「俺があの方と初めてお会いしたのは、まだ物心もつくかつかないかくらいの
幼い
頃のことだった。お会いしたその時にはまだ、あの方の正体にも気づかず、ただ夢のように美しい方だと
見惚れるばかりだった」
泊瀬はぽつりぽつりと己の過去を語りだす。
「その夜、俺は夢の中で泣いていたんだ。どんなに
悔しいことがあっても、日中の人目のある所では泣くことを許されなかったから、夜一人になってから
蒲団の中で悔し泣きしていた。そうしてそのまま眠りについて、夢の中でも泣き続けていたんだ。それを、あの方が見つけてくださった」
女神は、
膝を
抱えて泣いていた泊瀬に不思議そうに話しかけてきたと言う。
『そこの
人間の子、なぜそのように泣いているのだ?お前は
何処からここに迷い込んだのだ?』
驚いて顔を上げた泊瀬の目に映ったのは、それまで宮殿の中で美しく
着飾った
后や
宮女たちを
嫌というほど見てきた泊瀬でさえ、言葉を忘れて
見惚れるような美しい女……いや、女神だった。
呆けた顔のまま問いかけに一切答えようとしない泊瀬を特に
咎めることもせず、女神は
自らの記憶を
探るように無言で泊瀬の姿を見つめた後、
納得がいったようにつぶやいた。
『そうか、お前は
射魔氏より迎えられし
后・
波限姫の子だな。名は確か
泊瀬彦と言ったか。なるほど
霧狭司の
王子ならば、こうして
妾の元を
訪れたとしても不思議はなかろう』
『え!?なぜ、俺や母さまの名を……!?』
見ず知らずの相手に
突然名を言い当てられ、思わず驚いた声で問うと、女神は
淡く
微笑んだ。
『
霧狭司の王室に
連なる者の顔は全て知っている。
妾はずっと霧狭司を見守ってきたのだからな』
言って、女神はそのほっそりとした指でそっと泊瀬の涙を
拭った。そうして
濡れた指先をしげしげと
眺め、
愛しげに目を細めた。
『そうか。この涙はお前自身のためでなく、お前の母のために
生じたものなのだな。……優しい子だ。お前の母は、随分と
辛い目に
遭っているようだな』
まだ何も話していないにも
関わらず、女神は泊瀬の涙の理由を言い当ててみせた。だがその時の泊瀬にはそれを不思議に思うよりも、自分の
悔しさを
誰かに知ってもらいたいという思いの方が
勝っていた。
『……うん。
皆が、母さまにひどいことをするんだ。
化粧箱に虫を入れたり、母さまの通る道をわざと
汚して通れなくしたり……そうして母さまが
驚いたり
困ったりなさっているのを
陰で見て
嘲笑っているんだ』
国王の三人目の
后として宮殿に上がった泊瀬の母は、
葦立氏出身の
正妃から
陰湿な
嫌がらせを受けていた。泊瀬は心から
慕う母のその
窮状が、どうしても許せなかった。
『あれは絶対に
大后様の
差し
金に
違いないんだ。だから俺は大后様に同じようなことをして
仕返ししようと思ったんだ。でも、母さまが
駄目だっておっしゃるんだ。
我慢しなくちゃ駄目だって、俺を
叱るんだ……』
女神は黙って泊瀬の話を聞いた後、やんわりと告げた。
『お前の気持ちは、
妾にも分かる。だが、やはり仕返しなどするべきではない』
『どうして!?』
女神の言葉にとても納得がいかず、泊瀬の
語気は自然と荒くなった。
『お前がまだ幼いからだ』
険しい目で
睨みつけてくる泊瀬を、女神は
慈愛に満ちた瞳で見つめ返した。
『お前にはまだ分からぬかも知れぬが、
罪人に
罰を
下したからと言って、その者が改心するとは限らぬ。罰を下した者が
逆恨みされ、さらなる仕返しをされる
恐れさえあるのだ。特に女の
恨みというものは幼いお前の手に
負えるものではない。お前の母はそれをよく知っているからこそ、お前を止めたのだろう』
言って、女神は
諭すように言葉を続けた。
『泊瀬彦よ。お前が真に母を思うのであれば、自分の身を
無為に危険に
晒すようなことはせず、
健やかな肉体をつくり、知恵を
磨き、お前の母を自らの手で守れるほどに強くなることだけを考えよ。お前に万一のことがあれば、何よりもお前の母を
嘆かせることになるのだからな』
泊瀬はそれまでとは別の意味で
呆然と女神を見つめ返した。姿形が美しいだけではない。これほどよく物を
識り、しかも優しさに
満ち
