時代・貴族の暮らし】
 
本文中の射魔邸の記述に「ん?」と思った読者様もいらっしゃるかもしれません。
射魔邸の内装は奈良時代の貴族の暮らしを参考にしているのですが、床は板張りのフローリングでその上に絨毯(カーペット)、部屋の仕切りはカーテンのような上から垂れ下がった布、と奈良時代の貴族の生活は「和風じゃない」のです。
 
以前の「へびさんのあんよ」でも書きましたが、日本が「和風」な生活様式(スタイル)になっていくのは平安時代以降、いわゆる「国風文化」の時代からなのです。
国風その国特有の風俗・習慣のこと→つまり日本では「和風」、ということです。)
 
それまでは大陸風、つまりシルクロードを通って伝わった文化の影響をすごく受けていたのです。
 
日本の家屋と言えばおなじみの「」も、登場した当初は板の床の上にちょこちょこっと置く「敷物」として使われるだけで、部屋全体を埋め尽くしているようなものではありませんでした。
 
ちなみに当時の貴族の邸宅は母屋や使用人の長屋、執務用の建物に倉庫、馬屋など複数の建物でできた広大なものでした。
 
【銀の香炉】   
射魔邸客室の調度品として出てくる「銀の香炉」は正倉院宝物の中の「銀薫炉(ぎんのくんろ)」を元にイメージしています。
 
「銀薫炉」は衣服に香りをつけるための銀製の香炉で、高さは21cm、透し彫りを施した半球形の蓋と本体とで構成され、香をたいて上に衣服をかけるという方法で使われていたようです。
  
【奈良時代の貴族グルメ】
 
 
本文中に出てくる「射魔邸で出された夕食」は奈良時代の貴族の食事を参考にしていますが、この時代の食事は再現メニューを写真で見ると、まるでちょっとした料亭で出される料理のように豪華絢爛です。
 
内容は本文で語られているものの他にも、干し柿、草もち、煮小豆(にあずき)塩漬(しおづ)けのナス、焼きアワビ、焼きタケノコ、クルマエビの塩焼き、生牡蠣(なまがき)生鮭(なまざけ)、鹿の細切り肉の(こうじ)入り塩辛(しおから)(かも)(せり)の汁物、などなど、今から1300年以上昔の時代とは思えないほど手の込んだ料理でした。
 
都には日本各地の名産品が集まって来ていましたから、山海の珍味がそろっていました。
調味料も塩だけでなく、大豆(だいず)に塩・酒・米麹(こめこうじ)を入れ発酵(はっこう)させて作った「(ひしお)」という醤油のルーツとされる調味料や、同じく大豆を加工して作った「未醤」(味噌)も使われていました。
その上、「」という牛乳を加熱濃縮して作ったチーズのような乳製品まであったのです。
 
ちなみにこの頃の都の庶民の食事は、玄米と青菜汁にという非常に質素なものでした。
そして実は、このが「手塩にかける」という言葉の語源「手塩」と言われています。
昔は塩を皿に盛り膳に添えて、食べる人間の好きなように塩加減を調節していました。この塩を盛った皿が「手塩」なのです。
 
【水波多の丘の別宮・荒水宮】   
「水波多」の名は、さいたま市内の難読地名「水判土(みずはた)」から取っています。
 
そして「荒水宮」は伊勢神宮の別宮「荒祭宮(あらまつりのみや)」にインスピレーションを受けて設定しています。
 
この「荒祭宮」については詳細を説明すると今後の展開のネタバレになる可能性大ですので今は説明を省きます。
  
【割符】   
本文中では特に細かく記述していませんが、ここで語られている「割符」は伊勢神宮の神宝「玉纏御太刀(たままきのおんたち)」に附属している二尾の金の「鮒形(ふながた)」をイメージして描いています。
 
この鮒形は宮中に出入りするためのパスポートだった「割符」が飾りとなったものと説明されているのですが、その由来や起源は古代中国やメソポタミア文明にまでさかのぼるそうです。
 
 
【古のスィーツ】
 
本文中に甘葛(あまずら)を使った「唐菓子」というものが出て来ますが、これは大陸から伝わったお菓子(かし)の呼び名です。
 
どんなものだったのかは資料によって様々、微妙に異なっているのですが、「米や麦の粉に甘葛、(あめ)蜂蜜(はちみつ)などを加えて作る団子(だんご)のようなもの」だとか「米粉・小麦粉に甘葛を加え果物の形に作って油で()げたお菓子」などと書かれています。
 
