『
水響む霧狭司国』は、国を南北に貫く『
霊河』と、北の
国境に
沿って流れる『
響音河』の二つの大河がもたらす恵みにより、長きに渡り栄えてきた水の国だ。
霊河沿いに築かれたその
宮処は『
霊河の宮処』と呼ばれ、その中心に
在る水神を
祭祀る
神宮は『
霊河の
大宮』と呼ばれている。
俺達は
峻流河国の
水門から岸
伝いに北上した
後、
霧狭司国の
水門で舟を乗り
換え、
霊河を上ってようやく宮処に
辿り着いた。
「……ここが、
霧狭司国の
宮処……。今まで見てきた国々とはまるで違います。まるで、
外つ国にでも来てしまったような……」
花夜は
呆然とそう
呟いたきり、言葉を失ってしまった。
宮処は
大垣と呼ばれる長く巨大な壁に
四方をすっぽりと囲まれていた。
宮処の
真中を通る
大路は、その長さ、
石敷きの美しさも
然ることながら、道の両脇に
溝が掘られ
雨水を流しやる働きまで備えている。道沿いには美しく整えられた柳や
橘、
槐の並木が
爽爽と風に揺れ、その向こうに見える家々の
塀には
白土が
塗られ、
琉璃の瓦が
艶艶と日の光を浴びて
碧色に輝いていた。行き
交う人々の
衣もみな
鮮やかで、宮処は
眩しいくらいに色彩に満ち
溢れていた。
「高位の神が守護する国とは、ここまで華やかに栄えるものなのだな」
俺も思わず
唸るように
呟いた。
悔しいが、宮処の有様を見るだけでも霧狭司国が他の国々とは比べものにならぬ
国力を有していることは歴然としている。
「
父さまが戦わずして霧狭司に屈した
理由が分かる気が
致します。並の国では到底この国に太刀打ちすることなど叶わないでしょうね」
「そうだな……」
頷きかけた俺の目に、すれ違う人が花夜のことを妙なものでも見るような目で見ていくのが映った。俺は
咳払いを一つして花夜に注意を促す。
「ところで花夜、宮処にいるうちは
無闇に俺に話しかけるな。
俗人には俺の姿は見えていないのだぞ」
「ああ、そうでした。けれど、不便なものですね。共にいても話しかけられないなどとは」
「そもそも、人前に姿を
顕すなと言ったのはお前の方であろう」
「それは、ヤト様が目立ち過ぎる
為です。ヤト様は
人間に化けていらしても妙に目立ってしまわれるのですもの」
花夜のような年頃の
少女が一人で旅をしているのは目立つ。だから俺が
俗人にも見えるよう姿を
顕し、神だと悟られぬよう髪や
眼の色を変えて共に旅をしていた
時期もあった。だが、いくら姿を変えたとて、俺がただの
人間でないことはすぐに
露となってしまう。だから結局は、こうして姿を
幽して旅をする今の形に落ち着いたのだった。
「ヤト様が今少し
人間らしく
振る
舞ってくだされば、周りから奇異の目で見られることも無くなると思うのですが……」
花夜が困ったように
微笑って言う。
「悪いがそれは無理な話だな。俺には
人間の振りはできん。振りを演じようにも、俺には
其処等にいる物知らずで愚かで物の道理も分からぬ
人間の子が
常日頃何を思って生きているのかなど、まるで見当がつかぬのだからな」
「……また、そのようなことを
仰せになって……」
花夜はやれやれとでも言いたげに
溜め息をつく。だがその
眼は
微笑ったままだった。
「では、しばらく私はヤト様に話しかけないことに致しますね。ですのでヤト様も
無闇に私に話しかけないでください。うっかり言葉を返してしまうといけませんので」
「ああ。……花夜、分かっているとは思うが、
神宮と
国王の
宮にはくれぐれも近づくでないぞ。高き
霊力を持つ
