第八章 雨下の攻防


「俺があの方と初めてお会いしたのは、まだ物心もつくかつかないかほどの幼い頃のことだった。お会いしたその時にはまだ、あの方の正体にも気づかず、ただ夢のように美しい方だと見惚(みほ)れるばかりだった」
 泊瀬(はつせ)はぽつりぽつりと己の過去を語りだす。
「その夜、俺は(いめ)の中で泣いていたんだ。どんなに(くや)しいことがあっても、日中(ひなか)の人の目のある所では泣くことを許されなかったから、夜一人になってから栲衾(たくぶすま)の下で悔し泣きしていた。そうしてそのまま眠りについて、夢の中でも泣き続けていたんだ。それを、あの方が見つけてくださった」
 女神は、(ひざ)を抱えて泣いていた泊瀬に不思議そうに話しかけてきたと言う。
其所(そこ)人間(ヒト)の子、何故(なにゆえ)斯様(かよう)に泣いておる?(なれ)何処(いづこ)より此処(ここ)に迷い込んだのだ?』
 驚いて顔を上げた泊瀬の目に映ったのは、それまで宮殿(みかど)の中で美しく着飾った后や宮女(みやをみな)たちを嫌というほど目にしてきた泊瀬でさえ、言葉を忘れて見惚(みほ)れるような美しい(をみな)……(いな)、女神だった。
 (ほう)けた顔のまま問いかけに一切答えようとしない泊瀬を別段(とが)めることもせず、女神は(おの)が記憶を探るように無言で泊瀬の姿を見つめた後、得心(とくしん)がいったように(つぶや)いた。
『そうか、(なれ)射魔(いるま)(うぢ)より迎えられし(きさき)波限(なぎさ)の子だな。名は確か泊瀬彦(はつせひこ)と言ったか。なるほど霧狭司(むさし)親王(みこ)なれば、こうして(わたくし)の元を(おとず)れたとて不思議はあるまい』
『え!?なぜ、俺や母さまの名を……!?』
 見ず知らずの相手に突然名を言い当てられ、思わず驚いた声で問うと、女神は淡く微笑んだ。
『霧狭司の王室(きみのみや)(つら)なる者の顔は全て知っている。(わたくし)はずっと霧狭司を見守ってきたのだからな』
 言って、女神はそのほっそりとした指でそっと泊瀬の(なみだ)(ぬぐ)った。そうして()れた指先をしげしげと(なが)め、(いとお)しげに(まなこ)を細めた。
『そうか。この泪は(なれ)自身のためでなく、()が母のために(うま)れたものなのだな。……優しい小子(わらわ)だ。(なれ)の母は、随分と(つら)い目に()うているようだの』
 未だ何も話していないにも関わらず、女神は泊瀬の泪の(わけ)を言い当ててみせた。だがその時の泊瀬にはそれを不思議に思うよりも、己の悔しさを誰かに知ってもらいたいという思いの方が(まさ)っていた。
『……うん。皆が、母さまにひどいことをするんだ。(くし)(はこ)に虫を入れたり、母さまの通る道をわざと汚して通れなくしたり……そうして母さまが驚いたり困ったりなさっているのを陰で見て嘲笑(わら)っているんだ』
 国王(くにぎみ)の三人目の(きさき)として宮殿(みかど)に上がった泊瀬の母は、葦立(あだち)(うぢ)の出の正妃(むかいめ)から陰湿(いんしつ)な嫌がらせを受けていた。泊瀬は心から慕う母のその窮状(きゅうじょう)が、どうしても許せなかった。
『あれは絶対に大后(おおきさき)様のお指図(さしづ)に違いないんだ。だから俺は大后様に同じようなことをして仕返ししようと思ったんだ。でも、母さまがいけないって(おっしゃ)るんだ。耐えなければいけないって、俺を(しか)るんだ……』
 女神は(もく)して泊瀬の話を聞いた(のち)、やんわりと告げた。
(なれ)の思いは、(わたくし)にも分かる。だが、やはり仕返しなどすべきではない』
『どうして!?』
 女神の言葉に到底納得がいかず、泊瀬の語気は(おの)ずから荒くなった。
(なれ)が未だ幼きゆえに、だ』
 険しい目で()めつけてくる泊瀬を、女神は慈愛に満ちた瞳で見つめ返した。
(なれ)にはまだ分からぬかも知れぬが、罪人(つみびと)に罰を下したからと言って、その者が心改めるとは限らぬ。罰を下した者が(さかしま)に恨まれて、さらなる仕返しをされる恐れさえあるのだ。特に女の恨みというものは幼き(なれ)の手に負えるものではない。()が母はそれをよく知るがゆえに、(なれ)を止めたのだろう』
 言って、女神は諭すように言葉を続けた。
『泊瀬彦よ。(なれ)(まこと)、母を思うのであれば、(おの)が身をいたづらに危険に晒すようなことはせず、健やかな肉体(からだ)をつくり、知恵を磨き、()が母を己が手で守れるほどに強くなることのみを考えよ。(なれ)に万一のことあらば、何よりも()が母を嘆かせることとなるのだからな』
 泊瀬はそれまでとは別の意味で呆然と女神を見つめ返した。姿形が美しいだけではない。これほどよく物を()り、かつ優しさに満ち(あふ)れた相手を、泊瀬は今まで己の母以外に知らなかった。