溢れた相手を、泊瀬は今まで自分の母以外に知らなかった。
『あなたは……一体……』
泊瀬にとって、それは生まれて初めて
覚えた感情だった。こんなにも相手の名を知りたいと思ったのは初めてだった。
瞬きする
間すら
惜しいほど、相手の姿を見つめ続けていたいと思ったのも……。
女神はそんな泊瀬の心を知ってか知らずか、
眩いほどの
笑みを浮かべて名乗りを上げた。
『
妾はミヅハノメ。ミヅハと呼ぶが良いぞ』
こうして、幼い
王子と国を守護する女神との夢の中での交流は始まった。
「初めのうち、俺はその夢をただの夢だと思っていた。だが、あの方はそれからも毎晩のように俺の夢に現れた。いや、
違うな。あの方が『現れた』のではなく、実際は俺の方が眠っている間に
魂だけの存在となり、あの方の元へ
通っていたらしい。何でも神の加護を受けた国の王の
血脈には、
時折そういう霊力を持った人間が生まれるらしい」
「泊瀬様は
霧狭司の王室の中でもとりわけ強い霊力を持ってお生まれになりましたから」
海石が
誇らしげな顔で説明を付け
加える。泊瀬は一瞬ひどく
煩わしげな顔になったが、すぐに気を取り直すように表情を改めた。
「とにかく、さすがに俺もおかしいと気づいた。いつも同じ場所、同じ方が出てくる夢など、普通の夢ではありえないからな。そのうちに俺は、あの方がこの国の
鎮守神であることを知った。……知ってしまった日は、なかなか眠りに
就くことができなかったな。あの方がふいに、手の届かないような遠くへ行ってしまったような気がして」
そう語る泊瀬の瞳は、ひどく悲しげな色をしていた。その心中を察してか、
花夜がちらりと俺の方を見てからつぶやく。
「神と人間とでは、立場も生きる
理も、あまりにも
違いますからね……」
「だがあの方はそれからも、神と人間との
隔たりなど無いかのように
気安く俺に接してくださった。宮殿の中しか知らなかった俺に世間の様々なことを教えてくださり、悲しい時には
一緒に泣いてくださった。その上、水を
統べる神であるあの方が俺に
親しく接してくださるおかげで、水に属する他の神々までが俺の
祈がいを聞き入れてくださるようになった。いつしか俺は水神に
寵愛された
王子と
噂されるようになっていった」
「けれど皮肉なことに、それゆえに泊瀬様は他の氏族から
疎まれるようになってしまったのです。宮殿をお出にならざるをえなくなったのも、元はと言えばそのことが原因なのですわ。
鎮守神様のご
寵愛篤き泊瀬様が次の代の国王になられることは当然の
成り
行きですのに、そのことを他の氏族の方々はどうしてもお認めにならないのです」
海石はそう言い、
物憂げにため息をついた。泊瀬はそのことには
触れず、話を続ける。
「あの方が閉じ込められているということに気づいたのは、俺が十一を過ぎてからだった。初めて
収穫祭の後の
宴に参加することを
許された俺は、はしゃいであの方に言ったんだ。『
宴の場でなら現実のあなたとお会いすることができますね』と。あの
頃の俺は、
鎮守神であれば国の大事な
祭礼や
宴には当然お出ましになるものと、何の
疑問もなく信じていたんだ。だがあの方は
寂しげに首を
振っておっしゃった。『いいや、それは
叶わぬ。祭礼や
宴の場では、
魂の
宿らぬ
神坐を
妾の代わりに祭るのだ。妾はここを出ることができぬからな』と。その時俺は初めて、あの夢の場所にあの方が
囚われていることを知った。あんな、暗く
湿った場所にお一人で……」
泊瀬は自分を
責めるかのように顔を
覆った。
「俺はすぐにあの方に言った。『俺があなたをここから出してさし上げる』と。だがあの方は悲しげに首を振るばかりで俺の言葉を受け入れてくださらなかった。それどころかあの方は『そのようなことを考えてはならない』『
妾のことは忘れ、人間として
穏やかに生きていって欲しい』などとおっしゃって、夢の中ですら会ってくださらなくなった」
泊瀬の声は悲痛な響きを
帯びていた。それは敬愛する女神に会えなくなったことを
嘆いているというより、まるで想い人に会えなくなったことを嘆いているかのような、切なく激しい熱情を感じさせるものだった。
「俺はあの方に再び会いたいと、毎日必死に