巫と会ってしまえば、俺の正体を見破られてしまう。もっとも、そのような身分高き巫が
御殿を出て辺りをうろついているとは思えぬがな」
「心配御無用です。
危うい所には近づきません。とりあえずはいつものように
市へ行ってみますね」
宮処には東と西に一つずつ
市が設けられている。
午の正刻、
太鼓の合図と共に門が
開くと、市にはどっと人が流れ込む。市に店を構える
市人に、諸国を旅する
商人、広場で見せ物をする大道芸人まで、通りには人の活気が満ち溢れていく。
「さて、と。参りますか」
花夜は荷の内から鈴や
珠、
比礼などの装身具を取り出すと、手早く手首や足首に巻きつけた。髪に花を
飾り、
衣裳をきれいに整えると、花夜は広場の中心に進み出て
舞を舞い始めた。
それは花夜が巫女として習い覚えてきた
古の
祭祀の
踊りを、
見世物として楽しめるよう見映え良く編み直した独自の舞だった。
音を
奏でるものは花夜が見につけた鈴と珠、そして花夜自身が刻む足音と
衣擦れの音のみ。それはあまりに素朴で簡素な、しかしどこか
懐かしく、見る者の心を昂揚させる
楽の
音だった。そしてその音に合わせ、花夜が手に持った
比礼を優美に振り動かす。
蝶の
羽ばたきのように
軽やかに、あるいはそよ風に
揺れる一輪の花のようにゆるやかに。
市を行き
交う人々が、一人、また一人と足を止めて花夜の舞に見入っていく。やがてそこには
人垣ができ、少しずつ
喝采が広がっていった。
他国へ初めて足を踏み入れる時、俺たちは
先ずこうしてその国の広場で大道芸の真似事をするのが常だった。戦乱の世にあって、国々の中には
余所者への警戒心が強いところも多い。そうした場所へ
怪しまれることなく
紛れ
込むには、こうするのが一番良いと旅の中で悟ったからだ。こうして舞を
披露すれば、
幾許かの路銀を
稼ぐこともできるし、もう一つ、利点がある。
「あんた、どこから来たの?見たことのない舞だったけど、すっごく
綺麗だったわぁ」
花夜が舞を終え一休みしていると、先ほど人垣から花夜の舞を眺めていた
婦女が話しかけてきた。
「ありがとうございます。実は私、
古里を
戦で
失くしてしまいまして、旅をしながら生きてきましたので、どこから来たというわけでもないのですけど……」
「あらまぁ、それはお気の毒に……。こんな世の中だものねぇ……。この国だっていつ何が起こることか……」
花夜が簡単に身の上を説明すると、婦女の目はあからさまに同情を
帯びる。これも常のことだった。
珍しいもの、美しいものを
披露すれば、それは話の種となり
他人との会話を生み出しやすい。その上そこで花夜の身の上を語れば、相手の
憐れみを
誘い、警戒心を
解く助けともなるのだ。
「あの……この国にもやはり、戦の
兆などあるのでしょうか?今はとても平穏に栄えているように見えますが……」
憐れみの中にもどこか不穏さを宿した婦女の声音におそるおそる花夜が問うと、婦女は苦く
微笑んだ。
「兆なんて大層なもんは無いさ。でもいつ起こっても不思議ではないね。
宮殿に
坐す方々は何かにつけて戦をしたがるから。戦で
手柄を立てればそれだけ自分達の
位が上がるからねぇ」
「……そんな。自らの位のために
他国に戦を
仕掛けるのですか?」
花夜が『信じられない』と言いたげに目を見開く。
「他国だけじゃないさ。
内輪でも相当にもめてるって話だよ。何でも
去年の春に
前の
魂依姫と、その
後継と目されていた八乙女の御一人が相次いで亡くなられたのも、敵対する氏族の
謀だと
専らの噂だしね。全く、嫌な世の中だよ」
「え?