『あなたは……一体……』
 泊瀬にとって、それは生まれて初めて覚えた感情だった。こんなにも相手の名を知りたいと思ったのは初めてだった。(またた)きする間すら惜しいほど、相手の姿を見つめ続けていたいと思ったのも……。
 女神はそんな泊瀬の心を知ってか知らずか、(まばゆ)いほどの笑みを浮かべて名乗りを上げた。
(わたくし)はミヅハノメ。ミヅハと呼ぶが良いぞ』
 こうして、幼い親王(みこ)と国を守護する女神との夢の中での交流は始まった。
「初めのうち、俺はその夢をただの夢だと思っていた。だが、あの方はそれからも毎夜の(ごと)く俺の夢に現れた。いや、違うな。あの方が『現れた』のではなく、実のところは俺の方が眠りのうちに(たましい)だけの存在となり、あの方の元へ通っていたらしい。何でも神の加護を受けた国の王の血脈(ちのみち)には、時折そういう霊力(ちから)を持った人間が生まれるらしい」
「泊瀬様は霧狭司の王室(きみのみや)の中でもとりわけ強い御霊力(ちから)を持ってお生まれになりましたから」
 海石(いくり)が誇らしげな顔で説明を加える。泊瀬は一瞬ひどく(わずら)わしげな顔になったが、すぐに気を取り直すように表情を改めた。
「とにかく、さすがに俺もおかしいと気づいた。いつも同じ所、同じ方が出てくる夢など、ただの夢ではありえないからな。そのうちに俺は、あの方がこの国の鎮守神(ちんじゅがみ)であることを知った。……知ってしまった日は、なかなか眠りに就くことができなかったな。あの方がふいに、手の届かないような遠くへ行ってしまったような気がして」
 そう語る泊瀬の瞳は、ひどく悲しげな色をしていた。その胸の内を察してか、花夜(かや)がちらりと俺の方を見てから(つぶや)く。
「神と人間(ヒト)とでは、立場も生きる(ことわり)も、あまりにも違いますからね……」
「だがあの方はそれからも、神と人間(ヒト)との(へだ)たりなど無いかのように気安く俺に接してくださった。宮殿(みかど)の中しか知らなかった俺に世間(よのなか)の様々なことを教えてくださり、悲しい時には共に泣いてくださった。その上、水を()べる神であるあの方が俺に親しく接してくださるおかげで、水に属する他の神々までが俺の()がいを聞き入れてくださるようになった。いつしか俺は水神に寵愛(ちょうあい)された親王(みこ)と噂されるようになっていった」
「けれど皮肉なことに、それゆえに泊瀬様は他の氏族から(うと)まれるようになってしまったのです。宮殿(みかど)をお出にならざるをえなくなったのも、元はと言えばそのことが原因なのですわ。鎮守神(ちんじゅがみ)様のご寵愛(あつ)き泊瀬様が次の()国王(くにぎみ)になられることは当然の成り行きですのに、そのことを他の氏族の方々はどうしてもお認めにならないのです」
 海石はそう言い、物憂(ものう)げに()め息をついた。泊瀬はそのことには触れず、話を続ける。
「あの方が封じ込められているということに気づいたのは、俺が十一(とおあまりひとつ)を過ぎてからだった。初めて豊明節会(とよのあかりのせちえ)に加わることを許された俺は、はしゃいであの方に言ったんだ。『(うたげ)の場でなら(うつつ)のあなたと(まみ)えることができますね』と。あの頃の俺は、鎮守神(ちんじゅがみ)であれば国の大事な祭祀事(マツリゴト)(うたげ)には当然お出ましになるものと、何の疑いもなく信じていたんだ。だがあの方は寂しげに首を振って(おっしゃ)った。『いいや、それは叶わぬ。祭祀(マツリ)や宴の場では、(たましい)の宿らぬ神坐(カミクラ)(わたくし)()わりに祭祀(まつ)るのだ。妾はここを出ることができぬゆえ、な』と。その時俺は初めて、あの夢の場所にあの方が囚われていることを知った。あのような、暗く湿った場所にお一人で……」
 泊瀬は己を責めるかのように顔を覆った。
「俺はすぐにあの方に言った。『俺があなたをここから出して差し上げる』と。だがあの方は悲しげに首を振るばかりで俺の言葉を受け入れてくださらなかった。それどころかあの方は『そのようなことを考えてはならない』『(わたくし)のことは忘れ、人間(ヒト)として穏やかに生きていって欲しい』などと(おっしゃ)って、夢の中ですら会ってくださらなくなった」
 泊瀬の声は悲痛な響きを()びていた。それは敬愛する女神に会えなくなったことを嘆いているというより、まるで想い人に会えなくなったことを嘆いているかのような、切なく激しい熱情を感じさせるものだった。