ちなみに菓子の「菓」は、本来なら草かんむりに果実の「果」で「くだもの」(フルーツ)を表す字なのですが、古い時代にはなぜか「菓子」と「くだもの」がほぼ同じ意味として使われていたようです。
フルーツもお菓子も全部ひっくるめての「スィーツ」みたいな感覚で使われていたのでしょうか?(←管理人にも理由がよく分かりません。)
  
【甥に女装させる叔母、と言うとやや語弊がありますが…】   
本文中でも軽く触れていますが、古事記・日本書紀にはヤマトタケルが叔母のヤマトヒメに渡された衣裳で女装する、というエピソードが出て来ます。
 
ヤマトヒメはヤマトタケルの父の妹で、伊勢神宮の初代斎宮(しかも伊勢神宮を創ったとも言える皇女)で、ヤマトタケルが旅立ち前に神宮に寄るたびに、まるで未来が見えてでもいるかのように、この先旅の中で必要となるアイテムを渡してくれるという不思議な姫です。
(ただしアイテムはノーヒントで渡されるので、使い方は渡された側が考えなければならないのです。)
有名な草薙剣(クサナギノツルギ)も、ヤマトヒメからヤマトタケルに手渡されたアイテムのうちの一つです。
 
女物の衣服(ヤマトヒメの衣と裳)が渡されたのは、ヤマトタケルがクマソタケル兄弟を倒しに旅立つ前のこと、ヤマトタケルがまだ少年で、初めて出陣する時のことです。
ヤマトタケルはこの衣と裳を使い、美女に化けて(ただ女に化けるというのではなく、美女になるというあたりがポイントです)宴に潜り込みます。
しかもクマソタケル兄弟に見初められ、近くでお(しゃく)をすることになり、そこで懐に隠し持っていた短剣で兄弟を討つのです。
 
ヤマトタケルと言うと、武に()けた英雄というイメージをお持ちの方も多いと思いますが、彼が各地の猛者たちを討伐していったエピソードなどを見ていくと、智略をもって敵を倒す・危機を脱するという側面が多かったということが分かります。
 
【采女】   
采女(うねめ)」とは宮中で炊事や食事を司った女官とされていますが、古い時代、彼女達はただの女官ではなく、神に仕える下級巫女だったという説もあります。(ちなみに天武期を境に采女のあり方が変質したとされています。)
 
采女に手を出すことは非常に罪が重く、死罪にもなりかねないタブーであったこと(しかも裁かれるのは男性側だけで采女にはお咎めなし)や、采女が必ず各国(地方)の有力者(豪族や郡司など)の姉妹や子女から選ばれてきたことなどから、各国の巫女(の資格を持つ者)が宮廷に集められ、宮廷で(まつ)る神々に仕えさせられることにより『各国で土着的に信仰されている神々よりも宮廷で祀る神々の方が上(高位)にある』ということをしらしめている、ということのようなのですが、「花咲く…」の物語では、面白いのでこちらの説の方を採用しています。
 
ちなみに物語中に出てくる采女衣裳は、様々な時代の采女装束、巫女装束(のネット情報)を参考にしつつ、水の国『霧狭司』の采女ということで水と関わりのありそうな感じに仕上げました。
  
【衿の合せの結び紐】   
この「結び(ひも)」は奈良時代の女性のファッションを参考にしています。
 
襟元を結ぶ紐自体は古墳時代などにも既にありましたが、その頃は普通に結ばれて使われていました。
 
しかし奈良時代になると、この紐を結ばずに唐衣(からぎぬ)(背子)の前に()らして飾りとするようになります。
紐自体も、カラフルになったり、細かな模様が描かれたり、人によっては膝に届きそうなまでに長くなったりと、どんどんオシャレになっていきました。
 
ちなみに(えり)(あわせ)については、古墳時代は実は左前でした。
奈良時代は右前になりつつも、まだ左前も混在しているような時代になっています。
  
 

  
※このページは津籠(つごもり) 睦月(むつき)によるオリジナル・ファンタジー小説花咲く夜に君の名を呼ぶ(古代ファンタジー小説)
  ストーリーや用語に関する豆知識やこぼれ話・制作秘話などを蛇足に解説したものです。
  解説の内容につきましては資料等を参考にしてはいますが、諸説あるものもございますし、
  管理人(←歴史の専門家ではありませんので)の理解・知識が不充分である可能性もありますのでご注意ください
ファンタジー小説解説へびさんのあんよ
inserted by FC2 system