魂依姫って、八乙女の
長――すなわち、この国で最も位の高い巫女ですよね?そのような方が殺されたのですか?」
花夜が信じられないという顔で問う。
「ああ。罰当たりにもほどがあるけどねぇ。氏族の方々にとっては
魂依姫も八乙女も、己の
権力をより高めるための道具でしかないのさ。自分の氏族の姫君を次々と
神宮に送り込んでは位を競わせているのだから。宮にいらっしゃる方々は、もうとても真っ当な考えを持ってはいらっしゃらないんだ。この国でまともな方は、今やもうハツセノミコ様くらいのものだよ」
「ハツセノミコ様?」
「ああ、あんたはよそから来たから知らないんだね。ハツセノミコ様は
水神様の
御寵愛深きミコ様だよ。とても強い
霊力をお持ちで、ご身分も高くていらっしゃるのに、気さくに
巷を出歩かれて、私らみたいな者にまでお声を掛けてくださるんだ」
「ミコ!?ミコとはまさか、巫女のことか!?
巷をふらふら出歩くような巫女がこの国にはいるのか!?」
思わず、
婦女には聞こえないと知りつつ叫ぶと、横で花夜も
焦ったように表情を
硬くする。
「……本当にいらっしゃるのですね、そのようなミコ様が。それで、その方はどういった時にここへいらっしゃるのですか?」
「さぁねぇ。あの方はとても気まぐれでいらっしゃるから。いつ来るかは分からないよ」
「……そうですか」
花夜は婦女との会話を
程好く切り上げると、手早く荷を
纏め門の方へ向け歩き出した。
「……
不味いですね」
強張った顔のまま
囁く花夜に、俺も苦い顔で
頷く。
「ああ。
不味いな。広い宮処の中、そのようないつ現れるとも知れぬミコと出くわす可能性は低いやも知れぬが、万が一つにも出くわしてしまえば
終いだ。……花夜、
一先ず人目のつかぬ所へ身を
潜めろ」
「え?
何故ですか?身を潜めたところで、
霊力の強い巫であれば神の
気配などすぐに
気取ってしまうものと思われますが……」
きょとんとした顔で問う花夜に、俺は首を横に振って説明を加える。
「そういうことではない。万が一見つけられた時に備えて
大刀に
変化しておくのだ。『神を連れた巫女』よりは、『神の宿る大刀を
偶に手にした
俗人』としておいた方がもしやの時も少しは
言い
訳が立つやも知れぬ」
「……確かに。神そのものを連れていたのでは、
俗人だなどと言い
逃れの仕様がありませんからね」
花夜は
得心がいったというように
頷き、そのまま
物陰へと身を
潜めた。
「ヤト様、大丈夫ですか?
窮屈ではありませんか?」
物陰に
隠れて
大刀に変化した俺は、目立たぬよう
比礼で
神体を
幾重にも巻かれ、花夜の
腕に
抱えられながら川沿いの道を進んでいた。
『ああ。大丈夫だ。それよりも花夜、
慎重に行くのだぞ。早く宮処を出るに越したことは無いが、決して
駆けたりはするな。大通りを避けているとは言え、ここも人目が無いわけではない。おかしな動きをすれば怪しまれるし、必要の無いうちに走って疲労してしまうと、いざと言う時に逃げられぬからな』
神体としての
大刀は布に全身を覆われていたが、俺は神としての眼力を使い、常に
辺りに目を光らせていた。
市の
端を流れる川には、今も
沢山の荷を積み込んだ舟が
忙しなく
往来していた。自然の川のように蛇行せず、どこまでも真っ直ぐに整備されたこの川は、市へ荷を運びやすくするために
霊河の水を引き込んで
造られた
堀川なのだ。
「はい。分かっています。逃げているなどとは思われぬような足取りで、けれどでき
得る限り速く行けば良いのですね」
花夜は言葉通り、
常と変わらぬ足取りで、しかしいつもよりほんのわずかに足を速めて門への道を目指していく。
その足運びは自然そのもので、とても何かから逃げようとしている人間のものには見えなかった。当然のことながら、特に誰かから
見咎められええることも声をかけられることもなく、そのまま
無事に門へ
辿り着くかと思われた、のだが……。
「きゃっ!?」
唐突に、俺の身に衝撃が走った。
花夜が悲鳴を上げ、その場に腰をつく。何が起きたのか理解できない呆然とした表情の後、花夜は蒼白な顔で叫びを上げた。
「
物盗りです!誰か!あの人を
捕まえて下さい!」
俺を奪い逃げているのは薄汚れた
衣に身を包んだ一人の男だった。この
時代、人を襲い物を奪う
輩は珍しくはなかったが、まさか宮処で、しかもこのような昼日中から襲ってくる人間がいるとはさすがに思いもしなかった。
花夜の叫びに道を行く人々の目が集まる中、男は俺の身を川に浮かぶ舟の一つへと投げる。舟の上にいた仲間らしき男が器用に俺を受け止め、別の男が
素早く
櫂を取り舟を
漕ぎ出した。初めに花夜から俺を奪い取った男も、走ってきた勢いそのままに岸辺を
蹴り舟に飛び乗る。そのまま男達は手にした武器で周りの舟を
威嚇しながら水の上を悠々と
駆けていく。
「上手くいったな。ここまで来ればもう大丈夫だろう」
「で、モノは何なんだ?
