その夜、俺は整えられた
茵の上で
丸寝していた。泊瀬たちの語った話はあまりにも
途方もなく、そのことについて思いを
巡らせていると、とても眠れる気がしなかった。
花夜もおそらくはそうだったのだろう。時折、
帷に隔てられた隣の
寝屋から花夜の身じろぐ微かな物音が聞こえてきていた。
まんじりともしないまま、やがて夜も
更け、寝屋の内はすっかり闇に包まれていた。同じように眠れていないであろう花夜を案じる俺の耳に、ふいに
帷の向こうから外へと向かう足音と扉のきしむ音が聞こえてきた。
何処へ向かうつもりなのかとさすがに気になり、すぐに身を起こし後を追う。
扉を開け外へ出ると、その姿はすぐに見つかった。
寝屋の外にめぐらされた
渡殿の途中、庭に面した
庇の下で花夜はひとり夜空を見上げていた。俺はそっと近づき声を
掛けた。
「花夜、眠れないのか?」
「ヤト様……」
気配に気づいていたのか、花夜は驚くこともなく俺の名を呼び、微笑んだ。
「はい。目が
冴えてしまいまして……」
「無理も無いことだ。今日はあまりにもいろいろなことがあり過ぎた」
「……そうですね」
頷き、花夜は再び空を見上げた。
射干玉の夜空には
銀金の
砂子を
蒔き散らしたかのように星が
瞬いている。それを
眺めながら、花夜はぽつりと
呟いた。
「今宵は
星月夜ですね」
「ああ。そうだな」
「綺麗ですけど……、眺めていると少し怖くなってきます。空が深くて、果てしなくて……このまま吸い込まれていってしまいそうで……」
そう言う花夜の横顔は、珍しくひどく
心許無げに見えた。
「花夜、お前……迷っているのか?」
俺は軽い驚きを覚えながらその問いを口にした。悪事を正すためや誰かを助けるためならば、俺に意見を求めることなどなしに行動を決めてしまうのがこれまでの彼女の常だった。このように迷っているところなど、これまで見たことがなかったのだ。
「はい。何だか、恐ろしくて……。水神様といえば
祈形国ではスサノヲノミコトに次いで力を持つとされる風火水土の
四柱のうちの一柱。その方が封じられてしまうほどの結界など、正直に言って私には考えも及びません。それに……」
そこで言葉を切り、花夜は何かを思い出そうとでもするように遠い目をした。
「
泊瀬親王様たちが
偽りを
仰っていたようには思えませんが、私には何かが引っかかるのです。何か、とても大きなことを見落としているような……」
「何か、か……。それはお前の恐れから来る不安ではないのか?恐いのであれば断って良いのだぞ」
「恐ろしさは確かにあります。けれど、このまま放っておくこともできません。そんなことをしたら、きっとこの先ずっと心にわだかまりが残ります。それに私、知りたいことがあるのです」
その『知りたいこと』が何なのか、俺には言われずとも分かる気がした。なぜなら俺も花夜と同様に、知りたい真実があったからだ。
「もしも……もしも
彼の時、水神様がご健在でいらっしゃったなら、
花蘇利が奪われることも、私が国を追われることもなかったのかと……。
今更知ったところでどうにもならないことなのは分かっています。それでも、私……」
そこまで言って、花夜は
辛そうに言葉を
詰まらせた。先を続けようとする花夜を手で制し、俺は代わりに口を
開く。
「べつにおかしなことなどではない。それは大切なものを理不尽に奪われた者であれば、当然心に
湧く問いかけだ。もしも
彼の時、少しでも何かが違っていたならば、
彼の幸せは今もまだこの手にあったのではないか、と」
「ヤト様……?」
俺の言葉に何かを感じ取ったのか、花夜が不思議そうな顔で俺を見る。
「俺も、その思いを知っている。俺もかつて
霧狭司に大切なものを奪われたのだ」
花夜が小さく息を
呑む。
「俺はかつて神ではなく、
大刀に宿る
精霊だった。戦の中で人の手を転々とし、ある時ひとりの
鍛冶に拾われた。不思議な男でな、
巫でもないのに俺の姿を
視、話すことまでできた。その男に
鍛冶の
郷へと連れていかれ、俺はそこで久々に戦のない穏やかな日々を味わうことができたのだ。だが、それも長くは続かなかった。その郷を治めていた国が霧狭司に滅ぼされ、鍛冶たちも一人残らず殺された。俺を拾い、心通わせていたその鍛冶も、な……」
花夜に過去を語ったのは、これが初めてだった。花夜は真剣な
眼差しで俺を見つめていたが、やがてぽつりと
呟いた。
「そうでしたか。ヤト様も……」
「花夜、お前は迷っていると言ったが、本当はもう心を決めているのではないのか?だが、その先に待ち構えているものが恐ろしくて、足を
踏み出せずにいるのではないのか?」
真実を知りたくてたまらない――それは俺にとっても、花夜にとっても目を
背けられぬほどに大きな欲求だった。無理矢理目を
逸らしてこの国を去ったところで、きっと後々まで未練となって心に残り続ける、そういう類のものだった。
だからどの道、水神の封印を知ってしまった時既に、俺たちの
運命は決まってしまっていたのだ。
「何にせよ、封印を破り水神と
見えぬことには何も分からない。そうだろう?」
「……そうですね。それに、水神様を解放することができれば、この先私たちと同じ悲しみを味わう
人間をなくせるかも知れませんし」
「ああ。だが無茶なことはするな。真実よりも何よりも、まずはお前の命が何よりだ。俺も力を尽くしてお前を守るが、守りきれぬ時と場合もあるのだからな」
その言葉に、花夜がくすりと笑みを
零す。
「そこで『何があっても必ず守りきる』と
仰らないところが、ヤト様らしいです」
「己の力量に見合わぬことを言うべきではないからな。頼りない神で落胆したか?」
「いいえ。そんなこと、思うはずがありません」
「そうか。ならば、早く寝屋に戻れ。眠りが浅いといざという時に頭が働かなくなるぞ」
言って、
踵を返そうとする俺の
衣袖をそっと花夜が指で引いた。
「あの……もう少しだけ、共に星を見ていきませんか?」
「何だ?夜空を見ていると怖くなるのではなかったのか?」
「はい。ひとりで見ている時はそうでした。でも、ヤト様と共に見ていると不思議とそう感じないのです。星々の瞬きも、夜の闇の深淵さも、ただただ綺麗なばかりで……。何故なのでしょうね」
「……さぁ、な」
気のない返事をしながらも、俺もその星空を綺麗だと感じていた。単純に美しさだけを言うなら、冬の冴えた星の輝きの方がよほど美しいと言うのに、この夜、花夜と並んで見上げた夜空は何故だか不思議に美しかった。
言葉も無くただ寄り添ったまま、俺たちは星の瞬きを眺め続けた。こんな風にふたりで見られる夜空が、もうあとわずかしか残されていないことも知らぬまま……。