「俺はあの方に再び会いたいと、毎日必死に祈った。自分がそれまでどうやってあの方と会っていたのかなど分からなかったから、祈ることしかできなかった。そのうちに、不思議なことが起こるようになった。夢で会えない代わりに、日中(ひなか)のふとした時にあの方の声が聴こえるようになったんだ。それも、おひとりで嘆いているような声ばかりが、幻のように耳をかすめていくんだ。あの方はどうやら水を通して宮処(みやこ)の有様を見守っていらっしゃるようで、水辺(みづべ)で悪事が行われるたびに、それにより傷ついた民のことを(おの)がことのように嘆かれ、お泣きになるんだ。だから俺は、あの方の御心(みこころ)をわずかでも安らげて差し上げたくて、宮処の()め事に首を突っ込むようになったんだ。俺にできるのは、もうそれくらいしかないから……」
 それきり言葉を()まらせた泊瀬に代わるように、今度は海石が八乙女(やをとめ)として知り得たことを語り始める。
「鎮守神様が封印されていることを知っているのは八乙女と国王(くにぎみ)だけです。鎮守神様はもう久しく人間(ヒト)の前にお姿を(あらわ)していらっしゃいませんから、そのことを(あや)しがる人間(ヒト)もいるにはいるのですが、まさか封印されているなど誰も思いもしないのですわ」
「それはそうであろうな。神々の中でも風火水土(ふうかすいど)の神は別格だ。いかに強き霊力(ちから)を持っていたとて、とても人間(ヒト)(かな)う相手とは思えぬ。一体その封印とは如何(いか)にして()されたものなのだ?」
 海石(いくり)は静かに首を振る。
「分かりません。それはどの文書(もんじょ)にも口伝(くでん)にも残されていないことですので。けれど、何処(いづこ)に封印されているかなら存じておりますわ。八乙女は今でも月に一度(ひとたび)、その場所へ参ります。結界に(ほころ)びが(うま)れていないことを確かめ、鎮魂(タマシヅメ)(ワザ)により鎮守神様をお(なぐさ)めするのです。もっとも、八乙女の(おさ)たる魂依姫(タマヨリヒメ)ですら鎮守神様に(まみ)えたことはございませんので、本当に鎮守神様が御心を慰められておいでなのかどうかは知る(よし)もないのですが」
 その時、それまで黙って話を聞いていた花夜がおそるおそる口を開いた。
「あの……そもそも何故(なにゆえ)水神(みづがみ)様が封印されているのですか?国を守るべき鎮守神を結界の内に封じ込めるなど、正気の沙汰(さた)とも思えませんが」
「古き文書(もんじょ)には『大いなる(わざわ)いを防ぐため』だなどと、(もっと)もらしくもあやふやな(わけ)が語られております。けれど私にはその(まこと)の訳が容易(たやす)()(はか)れますわ。霧狭司には鎮守神様より(さず)かりし『祈道(キドウ)』と、神の御霊力(ちから)を秘めた数多(あまた)神宝(かむだから)がございます。それらがあれば鎮守神様の御力がなくとも霧狭司は充分に国を守っていけるのですわ。むしろ慈悲深く他国(あたしくに)との(いくさ)(いと)われる鎮守神様の存在は、領土を求め戦を欲する方々にとっては邪魔だったのではないでしょうか」
「そんな……」
「神を神とも思えぬ所業(しょぎょう)だな。霧狭司の国人(くにひと)はそこまで思い上がっていると言うのか」
「あくまでも私の当て推量に過ぎません。けれど充分に有り得る話ですわ。霧狭司には己が(くらい)のためならば平気で他人(ひと)()みつけにするような国人が山ほどおりますもの」
 海石の言葉には妙に実感が()もっていた。まるでそうして踏みつけにされた人間のことを実際に目にしてきたかのような……。
「俺はどうしてもあの方を救い出したい。だが射魔(いるま)の氏族ですら、あの方が封じられていることを信じてはくれない。そもそも八乙女の結界に対抗しうる霊力(ちから)など、誰も持ってはいないんだ。だから……」
 泊瀬はそこで言葉を切り、真剣な眼差(まなざ)しで俺と花夜を見た。
「霧狭司とは何の(ゆかり)もないあなた方にこんなことを頼むのは筋違(すぢちが)いだし、ひどく勝手なことと承知している。それでも俺には他に(すべ)が無いんだ。どうか、御力を貸してはいただけないだろうか」
 その場に(ひざ)をつきかねない勢いで泊瀬は悃願(こんがん)してくる。花夜はそれをじっと見つめた後、小さな声で告げた。
「……少し、考えさせてはいただけませんか?」
 俺はその返答に少なからず驚いた。花夜であれば二つ返事で(うなづ)くものとばかり思っていたからだ。
(かま)わない。そもそもが無理な(たの)み事なのだ。考えてくれるだけでも充分(じゅうぶん)有難(ありがた)い」
「そうですわ。どうぞごゆっくりとお考えくださいませ。その間、大刀神(たちがみ)様と巫女様には我が(いえ)客人(まれびと)として精一杯のおもてなしをさせていただきますわ」
 花夜はその言葉にも、ただぎこちなく(うなづ)くだけだった。

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