身形の良い
女子が大事そうに抱えていたのだから、相当な値打ち物だろう」
男達は逃げ切れると確信しきったように、ゆるんだ表情で俺を包む
比礼を解く。その顔が次の瞬間、
感嘆したように呆けた。
「これは……、思っていた以上だ。何と美しい
大刀なんだ。これは相当な
匠が作ったに
違いないぞ」
「見てみろよ、この豪華な
大刀拵え。
黒漆に
金に
紅琉璃……。これはかなり高く売れるぜ」
男達の
昂奮した声を聞きながら、俺はしばし悩んだ。
相手は
盗人とは言え、何の
霊力も持たぬただの
人間だ。
霊力を使えば逃れることなど
容易い。だがそのようなことをすれば、俺達の存在が知られたくない相手――
霧狭司の
巫にもすぐに知れてしまうだろう。
深く
思案を
巡らせていたその時、俺の眼力が遥か後方で必死に俺を追ってくる花夜の姿を
捉えた。
「待……っ、ヤト様……っ」
花夜は川沿いの道を息も絶え絶えに走ってくる。
髪はほつれ、
衣裳は乱れ、顔にも首筋にも滝の汗が流れている。そしてその
眦にはうっすらと
泪が浮かんでいた。その姿を、道行く人々が驚いたような目で見つめている。
その姿を視た
刹那、俺の頭からは
躊躇いも後先への
憂いも、何もかもが吹き飛んでいた。
(貴様ら……俺の巫女をああまでも苦しませてただで済むと思うな)
花夜にあのような
惨めな姿を
晒させたこの男達を許しておけない、
一時も早く花夜の元に行って、倒れそうなその身を支えてやりたい――その時の俺の頭には、ただそれしか浮かばなかった。
俺はそのまま、衝動の
赴くままに霊力を振るおうとした。神体がうっすらと光を帯び、男達を打ちのめすための火の霊力が身の内に
膨れ上がっていく。
だが、その霊力が神体から解き放たれようとする寸前、辺りにふいに、
凛と
澄んだ声が響き渡った。
「
市を
流るる
堀川の、その源たる聖なる河よ――
其に宿りし女神・
霊河比売尊よ。霧狭司国が
鎮守神・
水波女神に
縁ある神よ。
泊瀬の名において
祈がう。
疾く来たりて
悪しき
盗人を乗せたる舟を
捕らえ
給え」
その声に俺は
戦慄した。
(これは……
言霊。
霊力を秘めた
祈言だ)
直後、その声に
応えるように舟の行く手でぶわりと
川面が盛り上がった。それは見る
間にある形を
成していく。
それは、二つの
腕だった。
水面から突き出したあまりに大きな、しかし同時にあまりにも優美な女の腕。
男達は悲鳴を上げ、舟の上を右往左往する。水で形作られた二つの腕は、舟の
両端をがしりと
掴むと、そのままある方向へと運び始めた。その行く手、波打つ川の
水の上に、先ほどの声の主らしき人物が身を
傾がせることもなく真っ直ぐに
立っている。
「まったく、騒ぎを聞きつけて駆けつけてみれば……。白昼堂々、か弱き
少女から物を盗むとはな。その上、舟で追っ手の届かぬ所へ逃げるとは。お前達、その知恵を今少し違うことに使ったらどうだ」
腕組みをして待ち
構えていたその人物は、厳しい眼差しで男達を
糾弾する。男達はその姿を見て顔色を失った。
「み、水の上に立ってる!?」
「
言霊だけで水を
操る、水に愛されし者……。まさか、ハツセノミコ様!?どうしてこんな所に!?」
男達の悲鳴じみた声に、
彼はふっと唇の端を持ち上げた。
「どうしても何も、水辺で悪事を働けば、それは全て
水神様の知るところとなるに決まっているだろう。
宮処で悪事を
犯して許されると思うな。水神様は全てを
御覧になっていらっしゃるのだからな」