祈った。自分がそれまでどうやってあの方と会っていたのかなど分からなかったから、祈ることしかできなかった。そのうちに、不思議なことが起こるようになった。夢で会えない代わりに、日中、ふとした時にあの方の声が
聴こえるようになったんだ。それも、おひとりで嘆いているような声ばかりが、幻のように耳をかすめていくんだ。あの方はどうやら水を通して
宮処の様子を見守っていらっしゃるようで、水辺で悪事が行われるたびに、それにより傷ついた民のことを自分のことのように嘆かれ、お泣きになるんだ。だから俺は、あの方の
御心をわずかでも
安らげてさし上げたくて、宮処の
揉め事に首を突っ込むようになったんだ。俺にできるのは、もうそれくらいしかないから……」
それきり言葉を
詰まらせた泊瀬に代わるように、今度は海石が
八乙女として知り
得たことを語り始める。
「鎮守神様が封印されていることを知っているのは八乙女と国王だけです。鎮守神様はもう長い間、人間の前にお姿を
顕していらっしゃいませんから、そのことを
怪しむ人間もいるにはいるのですが、まさか封印されているなど誰も思いもしないのですわ」
「それはそうだろうな。神々の中でも
風火水土の神は別格だ。どんなに強き霊力を持っていたとしても、とても人間の
敵う相手とは思えん。一体その封印とはどうやって
成されたものなのだ?」
海石は静かに首を振る。
「分かりません。それはどの
文書にも
口伝にも残されていないことですので。けれど、何処に封印されているかなら存じておりますわ。八乙女は今でも月に一度、その場所へ参ります。結界に
綻びが生じていないことを確かめ、
鎮魂の儀により水神様をお
慰めするのです。もっとも、八乙女の長たる
魂依姫ですら鎮守神様に
見えたことはございませんので、本当に鎮守神様が御心を慰められておいでなのかどうかは知る
由もないのですが」
その時、それまで黙って話を聞いていた花夜がおそるおそる口を開いた。
「あの……そもそも何故、水神様が封印されているのですか?国を守るべき鎮守神を結界の内に封じ込めるなど、正気の
沙汰とも思えませんが」
「古き
文書には『大いなる
災いを防ぐため』だなどと、もっともらしくもあやふやな理由が語られております。けれど私にはその真の理由が容易に推測できますわ。霧狭司には鎮守神様より
授かりし『
祈道』と、神の霊力を秘めた数多くの
神宝がございます。それらがあれば鎮守神様の御力がなくとも霧狭司は充分に国を守っていけるのですわ。むしろ慈悲深く他国との戦を嫌われる鎮守神様の存在は、領土を求め戦を欲する方々にとっては邪魔だったのではないでしょうか」
「そんな……」
「神を神とも思えぬ
所業だな。霧狭司の国民はそこまで思い上がっていると言うのか」
「あくまでも私の憶測に過ぎません。けれど充分に有り得る話ですわ。霧狭司には己の地位のためならば平気で他人を
踏みつけにするような人間が山ほどおりますもの」
海石の言葉には妙に実感が
籠もっていた。まるでそうして踏みつけにされた人間のことを実際に見てきたかのような……。
「俺はどうしてもあの方を救い出したい。だが
射魔の氏族ですら、あの方が封じられていることを信じてはくれない。そもそも八乙女の結界に対抗しうる霊力など、誰も持ってはいないんだ。だから……」
泊瀬はそこで言葉を切り、真剣な
眼差しで俺と花夜を見た。
「霧狭司とは何の縁もないあなた方にこんなことを頼むのは
筋違いだし、ひどく勝手なことと承知している。それでも俺には他に方法が無いんだ。どうか、御力を貸してはいただけないだろうか」
その場に
膝をつきかねない勢いで泊瀬は
懇願してくる。花夜はそれをじっと見つめた後、小さな声で告げた。
「……少し、考えさせてはいただけませんか?」
俺はその返答に少なからず驚いた。花夜であれば二つ返事でうなずくものとばかり思っていたからだ。
「
構わない。そもそもが無理な
頼み事なんだ。考えてくれるだけでも
充分にありがたい」
「そうですわ。どうぞごゆっくりとお考えくださいませ。その間、
大刀神様と巫女様には我が家の客人として精一杯のおもてなしをさせていただきますわ」
花夜はその言葉にも、ただぎこちなくうなずくだけだった。