彼は断罪するようにそう言い放つと、
川面に向かい何事か小さく
呟く。すると水の
腕が再び動き出し、男達を乗せた舟を岸へと押しやり始めた。
彼はさらに
二言三言囁く。すると今度は彼の足下に
白波が立ち、そのまま彼を乗せて舟の後を追うように動きだした。
俺は
慄然としたまま、眼力で彼を観察する。
ハツセノミコと呼ばれたその人物は、年の
頃十四、五ほどの
男童だった。高貴な身分らしく、身につけた
衣褌は相当に上等な絹で織ら上げれている。しかし彼はそれを
襷と
紐でたくし上げ、ひどく乱雑に
着崩していた。
(これが、ハツセノミコだと?どう見ても女ではない。
巫女でないのに
ミコとは…………。まさか……)
「さすがミコ様!よくやって下さった!」
「ハツセノミコ様ーっ!御立派ですーっ!」
周りの人垣からわっと歓声が上がる。彼は岸辺に降り立つと、慣れた様子で人々に手を振る。駆けつけてきた兵士に
盗人達を引き渡した後、彼は舟の上に転がる俺の
神体を拾い上げた。
途端、その眉が
怪訝そうにひそめられる。
「ん……?これは……。まさか……」
やはり、見破られてしまうのか、と俺は胸の内で苦く思う。相手は
祈がいを口にしただけで神の助力を得られるような人物だ。並の霊力の持ち主ではない。
「あの……っ、その
大刀を、返して
頂けませんか?」
その時、やっと追いついた花夜が息を切らしたまま
男童に声を掛けた。彼は振り返り、不思議そうに花夜を
眺る。
「あんた、何者だ?どうしてこの
大刀を持っている?」
「あの、どういうことでしょう?ご質問の意味が分かりかねますが……」
花夜は何とか
誤魔化そうとするが、その声は動揺のためか明らかにぎこちなく震えていた。そんな花夜の耳元に顔を寄せ、彼はひそめた声で告げる。
「あんた、
他国の巫女じゃないのか?そしてこの
大刀には神が宿っている。違うか?」
「え、いえ。私はそのような大層な者では……。それにその
大刀についても、何も知りませんが……」
顔面を蒼白にしてしどろもどろに言い
繕おうとする花夜を見つめ、少年は苦笑した。
「
誤魔化さなくていい。あんた達が何者であろうと、害を加える気はない。だがまぁ、ここでは人目を集め過ぎたからな。共に来てくれ。落ち着ける場所で話をしよう」
その声は、俺が霧狭司という国に
抱いていた印象とはほど遠く、思いがけず優しいものだった。
「あの……どこまで行くのですか?まさか、
国王の宮へ行こうとしているわけではありませんよね?」
不安に駆られたように花夜が問う。
宮処は
幾つもの区画に分かれており、
各々の区画は壁と門とで
隔てられている。門には
衛士が
詰めており、本来であれば門ごとに定められた
手形を見せねば通してもらえぬはずであった。なのに、
男童は顔を見せ簡単な名乗りをしただけで、次々と門を通り抜けていく。門を一つ抜けるたびに広く豪華になっていく周りの建物に、俺も言い知れぬ不安を覚えていた。
「さすがにそんな所へは連れて行かないさ。これから行くのは俺が今、
居候をさせてもらっている
宅だ」
そう言って彼が
案内したのは、
国王の宮にほど近い、
一目見ただけで
貴人の
宅と分かる広大な
館だった。
玉石を敷きつめた庭園には
蓮の浮かぶ池が広がり、
丹塗りの
唐橋が美しい曲線を描いて
架け渡されている。
「この池は元々ここにあった
水沼を利用して造られたんだ。このような水沼が多く
在った所だから、この辺りは
水沼原と呼ばれている」
呆然と庭に見入る花夜に
男童が説明する。
「あの……それよりも、ここはどなたの
御屋戸なのですか?あなたは一体……」
「ああ、悪かった。まだ何も言っていなかったな。ここは霧狭司を治める二十二氏族が一つ、
射魔氏の
宅だ。そして俺は……」
その先の言葉は、激しい足音と
甲高い
少女の声によって掻き消された。
「
泊瀬様!また
黙って
屋戸を抜け出されましたね!?」
「……しまった。見つかってしまったか」
「
幾度申し上げればお分かりになって
頂けるのですか!?あなたはこの国にとって、
掛替えのない御方……」
駆け込んできた
少女は、花夜と、その
腕に抱えられた俺の姿に気づき、はっと口を
噤む。
「……
海石姫。
客人の前だ。小言は後にしてもらえないか?」
おそらくこの
宅の姫であろうその
少女は、年の
頃十七、八。色鮮やかに染め上げられた
衣の上に
極彩色の
背子を重ね、高く
結い上げた髪に
象牙の
花簪を
挿していた。
彼女は食い入るように花夜とその
腕に抱かれた俺を見つめた後、深々と
頭を
垂れた。
「これは失礼
致しました。私は
射魔海石と申します。ハツセノミコ様にお
仕えする
宮女ですわ。ようこそ我が
屋戸へいらせられました。
大刀に宿る神様、そしてその巫女様」
一目で正体を見破られた花夜は驚きに目を見開き、思わずというように
呟きを
漏らす。
「え……?どうして、私達の正体を……」
「
海石姫は元八乙女だからな。それくらいのことは分かるさ」
「元八乙女!?それに、さっき、ハツセノミコと
仰っていましたよね?ミコとはもしかして……」
「ああ。俺は
親王。霧狭司の
国王の
御子だ。だが
今更畏まる必要はないぞ。
宮殿へ上がれば
親王も
内親王もうじゃうじゃいる。べつに珍しい
存在でも何でもないからな」
「……
親王様なのに、
供も連れずに一人で
市を歩いていらっしゃったのですか?」
花夜が何とも言えない顔で
泊瀬を見やると、
海石は大きく
頷き、これ見よがしに
溜め息をついた。
「そうなのです。
幾度申し上げても分かって
頂けなくて……。大宮や他の
親王様方から御命を狙われる
危うい御立場だというのに……」
「命を狙われるとは、
穏やかではないな」
俺は大刀から人の姿へ戻り、問うように
海石の
眼を見る。海石は驚いたように目を
瞠った後、すぐに気を取り直して再び口を
開いた。
「はい。あなた様も、
市にいらしたのであればお気づきになられたでしょう。
泊瀬様は
宮処人達に大変評判の高い
親王様です。それを
脅威に思っていらっしゃる方々が少なからずいるということですわ。周りは
敵ばかり。宮中にいらっしゃっては御命が
幾つあっても足りません。ですので泊瀬様の御母君は、様々な名目を付けて泊瀬様を御実家であるこの
射魔の
宅にお預けになったのです」
「とは言え、次の
代の
国王たる
王太子は、もう俺の
異腹の兄に決まっているんだがな。何で皆、いつまでも俺なんかに
構うんだか」
「それは、あなた様ほど次の
代の
国王にふさわしい
親王はいらっしゃらないと、誰もが知っているからですわ。今の
王太子たる
雲梯様など、どう考えても
国王に
相応しい御方ではありませんもの」
「……それはどうだろうな。あの方は確かに変わり者だが、あれで結構頭の切れる
方だと思うぞ」
「どんなに頭がよろしくても、それを遊びにばかり
費やすようではどの道、
国王の器などではありませんわ。後ろ盾たる
葦立氏の権力を笠に着て、やりたい放題の散財し放題ではありませんの。あの方はこの国のことなど少しも考えてはいらっしゃらないのですわ。やはり、
国王にはこの国のことを真剣に
憂えていらっしゃる方がなるべきです」
そう言って海石は何かを期待するようにじっと泊瀬の顔を見る。泊瀬は居心地が悪そうに目を
逸らした。
「俺はべつに
国王の
御位なんて欲しくないって、前々から言ってるだろう。俺には他の氏族を制し
束ねる力など無い。
国王になったところで、氏族同士の権力争いの
駒にされるだけさ。それに俺はべつに
国王になってこの国を救いたいなんて大層なことを考えているわけじゃない。俺が救いたいのは……」
言いかけ、
泊瀬はハッとしたように俺と花夜を見た。
「
他国の神と巫女……。そうか、
水神様の
従神でない
他国の神ならば、あの御方をお救いすることが叶うかも知れない……」
そのあまりに熱を帯びた眼差しに、俺も花夜も戸惑う。
「あの御方……?お救いするとは、一体どういうことなのですか?」
「俺には、どうしてもお救いした方がいるんだ。その方は、光も差し込まぬ場所に閉じ込められて、誰にも声を聞いてもらえず、いつも泣いていらっしゃるんだ。俺はあの方を助けるためなら何を
棄てても構わない」
それまでとは打って変わった声で彼は言った。彼にとってその相手がどれほど大切なのかをまざまざと知らしめる、悲痛な声音だった。
「だが、俺の力ではあの方をお救いすることはできない。あの方は八乙女の
創った結界の内にいる。俺が
召び出せる神々は皆、
水神様と
縁ある神々ばかりで、水神様直属の巫女と
されている八乙女を裏切るようなことに手を貸してはくれない。だから、
霧狭司国とは縁の無い他国の神の力が必要なんだ」
「私たちが力をお貸しすれば、その方を救い出すことができるのですか?」
「ああ、きっと救い出せる。
他国の巫女にこのような頼み事をするのは本当に申し
訳無いのだが、俺にはもう、他に方法が無いんだ。どうか、力を貸してくれ!」
泊瀬はその場に
膝をつきかねない勢いで
懇願してくる。話の流れがおかしな方向へ行こうとしていることに気づき、俺は
慌てた。
「待て、花夜。お前まさか、手を貸す気が?八乙女が結界を張って封じ込めているような人物なのだぞ。国に相当な影響力を持つ人物に決まっている。
厄介事にわざわざ首を突っ込む気か?」
「でも、
泊瀬親王様は先ほど私達を助けてくださいました。その御恩に
報いねばならないと思いますし、それに……」
一旦言葉を切り、花夜は
悪戯っぽい
笑みを浮かべて俺を見た。
「ヤト様は御興味が
湧きませんか?八乙女が結界を張ってまで閉じ込めている方の正体が。見てみたいと思いませんか?そんな方をもし本当に救い出せるとしたら、その時この国に何が起こるのか……」
「……確かに、あの御方を解放すれば、この国の
政はひっくり返るでしょうね。代々の国王や八乙女が
謀ってきたことが
白日の
下に
晒されるのですから」
海石が冷静に
呟く。その言葉には、さすがに俺も興味がそそられた。
「それほどの重要人物なのか。お前達が救おうとしているのは一体どのような人間なのだ?」
その問いに、
泊瀬は苦笑して答えた。
「
人間ではない。――
神だ。俺が救おうとしている御方は、この国の
鎮守神でありこの世のあらゆる水を
統べる姫神・
水波女神。俺は物心ついた
頃から、ずっとあの方のことを
夢に
視てきたんだ」